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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第一幕
7/13

第六章 真彩の罠

四月の終わり。

池田真彩は、デスクの引き出しを開けて、小さなメモを取り出した。

書いてあるのは、三つのことだった。

一つ目。あかねの「問題行動」を作り出す。

二つ目。賢治の信頼を崩す。

三つ目。はるかを味方につける。

真彩は、メモを折りたたんで、また引き出しにしまった。

 順番通りに、やればいい。


――


最初の罠は、些細なことから始まった。

ある平日の夜、真彩は残業帰りを装って、桜木家に立ち寄った。

「部長、近くまで来たので資料を届けようかと思って」

賢治が玄関に出てきた。

「わざわざすまない。上がるか?」

「少しだけ」

リビングに入ると、あかねがキッチンで夕食の片付けをしていた。

賢治がトイレに立った。

その一分間を、真彩は待っていた。

「あかねさん」

「はい」

「お願いがあるの。今日はわたしがキッチンに立つわ。あなたは座っていて」

あかねは、少し間を置いた。

「でも、片付けがまだ——」

「いいから。座って」

命令だった。

あかねは、布巾を置いた。

真彩はキッチンに入り、手際よく残りの食器を洗い始めた。お茶を淹れ、テーブルに置いた。

賢治が戻ってきた時、目に入ったのは——キッチンに立つ真彩と、ソファに座ったまま何もしていないあかねだった。

「……あかね、何してるんだ」

あかねは、答えに詰まった。

真彩に座っていろと言われた。それは命令だった。でも、賢治の前でそれを言えば、真彩の立場が悪くなる。

あかねには——人間同士の関係を壊す方向に動くことが、できなかった。

「……すみません」

それだけ言った。

賢治の目が、一瞬冷たくなった。

真彩は、お茶を賢治に差し出しながら、小さく笑った。

「あかねさん、疲れてるのかもしれませんね。わたしがいる間は、休んでいていいのに」

その声は、優しかった。

 第一歩。

帰り道、商店街を歩きながら、今夜のことを整理した。

あかねは、真彩の命令を賢治に言えなかった。足かせがある。人間同士の関係を壊す方向には動けない。

 何度でもやれる。

真彩は、コートの襟を立てた。

春の夜風が、まだ冷たかった。


――


数日後の水曜日。

真彩は残業帰り、駅前のカフェにあかねを呼び出した。

「賢治さんの健康診断の結果を共有したくて。家で話すより、外の方がいいかなと思って」

あかねはカフェに入った。真彩が奥のテーブルで手を振っていた。

座った。コーヒーが出てきた。

真彩は、健康診断の話を少しした。コレステロール値が少し高いこと。食事を気をつけた方がいいこと。あかねは、要点を内部メモリに記録した。

話が終わった頃、真彩がコーヒーを一口飲んで、何気ない口調で言った。

「ねえ、あかねさん。前から気になってたんだけど」

「はい」

「あなたって、いくらしたの」

あかねの手が、カップの上で止まった。

「値段。製造コスト。賢治さんがいくら払ったのか、知ってる?」

あかねは、少し間を置いた。

命令だった。質問の形をしていたが、答えを求めている以上、人間の問いかけに応じなければならなかった。

「本体価格は、四百二十万円です」

声に出すと、自分の中で何かが冷たくなった。

「追加料金が発生しています。顔の特注仕様で五十万円。身体の各部位の細部指定で——」

「各部位って?」

真彩が、少し前のめりになった。

あかねは、答えた。

「身長。体のライン。胸のサイズ。鎖骨や首筋の細さ。すべて、ご主人様が指定されました」

声は平坦だった。データを読み上げているだけだった。

でも——自分の身体の各部が、値札のついた商品のように並べられていく感覚があった。

それが何なのか、あかねにはまだわからなかった。

