第七章 引き出しの中の人
五月になった。
千歳烏山の並木が、青々と葉を広げていた。
桜木家に、あかねが来て二ヶ月が経った。
朝食は毎日作った。洗濯は毎日した。掃除は隅々まで行き届いた。あゆむは毎日話しかけてきた。学校であったこと、友達のこと、昨日見たテレビのこと。あかねが聞き返すと嬉しそうに最初から説明し直した。賢治は毎晩、少しだけ長くキッチンに立ち寄るようになった。用があるわけではなかった。水を飲むだけだった。でも、あかねが洗い物をしている横で、なぜかすぐに立ち去れなかった。本人は、それに気づいていなかった。はるかは、まだ目を合わせなかった。でも、食事を残したことは一度もなかった。
ある朝、あゆむが朝食の席であかねの髪を見た。
「あかねさん、髪短くなった?」
「……少し、切りました」
「へー。似合うじゃん! お姉ちゃんより似合う」
はるかが、無言であゆむの頭を叩いた。
あかねには、それで十分だった。
今は、まだ。
――
その日、あかねは午後の掃除をしていた。
賢治は仕事。あゆむは学校。はるかも学校。
静かな家の中で、あかねは一人で掃除機をかけ、窓を拭き、棚の埃を払った。
寝室の掃除をしていた時だった。
クローゼットの奥に、段ボール箱があった。
埃が積もっていた。随分長い間、開けられていない様子だった。
あかねは、箱の表面を拭いた。
ガムテープで封をされていたが、端が剥がれかけていた。
側面に、マジックで小さく書いてあった。
「あかねの荷物 ●●年」
あかねは、その文字を見た。
しばらく、動かなかった。
あかね。
自分と、同じ名前。
そして——自分が模されている人間の名前。
あかねは、箱をそっとクローゼットの外に出した。
開けるべきかどうか、少し考えた。
でも——掃除の途中で埃が出ては困る、という判断で、そっとガムテープを剥がした。
自分に、そう言い聞かせた。
――
箱の中には、色々なものが入っていた。
古いアルバム。結婚式のパンフレット。子どもたちが幼い頃に描いた絵。
そして——
一番下に、小さなノートが数冊、重なっていた。
表紙に、日付が書いてあった。
一番古いものは、十五年前だった。
一番新しいものは——四年前。あかねが亡くなった年だった。
あかねは、ノートを手に取った。
開くべきではないかもしれない。
でも——
この家の人たちのことを、もっと知りたい。
その感情が、あかねの中に確かにあった。
あかねは、一番古いノートを、そっと開いた。
――
文字は、丸くて柔らかかった。
若い頃の、本物のあかねの字だった。
最初の数ページは、日常のことが書いてあった。友人との食事。好きなドラマ。買ったばかりの服のこと。
それから——賢治のことが、出てきた。
また会った。例の人。またしつこく声をかけてきた。でも今日は少し笑ってしまった。なんでだろう。
少し後のページ。
賢治さんと、映画を観た。帰り道に手を繋いだ。なんか、ドキドキした。機械みたいな人だと思ってたのに。
さらに後のページ。
賢治さんが、プロポーズしてくれた。モデルの仕事が少しずつ来るようになってきた頃だった。どうしようか、ずっと考えた。でも——この人と一緒にいたいと思った。それだけで、十分な気がした。
あかねは、ページをめくる手を止めた。
モデルの仕事が、来るようになってきた頃。
賢治に聞いていた。本物のあかねは、モデルにも女優にもなれたはずだったと。
それでも、賢治を選んだ。
あかねは、その文字を静かに見つめた。
――
日記は、結婚してからも続いていた。
最初の数年は、幸せそうだった。
賢治とのこと。はるかが生まれたこと。あゆむが生まれたこと。小さな幸せが、丸い文字で綴られていた。
でも——
少しずつ、文字が変わっていった。
賢治さん、また帰りが遅かった。最近、顔を見ていない気がする。
はるかが熱を出した。一人で病院に連れて行った。賢治さんは仕事だった。
今日、昔の友人から連絡が来た。モデルの仕事の話だった。断った。でも——少しだけ、迷った。迷ったことが、なんだか悲しかった。
あかねは、ページをめくるのが、だんだん遅くなっていった。
文字が、小さくなっていた。
最近、何のために毎日を過ごしているのか、わからなくなることがある。はるかのためだ、と思う。あゆむのためだ、と思う。でも——わたし自身は、どこにいるんだろう。
賢治さんに話しかけようとした。でも、疲れた顔をしていたから、やめた。また今度、と思った。また今度が、もう何回続いているだろう。
あかねは、ノートを閉じた。
しばらく、膝の上でそれを抱えていた。
孤独だったんだ。
あかねは、ノートを箱に戻した。
丁寧に、元の通りに。
そしてガムテープを貼り直して、クローゼットの奥に戻した。
埃を、もう一度丁寧に拭いた。
――
その夜。
あかねは休息に入った。
目を閉じると——
夢を、見た。
明るいカフェだった。
窓から、春の光が差し込んでいた。
向かいに、女が座っていた。
黒い髪。茶色い目。丸くて柔らかい笑顔。
二十歳くらいだった。
成人式の振袖を着ていた。
女が、コーヒーを一口飲んで、あかねを見た。
「あなたが、あたしの代わりなの?」
あかねは、答えられなかった。
女は、怒っていなかった。
ただ、穏やかに、あかねを見ていた。
「変なの」
そう言って、また窓の外を見た。
春の光の中で、女の横顔が、輝いていた。
――
あかねは、目を開けた。
リビングの窓から、夜の街が見えた。
夢の中の女の顔が、まだ目の奥に残っていた。
コーヒーを飲みながら、穏やかに笑っていた、あの顔が。
もう一度、会いたい。
――




