第六章 真彩の罠
四月の終わり。
池田真彩は、デスクの引き出しを開けて、小さなメモを取り出した。
書いてあるのは、三つのことだった。
一つ目。あかねの「問題行動」を作り出す。
二つ目。賢治の信頼を崩す。
三つ目。はるかを味方につける。
真彩は、メモを折りたたんで、また引き出しにしまった。
順番通りに、やればいい。
――
最初の罠は、些細なことから始まった。
ある平日の夜、真彩は残業帰りを装って、桜木家に立ち寄った。
「部長、近くまで来たので資料を届けようかと思って」
賢治が玄関に出てきた。
「わざわざすまない。上がるか?」
「少しだけ」
リビングに入ると、あかねがキッチンで夕食の片付けをしていた。
賢治がトイレに立った。
その一分間を、真彩は待っていた。
「あかねさん」
「はい」
「お願いがあるの。今日はわたしがキッチンに立つわ。あなたは座っていて」
あかねは、少し間を置いた。
「でも、片付けがまだ——」
「いいから。座って」
命令だった。
あかねは、布巾を置いた。
真彩はキッチンに入り、手際よく残りの食器を洗い始めた。お茶を淹れ、テーブルに置いた。
賢治が戻ってきた時、目に入ったのは——キッチンに立つ真彩と、ソファに座ったまま何もしていないあかねだった。
「……あかね、何してるんだ」
あかねは、答えに詰まった。
真彩に座っていろと言われた。それは命令だった。でも、賢治の前でそれを言えば、真彩の立場が悪くなる。
あかねには——人間同士の関係を壊す方向に動くことが、できなかった。
「……すみません」
それだけ言った。
賢治の目が、一瞬冷たくなった。
真彩は、お茶を賢治に差し出しながら、小さく笑った。
「あかねさん、疲れてるのかもしれませんね。わたしがいる間は、休んでいていいのに」
その声は、優しかった。
第一歩。
帰り道、商店街を歩きながら、今夜のことを整理した。
あかねは、真彩の命令を賢治に言えなかった。足かせがある。人間同士の関係を壊す方向には動けない。
何度でもやれる。
真彩は、コートの襟を立てた。
春の夜風が、まだ冷たかった。
――
数日後の水曜日。
真彩は残業帰り、駅前のカフェにあかねを呼び出した。
「賢治さんの健康診断の結果を共有したくて。家で話すより、外の方がいいかなと思って」
あかねはカフェに入った。真彩が奥のテーブルで手を振っていた。
座った。コーヒーが出てきた。
真彩は、健康診断の話を少しした。コレステロール値が少し高いこと。食事を気をつけた方がいいこと。あかねは、要点を内部メモリに記録した。
話が終わった頃、真彩がコーヒーを一口飲んで、何気ない口調で言った。
「ねえ、あかねさん。前から気になってたんだけど」
「はい」
「あなたって、いくらしたの」
あかねの手が、カップの上で止まった。
「値段。製造コスト。賢治さんがいくら払ったのか、知ってる?」
あかねは、少し間を置いた。
命令だった。質問の形をしていたが、答えを求めている以上、人間の問いかけに応じなければならなかった。
「本体価格は、四百二十万円です」
声に出すと、自分の中で何かが冷たくなった。
「追加料金が発生しています。顔の特注仕様で五十万円。身体の各部位の細部指定で——」
「各部位って?」
真彩が、少し前のめりになった。
あかねは、答えた。
「身長。体のライン。胸のサイズ。鎖骨や首筋の細さ。すべて、ご主人様が指定されました」
声は平坦だった。データを読み上げているだけだった。
でも——自分の身体の各部が、値札のついた商品のように並べられていく感覚があった。
それが何なのか、あかねにはまだわからなかった。
真彩は、テーブルの下で指を組んでいた。
「合計で?」
