第五章 受け止める背中
四月になった。
千歳烏山の並木が、少しずつ色づき始めていた。
桜木家の朝は、いつの間にか、あかねの作る朝食から始まるようになっていた。冷蔵庫の残りと家族の予定を照らし合わせて、朝のうちに夜までの段取りを決めるのが、あかねのやり方だった。あゆむは毎朝、起きるなりキッチンに飛び込んで「今日は何?」と聞いた。賢治は黙って食べて、黙って出かけた。
はるかは、毎朝、一番遠い椅子に座った。
返事はしなかった。
でも、食べなかった日は、一日もなかった。
――
ある夜。
賢治が珍しく、夕食の時間に間に合った。
四人で食卓を囲んだ。あゆむはあかねに今日の学校の話をしていた。賢治は黙って箸を動かしていた。
「あかねさん、これうまい! 何入ってるの?」
「お揚げです。少し甘めに煮ました」
「天才じゃん!」
あゆむが笑って、賢治も少し口元を緩めた。
「……うまいな、これ」
賢治が、小さく言った。
あかねに向けた言葉だった。
その瞬間——はるかの箸が、止まった。
賢治が、あかねを見ていた。
あの顔だった。
お母さんが生きていた頃には、一度も見せなかった顔。穏やかで、柔らかくて、満たされたような顔。
はるかの腹の底で、何かが沸いた。
「……ねえ」
低い声だった。
賢治が振り返った。
「お母さんのごはんにも、そうやって言ってあげてたの」
リビングの空気が、凍った。
あゆむの箸が止まった。あかねも動かなかった。
「……はるか」
「お母さんが毎日毎日作ってたの、知ってるでしょ。あんたは帰ってこなかったから食べてないだけで」
「はるか——」
「なんで。なんで機械にはそんな顔するの。お母さんの時は——」
はるかの声が震えた。
「お母さんの時は、一回も言わなかったくせに」
賢治は、箸を置いた。
何も言えなかった。
反論する言葉が、一つもなかった。
本当のことだったから。
はるかは椅子を引いて、立ち上がった。
「ごちそうさま」
足音が、廊下に消えた。
ドアが閉まった。
リビングに、沈黙が残った。
あゆむが、賢治とあかねの顔を交互に見ていた。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。
賢治は、自分の椀を見ていた。
味噌汁が、冷めていた。
「……あかね」
「はい」
「はるかの分、温めておいてくれ。後で——食べるかもしれない」
「……わかりました」
あかねは、はるかの分を保存容器に移した。部屋のドアが開く音を拾ったら、すぐ温め直せるように、電子レンジの設定だけ先に済ませた。
賢治は立ち上がって、寝室に入った。
あかねは、はるかの椀を静かに持ち上げた。
まだ、半分残っていた。
――
ある夜、はるかが風呂から上がると、廊下にあかねが立っていた。
タオルを持っていた。
「髪、乾かしますか。ドライヤー、温めてあります」
「……いらない」
「そうですか」
あかねは、タオルをそっとドアノブにかけて、キッチンに戻っていった。
はるかは、そのタオルを見た。
なんで、知ってるんだ。
本物のあかねは、いつもそうだった。風呂上がりのはるかに、黙ってタオルを差し出した。はるかが「いらない」と言っても、ドアノブにかけておいた。
はるかは、タオルを手に取った。
ふわりと、柔軟剤の匂いがした。
同じ匂いだ。
はるかは、タオルを抱えたまま、しばらく廊下に立っていた。
――
翌週の土曜日。
賢治は朝から出かけていた。
あゆむは玄関で靴を履きながら、あかねに向かって言った。
「あかねさん、今日の晩ごはん、ハンバーグにして! 友達の家で食べてこないから!」
「わかりました。何時に帰りますか」
「五時! ……たぶん六時!」
あゆむが飛び出していった後、玄関のドアが揺れた。
家に残ったのは、はるかとあかねだけだった。
はるかは部屋に閉じこもっていたが、昼過ぎに腹が減って、リビングに出た。
あかねがソファの隣に座って、何かを読んでいた。
本だった。膝には薄い端末も載っていて、買い足す食材と来週の献立候補が並んでいた。
はるかは、冷蔵庫を開けながら、横目でそれを見た。
「……アンドロイドが本読むの」
「情報を取り込む方法の一つです。手順がはっきりしている料理は、家庭で再現しやすいので」
「ふうん」
はるかはリンゴを取り出して、テーブルに座った。
しばらく、沈黙が続いた。
「……何の本」
我ながら、なんで聞いたんだと思った。
あかねが、表紙を見せた。
料理の本だった。
「この家の人たちが、好きなものを調べています。味つけの傾向も、少しずつ記録しています」
「私の好きなものも?」
「はい。セロリが嫌いだということは、最初に教えてもらいました」
はるかは、リンゴをかじった。
「……他には」
「賢治さんは、魚より肉が好き。平日の夜は薄味のほうが箸が進む。あゆむさんは、辛いものが苦手なのに中辛が好きだと言い張る」
はるかは、思わず口元が緩みそうになって、押さえた。
「……あゆむのやつ、絶対嘘ついてるよ。本当は甘口じゃないと食べられないくせに」
「そうですか」
「うん。お母さんがいた頃、こっそり甘口にしてたから」
言ってから、はるかは口をつぐんだ。
お母さん、という言葉を、この機械の前で使った。
あかねは何も言わなかった。
ただ、静かに料理の本に視線を戻した。
その横顔が、責めていなかった。
怒っていなかった。
ただ、そこにいた。
はるかは、リンゴの残りを皿に置いた。
「……次のカレー、甘口にしてやって」
「わかりました」
「あゆむには言わないで」
「言いません」
はるかは立ち上がって、自分の部屋に向かった。
廊下に出てから、一度だけ振り返った。
あかねは、また料理の本を読んでいた。
何事もなかったように。
……なんなんだ、本当に。
はるかは、部屋のドアを閉めた。
閉めてから、ドアに背中をつけて、天井を見た。
胸の奥に、何かがあった。
怒りじゃなかった。
悲しみでも、なかった。
なんと呼べばいいか、わからないものが、静かにそこにあった。
――
その夜。
あかねは休息に入る前に、一人でリビングに座っていた。今日の会話と、はるかの表情の変化を、短いメモとして残していた。
はるかが、お母さん、と言った。
その言葉が、あかねの中のどこかに引っかかっていた。
リンゴをかじりながら、口元が緩みかけた、あの一瞬。
もう一度、見たい。
あかねは目を閉じた。
瞼の裏で、あの一瞬が、まだ光っていた。
――