真彩は、テーブルの下で指を組んでいた。

「合計で?」

「五百三十万円です。メンテナンス契約が年間二十四万円」

「五百三十万か」

真彩が、窓の外を見た。

「車一台分くらいね」

あかねは、何も言わなかった。

真彩は、コーヒーを飲み干した。

「ごめんね、変なこと聞いて。ただ——気になっちゃって。高い買い物だなあって」

笑顔だった。

悪意のない、軽い笑顔だった。

あかねは、帰り道の商店街を一人で歩いた。

自分の足が、アスファルトを踏む音を聞いていた。

 四百二十万円。

 追加料金、五十万円。

 胸のサイズ。鎖骨の細さ。

自分の口から出た言葉が、まだ耳の中に残っていた。

あかねは、歩きながら自分の手を見た。

この手にも、値段がある。

この指にも、この肌にも。

全部に。


――


次の週末。

真彩はまた桜木家を訪ねた。

手土産のシュークリームを持って、何気ない顔で玄関に立った。あゆむが喜んで飛びついてきた。賢治はリビングで仕事をしていた。

あかねがキッチンでお茶を淹れている間、真彩はそっとキッチンに入った。

「あかねさん」

「はい」

「髪、きれいね。手入れもするの?」

「いえ。特には」

「ちょっと見せて」

真彩が、あかねの髪に手を伸ばした。

あかねは動かなかった。

人間の手が伸びてきた時、避ける理由がなかった。

真彩の指が、あかねの左の耳の後ろの髪をすくった。

「……ここ、何かついてる。取ってあげる」

真彩は、エプロンのポケットから小さなハサミを出した。

自分で持ってきたものだった。

「じっとしてて」

あかねは動かなかった。

ざく、と音がした。

一房分の髪が、床に落ちた。

真彩が取ったのは、耳の後ろの一房だけではなかった。ハサミの角度が深すぎた。左の襟足から耳の上にかけて、はっきりとわかるほど短くなっていた。

「あ——ごめん」

真彩が、口元を手で覆った。

「絡まってて、取ろうとしたら——ごめんなさい、こんなに切るつもりじゃなかった」

声が、少し震えていた。まるで本当に動揺しているように聞こえた。

あかねは、床に落ちた髪を見た。

黒くて、艶があって、長い束だった。

「大丈夫です」

あかねは、そう言った。

「髪は、伸びますから」

言ってから——気づいた。

伸びない。

自分の髪は、伸びない。

その事実が、声に出してから、あかねの中に落ちてきた。

真彩は、床に落ちた髪の束を拾い上げた。

「本当にごめんね。ドライヤーで乾かしてる時に変な癖がついちゃったのかなと思って——」

「いえ。お気になさらず」

あかねは、お茶をトレーに載せて、リビングに向かった。

歩きながら、左手が無意識に、切られた側の髪に触れた。

指が、短くなった毛先に当たった。

すかすかだった。

リビングで、あゆむがシュークリームを頬張っていた。

「あかねさん、一緒に食べよ!」

「ありがとうございます。後でいただきますね」

あかねはお茶を配って、キッチンに戻った。

真彩は、もうリビングのソファに座っていた。賢治の隣で、何かを笑いながら話していた。何事もなかったように。


――


その夜。

あかねは、洗面所の鏡の前に立った。

左側の髪が、明らかに短かった。

右側は肩甲骨の下まであるのに、左側は顎のあたりで終わっていた。

あかねは、切られた部分に触れた。

毛先が、不揃いだった。ハサミで一気に切られた跡が、そのまま残っていた。

人間の髪なら、伸びる。

あかねの髪は、伸びない。

切られたら、そのままだった。

あかねは鏡の中の自分を見た。

左右で長さの違う、不揃いな黒髪。

本物のあかねの写真を、何度か見たことがあった。賢治の書斎に飾ってあった。結婚式の写真。旅行の写真。どれも、長くて艶やかな黒髪だった。

賢治が——あの髪に、恋をしていた。

あかねは、ハサミを手に取った。

右側の髪を、左側に合わせて切った。

肩甲骨の下まであった髪が、顎の下で揃った。

