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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第二幕
8/13

第七章 引き出しの中の人

五月になった。

千歳烏山の並木が、青々と葉を広げていた。

桜木家に、あかねが来て二ヶ月が経った。

朝食は毎日作った。洗濯は毎日した。掃除は隅々まで行き届いた。あゆむは毎日話しかけてきた。学校であったこと、友達のこと、昨日見たテレビのこと。あかねが聞き返すと嬉しそうに最初から説明し直した。賢治は毎晩、少しだけ長くキッチンに立ち寄るようになった。用があるわけではなかった。水を飲むだけだった。でも、あかねが洗い物をしている横で、なぜかすぐに立ち去れなかった。本人は、それに気づいていなかった。はるかは、まだ目を合わせなかった。でも、食事を残したことは一度もなかった。

ある朝、あゆむが朝食の席であかねの髪を見た。

「あかねさん、髪短くなった?」

「……少し、切りました」

「へー。似合うじゃん! お姉ちゃんより似合う」

はるかが、無言であゆむの頭を叩いた。

あかねには、それで十分だった。

今は、まだ。


――


その日、あかねは午後の掃除をしていた。

賢治は仕事。あゆむは学校。はるかも学校。

静かな家の中で、あかねは一人で掃除機をかけ、窓を拭き、棚の埃を払った。

寝室の掃除をしていた時だった。

クローゼットの奥に、段ボール箱があった。

埃が積もっていた。随分長い間、開けられていない様子だった。

あかねは、箱の表面を拭いた。

ガムテープで封をされていたが、端が剥がれかけていた。

側面に、マジックで小さく書いてあった。

「あかねの荷物 ●●年」

あかねは、その文字を見た。

しばらく、動かなかった。

 あかね。

自分と、同じ名前。

そして——自分が模されている人間の名前。

あかねは、箱をそっとクローゼットの外に出した。

開けるべきかどうか、少し考えた。

でも——掃除の途中で埃が出ては困る、という判断で、そっとガムテープを剥がした。

自分に、そう言い聞かせた。


――


箱の中には、色々なものが入っていた。

古いアルバム。結婚式のパンフレット。子どもたちが幼い頃に描いた絵。

そして——

一番下に、小さなノートが数冊、重なっていた。

表紙に、日付が書いてあった。

一番古いものは、十五年前だった。

一番新しいものは——四年前。あかねが亡くなった年だった。

あかねは、ノートを手に取った。

開くべきではないかもしれない。

でも——

 この家の人たちのことを、もっと知りたい。

その感情が、あかねの中に確かにあった。

あかねは、一番古いノートを、そっと開いた。


――


文字は、丸くて柔らかかった。

若い頃の、本物のあかねの字だった。

最初の数ページは、日常のことが書いてあった。友人との食事。好きなドラマ。買ったばかりの服のこと。

それから——賢治のことが、出てきた。

また会った。例の人。またしつこく声をかけてきた。でも今日は少し笑ってしまった。なんでだろう。

少し後のページ。

賢治さんと、映画を観た。帰り道に手を繋いだ。なんか、ドキドキした。機械みたいな人だと思ってたのに。

さらに後のページ。

賢治さんが、プロポーズしてくれた。モデルの仕事が少しずつ来るようになってきた頃だった。どうしようか、ずっと考えた。でも——この人と一緒にいたいと思った。それだけで、十分な気がした。

あかねは、ページをめくる手を止めた。

 モデルの仕事が、来るようになってきた頃。

賢治に聞いていた。本物のあかねは、モデルにも女優にもなれたはずだったと。

 それでも、賢治を選んだ。

あかねは、その文字を静かに見つめた。


――


日記は、結婚してからも続いていた。

最初の数年は、幸せそうだった。

賢治とのこと。はるかが生まれたこと。あゆむが生まれたこと。小さな幸せが、丸い文字で綴られていた。

でも——

少しずつ、文字が変わっていった。

賢治さん、また帰りが遅かった。最近、顔を見ていない気がする。

はるかが熱を出した。一人で病院に連れて行った。賢治さんは仕事だった。

今日、昔の友人から連絡が来た。モデルの仕事の話だった。断った。でも——少しだけ、迷った。迷ったことが、なんだか悲しかった。

あかねは、ページをめくるのが、だんだん遅くなっていった。

文字が、小さくなっていた。

最近、何のために毎日を過ごしているのか、わからなくなることがある。はるかのためだ、と思う。あゆむのためだ、と思う。でも——わたし自身は、どこにいるんだろう。

賢治さんに話しかけようとした。でも、疲れた顔をしていたから、やめた。また今度、と思った。また今度が、もう何回続いているだろう。

あかねは、ノートを閉じた。

しばらく、膝の上でそれを抱えていた。

 孤独だったんだ。

あかねは、ノートを箱に戻した。

丁寧に、元の通りに。

そしてガムテープを貼り直して、クローゼットの奥に戻した。

埃を、もう一度丁寧に拭いた。


――


その夜。

あかねは休息に入った。

目を閉じると——

夢を、見た。

明るいカフェだった。

窓から、春の光が差し込んでいた。

向かいに、女が座っていた。

黒い髪。茶色い目。丸くて柔らかい笑顔。

二十歳くらいだった。

成人式の振袖を着ていた。

女が、コーヒーを一口飲んで、あかねを見た。

「あなたが、あたしの代わりなの?」

あかねは、答えられなかった。

女は、怒っていなかった。

ただ、穏やかに、あかねを見ていた。

「変なの」

そう言って、また窓の外を見た。

春の光の中で、女の横顔が、輝いていた。


――


あかねは、目を開けた。

リビングの窓から、夜の街が見えた。

夢の中の女の顔が、まだ目の奥に残っていた。

コーヒーを飲みながら、穏やかに笑っていた、あの顔が。

 もう一度、会いたい。


――


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