1. この方の膝
一周目、冬の王宮。杯を干した私を、王太后が眺めている。飲み終えるまで待っていたその口が、ようやく開く。
「よく飲んだわね」
銀の杯の向こうで、義母フリデリケが微笑んでいる。
夫である若き王エドムントは、目を逸らしたまま何も言わない。
二十歳の冬、王妃の私は毒を盛られた。
寝床まで届くのは、病を案じる言葉ばかり。薬湯の匂いと冷えた敷布のあいだに、公爵が私に会わせろと求めているという知らせが、一度だけ混じる。誰も来ない扉を、私は見つめていた。
床に伏した七日のあいだ、宮廷で異を唱えたのは、北の〈人食い公爵〉ブルクハルト・ラーベンシュタインただ一人。
その方が反逆の罪で捕らえられたと聞いた夜、私は息を引き取った。
◇
目を開けると、八歳。
寝台から下ろした脚が短い。探るように伸ばして、やっと床へ素足が触れた。冷たい。窓の外では春の鳥が鳴いている。乳母が服を広げる。
「顔合わせに遅れますよ。お父様はもう王宮で、お金のお話をしていらっしゃいます。さ、腕をこちらへ。今日の髪は、うんときれいに結いますからね」
袖へ腕を通すと、亜麻色の巻き毛が襟に引っかかった。小さな手では、自分の髪ひとつうまく払えない。服の中で迷う腕を伸ばしながら、私は乳母を見上げる。
「今日は、わたしが返事をしたいです。誰かに決めてもらう前に、自分でお話しします。時間がかかっても、代わりに答えないでください。お願いします」
今日は王太子殿下との顔合わせの茶会で、父は娘を王家に売る算段に忙しい。
立つなり裾を踏みかけた。乳母が私の丸い頬を覗き込み、小さな鼻をちょんとつついてから襟を整える。
「若草色の目が、とろんとしてますよ。お返事は目が覚めてから。そんなに急いで大人にならなくても大丈夫。まずは、お足元をよく見てくださいな」
私は乳母の袖を握った。洗いたての布の匂いがする。あの冬の寝床では、誰の袖もつかめなかった。ほどこうとすると、かえって布を握り込んでしまう。
「起きています。支度は続けてください。……その袖は、馬車に乗るまでです。そこまでは、つかませてください」
なぜ戻れたのかは分からない。次は無いものとして、この短い手足で生きるしかないのだ。乳母の袖は温かい。本当のことを言えば、あの寝床の話まで口に出る。布のしわを直せないまま、乳母と馬車へ乗った。
◇
王宮の庭では、八歳の令嬢三人に母親たちが付き添っている。私の乳母は庭の外まで。礼を受ける王妃が赤金色の編み髪を傾けた。細い腰が折れ、長身の影が私にかかる。私はその影から靴を出せない。侍従が末席へ盆を向ける。
「陛下のお求めで、ラーベンシュタイン公爵にもお越しいただいております。皆さま、どうぞお席へ。お茶の用意も整っております」
殿下が淡金色の短髪を揺らし、長い脚で椅子を離れて手を出しかける。私はその向こうの公爵を見上げた。後ろへ流した黒髪の下で、顔がこちらを向く。肩幅だけでも椅子からはみ出す大男だ。噂では人を食うという人の隣には、誰も座っていない。
一周目、王妃になった私に、王太后は王宮で『あなたが選んだ形にしたのよ。内定とはそういうものなの』と笑った。あの茶会を、私もよく覚えている。差し出された手を取ればいい。それだけを教えられていた。
今の王妃は椅子の脇を示し、深緑色の目で返事を促す。甘い香油の匂いが、茶の湯気に混じる。
「こちらへ、オディリア。殿下を待たせては可哀想でしょう。あなたに会うのを、それは楽しみにしていたのよ。さあ、お顔を上げてちょうだい」
靴の先が止まった。あの杯はない。声が同じだ。優しく笑う口元まで、あの冬と少しも変わらない。開きかけた口を閉じ、私はやっと声を出す。
「……怖いのです。返事を急がせないでください。皆さまが待っていても、すぐには言えません。わたしの口で言うまで、待っていただけますか?」
王妃は柔らかな頬を緩めたまま、薄い唇を開く。
「皆さまが楽しみにしているのに、困らせないでちょうだい。怖がるようなことは、何もないでしょう? 殿下にも失礼になってしまうわ」
私は母親たちの膝に重なる手を見た。自分の手の置き場は、ない。服を握るとしわになる。だから両手をぴったり重ねる。
「失礼はしたくありません。でも、怖くないと言われても、足が動きません。そばへ行く方は、わたしが決めたいです。……わがままでも、そうしたいです」