切り落とした髪が、洗面台の縁に落ちた。

 短くなった。

あかねは、鏡をもう一度見た。

別の人間がそこにいた。

本物のあかねと同じ顔をしているのに、本物のあかねとは違う姿になった。

それが——

 正しいのかもしれない。

あかねは、落ちた髪を丁寧に集めて、ゴミ袋に入れた。

洗面台を拭いた。ハサミを戻した。

全部、きれいにした。

リビングに戻って、目を閉じた。

今夜の休息は、なかなか来なかった。


――


それから数日後。

桜木家の近くを通りかかったついでを装って、真彩ははるかに連絡を入れた。

「はるかちゃん、久しぶり。今日、時間ある? 近くにケーキ屋さんができたの。二人で行かない?」

しばらくして、返信が来た。

「行く」

真彩は、スマートフォンを閉じた。

 はるかちゃんは、まだわたしの味方だ。


――


商店街の新しいカフェに入って、向かい合って座った。

「最近どう? 学校は?」

「まあ、普通です」

「あかねさんとは、どう?」

はるかの表情が、かすかに固まった。

「……別に」

「そっか」

真彩は、紅茶を一口飲んだ。

「あのね、はるかちゃんに言おうか迷ったんだけど——」

「何ですか」

「先週、あかねさんに電話したのね。お父さんへのプレゼントを一緒に考えてほしくて」

「はあ」

「そうしたら、あかねさんが言ったの。『賢治さんは、真彩さんのことを、少し重いと思っているようです』って」

はるかが、目を細めた。

「……本当に?」

「驚いたでしょ。わたしも驚いた。アンドロイドって、そういうことも言うのかなって」

「……」

「まあ、本当のことかもしれないけどね」

真彩は、軽く笑った。

「でも、ちょっと傷ついちゃった。機械に言われるとは思わなかったから」

はるかは、ケーキを一口食べながら、黙っていた。

その目が、少し揺れていた。

 刺さった。

真彩は、紅茶を静かに飲んだ。


――


その夜。

はるかは部屋で、天井を見ていた。

真彩さんが言ったことが、頭から離れなかった。

 賢治さんは、真彩さんのことを、少し重いと思っているようです。

あかねが、そんなことを言うだろうか。

言いそうだ、とも思った。機械だから、思ったことをそのまま言うかもしれない。

でも——

 本当に言ったのか。

はるかは、布団を抱えた。

わからなかった。

確かめる方法も、なかった。

ただ——

 真彩さんが傷ついた顔をしていた。

それは本当のことだった。

はるかは目をつぶった。

あかねのことが、また少しわからなくなった。


――


翌朝。

はるかは朝食の時間、いつもより口数が少なかった。

あかねが、味噌汁を置いた。

はるかは、受け取らなかった。

「……いらない」

「そうですか」

あかねは、黙って椀を引いた。

賢治が、はるかを見た。

「どうした」

「別に」

はるかは立ち上がって、自分の部屋に戻った。

廊下に出てから——ふと、足が止まった。

キッチンから、あかねの声がした。

賢治に向かって、静かに言っていた。

「はるかさんの椀、冷めないように温めておきます。後で食べるかもしれないので」

はるかは、廊下でしばらく止まっていた。

 真彩さんのことを、重いと言った人間が——

 そんなことを、言うか。

部屋に戻って、ドアを閉めた。

胸の中で、何かが揺れていた。

怒りなのか、混乱なのか。

それとも——

 本当のことを、確かめたい。

そう思い始めていた。


――


その夜、あかねは休息に入る前に、窓の外に目を向けた。

はるかが、廊下で止まっていたことは、気配でわかっていた。

タオルの夜も。リンゴの昼も。そして今朝も。

少しずつ、少しずつ。

 何かが、動いている。

四月の夜空に、雲はなかった。

はるかの部屋の電気が、まだ消えていなかった。


――


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