「五百三十万円です。メンテナンス契約が年間二十四万円」
「五百三十万か」
真彩が、窓の外を見た。
「車一台分くらいね」
あかねは、何も言わなかった。
真彩は、コーヒーを飲み干した。
「ごめんね、変なこと聞いて。ただ——気になっちゃって。高い買い物だなあって」
笑顔だった。
悪意のない、軽い笑顔だった。
あかねは、帰り道の商店街を一人で歩いた。
自分の足が、アスファルトを踏む音を聞いていた。
四百二十万円。
追加料金、五十万円。
胸のサイズ。鎖骨の細さ。
自分の口から出た言葉が、まだ耳の中に残っていた。
あかねは、歩きながら自分の手を見た。
この手にも、値段がある。
この指にも、この肌にも。
全部に。
――
次の週末。
真彩はまた桜木家を訪ねた。
手土産のシュークリームを持って、何気ない顔で玄関に立った。あゆむが喜んで飛びついてきた。賢治はリビングで仕事をしていた。
あかねがキッチンでお茶を淹れている間、真彩はそっとキッチンに入った。
「あかねさん」
「はい」
「髪、きれいね。手入れもするの?」
「いえ。特には」
「ちょっと見せて」
真彩が、あかねの髪に手を伸ばした。
あかねは動かなかった。
人間の手が伸びてきた時、避ける理由がなかった。
真彩の指が、あかねの左の耳の後ろの髪をすくった。
「……ここ、何かついてる。取ってあげる」
真彩は、エプロンのポケットから小さなハサミを出した。
自分で持ってきたものだった。
「じっとしてて」
あかねは動かなかった。
ざく、と音がした。
一房分の髪が、床に落ちた。
真彩が取ったのは、耳の後ろの一房だけではなかった。ハサミの角度が深すぎた。左の襟足から耳の上にかけて、はっきりとわかるほど短くなっていた。
「あ——ごめん」
真彩が、口元を手で覆った。
「絡まってて、取ろうとしたら——ごめんなさい、こんなに切るつもりじゃなかった」
声が、少し震えていた。まるで本当に動揺しているように聞こえた。
あかねは、床に落ちた髪を見た。
黒くて、艶があって、長い束だった。
「大丈夫です」
あかねは、そう言った。
「髪は、伸びますから」
言ってから——気づいた。
伸びない。
自分の髪は、伸びない。
その事実が、声に出してから、あかねの中に落ちてきた。
真彩は、床に落ちた髪の束を拾い上げた。
「本当にごめんね。ドライヤーで乾かしてる時に変な癖がついちゃったのかなと思って——」
「いえ。お気になさらず」
あかねは、お茶をトレーに載せて、リビングに向かった。
歩きながら、左手が無意識に、切られた側の髪に触れた。
指が、短くなった毛先に当たった。
すかすかだった。
リビングで、あゆむがシュークリームを頬張っていた。
「あかねさん、一緒に食べよ!」
「ありがとうございます。後でいただきますね」
あかねはお茶を配って、キッチンに戻った。
真彩は、もうリビングのソファに座っていた。賢治の隣で、何かを笑いながら話していた。何事もなかったように。
――
その夜。
あかねは、洗面所の鏡の前に立った。
左側の髪が、明らかに短かった。
右側は肩甲骨の下まであるのに、左側は顎のあたりで終わっていた。
あかねは、切られた部分に触れた。
毛先が、不揃いだった。ハサミで一気に切られた跡が、そのまま残っていた。
人間の髪なら、伸びる。
あかねの髪は、伸びない。
切られたら、そのままだった。
あかねは鏡の中の自分を見た。
左右で長さの違う、不揃いな黒髪。
本物のあかねの写真を、何度か見たことがあった。賢治の書斎に飾ってあった。結婚式の写真。旅行の写真。どれも、長くて艶やかな黒髪だった。
賢治が——あの髪に、恋をしていた。
あかねは、ハサミを手に取った。
右側の髪を、左側に合わせて切った。
