第八章 賢治が語る夜
五月の中頃。
夜、あゆむが寝て、はるかが部屋に引きこもってから、賢治とあかねだけがリビングに残ることが増えていた。
最初は、賢治が水を飲みに来るだけだった。
それが、少し話すようになった。
それが、少し長くなっていった。
賢治自身、気づいたらそうなっていた。
――
ある夜。
賢治がリビングで電話をしていた。
大学時代の友人からだった。久しぶりの電話で、声が弾んでいた。
あかねはキッチンで洗い物をしていた。水を止めれば、賢治の声が聞こえる距離だった。
「いや、最近はけっこう楽になったよ。うちで暮らしてるあかねが家事を全部やってくれるから——」
あかねの手が、皿の上で止まった。
「ああ、最新のやつ。第三世代。いや、すごいぞ。料理もうまいし、洗濯も掃除も完璧だし。子どもたちの面倒も見てくれて——」
賢治の声は、明るかった。新しい家電の話をするのと同じ調子だった。
「特注でな。顔を——まあ、色々あって。いや、本当に便利だよ。もっと早く買えばよかった」
あかねは、水をもう一度出した。
皿を洗った。
丁寧に、いつも通りに。
賢治の電話が終わった後、足音がキッチンに近づいてきた。
「あかね、コーヒー飲むか」
「いれましょうか」
「ああ、頼む」
あかねはコーヒーを淹れた。
カップを差し出す時、賢治の顔を見た。
いつもの顔だった。穏やかで、少し疲れていて、でも優しい目。
この人は、さっき自分のことを「うちで暮らしてるあかね」と呼んだ。
悪気はなかった。社会的にはそう説明するのが自然だ。友人に「あかね」と紹介する方が、むしろ奇妙だろう。
正しかった。
正しいのに——
この人の前では「あかね」で、他の人の前では「うちで暮らしてるあかね」で。
自分には二つの名前があるのだということを、今夜、初めて知った。
――
その夜も、あゆむが先に寝た。
寝る前に、あかねに向かって「明日の朝、フレンチトースト」とだけ言って、返事を待たずに部屋に消えた。あかねが「はい」と言った時には、もうドアが閉まっていた。
はるかの部屋からは、音がしなかった。
賢治はソファに座って、缶ビールを開けていた。
あかねが、向かいの椅子に静かに座っていた。髪を下ろしていた。顎の下で揃えた短い黒髪が、テレビの光を受けて艶やかに光っていた。以前より短くなった髪は、もう束ねる必要がなかった。
しばらく、テレビの音だけが流れていた。
「あかね」
「はい」
「お前は——本物のあかねのことを、どのくらい知っている」
あかねは少し間を置いてから、答えた。
「製造時に入力されたデータと、この家で聞いたことだけです」
「そうか」
賢治は、ビールを一口飲んだ。
「話してやろうか」
「……聞かせてもらえますか」
賢治は、天井を見た。
どこから話せばいいか、しばらく考えた。
「あかねに初めて会ったのは——俺が二十六の時だった」
――
話は、長くなった。
最初に見かけたのは、会社の近くの喫茶店だった。友人と笑いながら入ってきた。その瞬間、賢治は目が離せなくなった。
声をかけるまでに、三回同じ店で見かけた。
「勇気を出して声をかけたら、思いっきり無視された」
賢治が、苦く笑った。
「それでも諦めなかったのか」
あかねが聞いた。
「諦めたら後悔すると思った。それだけだ」
その後も、何度も声をかけた。何度も断られた。でも賢治は諦めなかった。
「ある日、あかねが言ったんだ。『あなたって、本当にしつこいのね』って。怒ってるんじゃなくて、呆れた顔で。その顔が——なんか、可愛くてな」
あかねは、静かに聞いていた。
「それから?」
「それから、少しずつ話すようになった。映画を観に行った。飯を食いに行った。気づいたら——付き合っていた」
賢治は、ビールを置いた。
「あかねは、その頃、モデルの仕事が来るようになっていた。事務所からも声がかかっていた。俺は——正直、怖かった」
「怖かった?」
「あかねがどんどん遠くに行くような気がして。俺なんかじゃ、釣り合わなくなるんじゃないかって」
あかねは、何も言わなかった。
「プロポーズしたのは——半分は愛情で、半分は怖かったからかもしれない」
賢治が、静かに言った。
「あかねは、全部捨てて、俺を選んでくれた。その重さを——俺はちゃんとわかっていなかった」
リビングに、沈黙が落ちた。
テレビの音が、遠くに聞こえた。
「子どもが生まれてから、仕事が忙しくなった。気づいたら、家に帰るのが遅くなっていた。あかねが何かを言いたそうにしていても、疲れているからと後回しにした。また今度、また今度って——」
賢治の声が、かすかに揺れた。
「また今度が、来なかった」
あかねは、賢治を見ていた。
「後悔していますか」
「……ずっとだ」
賢治は、目を閉じた。
「毎日、ずっとだ」
――
その夜遅く。
あかねは休息に入った。
賢治の言葉が、まだ耳の中にあった。
また今度が、来なかった。
毎日、ずっとだ。
あかねは目を閉じた。
夢の中に、入っていった。
――
今夜の夢は、昼間だった。
小さなアパートのリビングだった。
窓から、団地の景色が見えた。
テーブルに、二人分の食器があった。
向かいに、女が座っていた。
成人式の振袖じゃなかった。
白いワンピースだった。髪を少し短くしていた。目元が、前に会った時より少し柔らかかった。
二十代の後半——結婚したばかりの頃の、本物のあかねだった。
女は、コーヒーを両手で包んで、窓の外を見ていた。
「また来たの」
あかねに気づいて、女が言った。
「はい」
「今日は何を聞きに来たの」
「聞きに来たわけでは——」
「嘘。あなたの顔、そう書いてある」
あかねは、黙った。
女は、窓の外を見たまま言った。
「幸せだったよ、この頃は」
「……そうですか」
「賢治さん、不器用だけど、一生懸命だったから。休みの日は一緒にいてくれたし。はるかが生まれた時、泣いてたし」
女が、少し笑った。
「泣き虫なのよ、あの人。知ってた?」
あかねは、知らなかった。
「この頃はまだ、大丈夫だった」
女の声が、少しだけ遠くなった。
「この頃は、まだ——」
窓の外で、風が吹いた。
カーテンが、揺れた。
女の横顔が、光の中にあった。
幸せそうで、でも——どこか、儚かった。
――
あかねは、目を開けた。
夜の街が、窓の外にあった。
この頃は、まだ大丈夫だった。
その言葉が、胸の中に残っていた。
日記で、その先は読んでいた。でも——文字ではなく、声で聞くのは、違った。
あかねは、しばらく動かなかった。
――