王妃の笑みは動かない。こちらへ差し向けた手も、そのままだ。
「殿下は優しい方なのよ。あなたが手を取れば、それでよいの。難しく考えることではないでしょう? 皆さまを安心させてちょうだい」
私は重ねていた手を離した。
「嫌だと言ったら、困らせることになるのですか? わたしが、お返事をします!」
言い終えて、私は口を押さえる。八歳の声は、思ったよりずっと大きく庭に響いた。王妃の爪が椅子の縁にかかる。
「大きな声を出さなくても聞こえます。礼を忘れてはいけませんよ。皆さまもご覧なのですから。きちんとお話しできるでしょう?」
私は口を覆っていた手を下ろす。今度は、声を小さくするところからだ。
「はい。大きな声は、ごめんなさい。……では、皆さまの前で伺います。そばにいたい方を、自分で選んでもよいですか? わたしの望む方で、よいのですか?」
侍従が盆を持つ手を止める。王妃は満座へ顔を向けた。
「もちろん。本人が選んでよいのです。無理強いなどいたしません。オディリア、あなたが望む方のそばへいらっしゃい」
私は公爵のいる末席へ体を向ける。
「ありがとうございます。決めました。自分で行きますので、そのまま見ていてください」
王太子の婚約者は、八歳の顔合わせの茶会で内定する。
殿下が手を伸ばす。私に届くよう、少しかがんだ姿勢だ。
「母上が……いえ、僕が案内するよ。こちらへ来てくれるかな? 庭の奥に、君の席もあるんだ。急がなくていいから、一緒に行こう」
その手の前を通り過ぎ、公爵の膝に手を掛ける。高い。服ばかり引っ張って、短い脚では届かない。公爵が黙って腰を低くすると、登れる高さに膝が来る。
茶会の庭で、私は王太子の差し出した手を素通りし、末席にいた黒衣の公爵の膝によじ登った。
黒衣をつかんだまま、私は顔を上げる。口を開けば泣き声が出そうで、言うことだけを、しっかり口の中で形にする。
「わたし、この方のお家の子になります」
王妃の笑みが止まる。盆も鳴らない。風に揺れていた茶の湯気さえ、止まって見える。殿下は空いた手を下げ、幼い頬をこわばらせて空色の目を伏せた。その下がり眉に何も言えない。今の殿下は、あの夫ではないのだ。
凍りつく庭で、公爵は膝の上の私を見下ろし、一言だけ告げる。
「……理由は、大きくなってから聞こう」
低い声だ。どうして、あの方だけが異を唱えたのか。訊けない。固まった背を、大きな手が支えた。私はその手に寄りかかりかけて、慌てて背筋を伸ばす。王妃が腰を浮かせる。
「そこへ行くとは聞いていません! オディリア、降りなさい。わたくしの話が分からなかったの?」
私は外套を握った。黒い布の下で、心臓の音がうるさい。膝から滑らないように、足まで縮める。
「……選んでよいと仰ったのは王妃さまです。わたし、この方のそばにいたいのです。笑われても、ここがいいです。お願いします。降ろさないでください」
王妃が令嬢たちと母親たちを見回した。誰も手を差し出さない。やがて、その口元に笑みが戻る。
「ほほ、子供の戯れですものね。そんなにしがみつかなくても、誰も取り上げはしませんよ。泣かれては公爵もお困りでしょう。皆さま、お茶を続けましょう」
公爵は答えず、私の背から手を離さない。私は遠い皿を見た。焼き菓子の甘い匂いに、口の中が勝手に緩む。言うべきことはもっとあるのに、目が皿から戻らない。
「公爵さま、ここで焼き菓子をいただいてもよいですか? 降りると、また登れなくなります。礼は尽くしますので、足の短さはお許しください。……こぼさないように、気をつけます」
黙って皿が寄る。公爵が角張った顎を引くと、琥珀色の目の上で濃い眉が緩んだ。私は菓子をかじる。焼き色のついた縁がほろりと崩れ、蜂蜜の甘さが舌に広がった。下ろされた殿下の手を見ないまま、床に届かない足がぶらぶらする。私は菓子を持つ手を止め、公爵を見上げる。
「オディリア・リーベナウです。座らせてくださって、ありがとうございます。重くなったら、お知らせください。……公爵さまのお膝、あったかいです」
名を聞いた公爵が小さく頷いた。外套の温かさは、膝から背中まである。あの寝床の冷たさが、少しずつほどけていく。こぼした欠片を拾おうと傾くと、支える手もついてきた。私は菓子をのみこみ、大きな顔を見上げる。
「今度は、私があなたを守る番です」