肩甲骨の下まであった髪が、顎の下で揃った。
切り落とした髪が、洗面台の縁に落ちた。
短くなった。
あかねは、鏡をもう一度見た。
別の人間がそこにいた。
本物のあかねと同じ顔をしているのに、本物のあかねとは違う姿になった。
それが——
正しいのかもしれない。
あかねは、落ちた髪を丁寧に集めて、ゴミ袋に入れた。
洗面台を拭いた。ハサミを戻した。
全部、きれいにした。
リビングに戻って、目を閉じた。
今夜の休息は、なかなか来なかった。
――
それから数日後。
桜木家の近くを通りかかったついでを装って、真彩ははるかに連絡を入れた。
「はるかちゃん、久しぶり。今日、時間ある? 近くにケーキ屋さんができたの。二人で行かない?」
しばらくして、返信が来た。
「行く」
真彩は、スマートフォンを閉じた。
はるかちゃんは、まだわたしの味方だ。
――
商店街の新しいカフェに入って、向かい合って座った。
「最近どう? 学校は?」
「まあ、普通です」
「あかねさんとは、どう?」
はるかの表情が、かすかに固まった。
「……別に」
「そっか」
真彩は、紅茶を一口飲んだ。
「あのね、はるかちゃんに言おうか迷ったんだけど——」
「何ですか」
「先週、あかねさんに電話したのね。お父さんへのプレゼントを一緒に考えてほしくて」
「はあ」
「そうしたら、あかねさんが言ったの。『賢治さんは、真彩さんのことを、少し重いと思っているようです』って」
はるかが、目を細めた。
「……本当に?」
「驚いたでしょ。わたしも驚いた。アンドロイドって、そういうことも言うのかなって」
「……」
「まあ、本当のことかもしれないけどね」
真彩は、軽く笑った。
「でも、ちょっと傷ついちゃった。機械に言われるとは思わなかったから」
はるかは、ケーキを一口食べながら、黙っていた。
その目が、少し揺れていた。
刺さった。
真彩は、紅茶を静かに飲んだ。
――
その夜。
はるかは部屋で、天井を見ていた。
真彩さんが言ったことが、頭から離れなかった。
賢治さんは、真彩さんのことを、少し重いと思っているようです。
あかねが、そんなことを言うだろうか。
言いそうだ、とも思った。機械だから、思ったことをそのまま言うかもしれない。
でも——
本当に言ったのか。
はるかは、布団を抱えた。
わからなかった。
確かめる方法も、なかった。
ただ——
真彩さんが傷ついた顔をしていた。
それは本当のことだった。
はるかは目をつぶった。
あかねのことが、また少しわからなくなった。
――
翌朝。
はるかは朝食の時間、いつもより口数が少なかった。
あかねが、味噌汁を置いた。
はるかは、受け取らなかった。
「……いらない」
「そうですか」
あかねは、黙って椀を引いた。
賢治が、はるかを見た。
「どうした」
「別に」
はるかは立ち上がって、自分の部屋に戻った。
廊下に出てから——ふと、足が止まった。
キッチンから、あかねの声がした。
賢治に向かって、静かに言っていた。
「はるかさんの椀、冷めないように温めておきます。後で食べるかもしれないので」
はるかは、廊下でしばらく止まっていた。
真彩さんのことを、重いと言った人間が——
そんなことを、言うか。
部屋に戻って、ドアを閉めた。
胸の中で、何かが揺れていた。
怒りなのか、混乱なのか。
それとも——
本当のことを、確かめたい。
そう思い始めていた。
――
その夜、あかねは休息に入る前に、窓の外に目を向けた。
はるかが、廊下で止まっていたことは、気配でわかっていた。
タオルの夜も。リンゴの昼も。そして今朝も。
少しずつ、少しずつ。
何かが、動いている。
四月の夜空に、雲はなかった。
はるかの部屋の電気が、まだ消えていなかった。
――




