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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第一幕
6/15

第五章 受け止める背中

四月になった。

千歳烏山の並木が、少しずつ色づき始めていた。

桜木家の朝は、いつの間にか、あかねの作る朝食から始まるようになっていた。冷蔵庫の残りと家族の予定を照らし合わせて、朝のうちに夜までの段取りを決めるのが、あかねのやり方だった。あゆむは毎朝、起きるなりキッチンに飛び込んで「今日は何?」と聞いた。賢治は黙って食べて、黙って出かけた。

はるかは、毎朝、一番遠い椅子に座った。

返事はしなかった。

でも、食べなかった日は、一日もなかった。


――


ある夜。

賢治が珍しく、夕食の時間に間に合った。

四人で食卓を囲んだ。あゆむはあかねに今日の学校の話をしていた。賢治は黙って箸を動かしていた。

「あかねさん、これうまい! 何入ってるの?」

「お揚げです。少し甘めに煮ました」

「天才じゃん!」

あゆむが笑って、賢治も少し口元を緩めた。

「……うまいな、これ」

賢治が、小さく言った。

あかねに向けた言葉だった。

その瞬間——はるかの箸が、止まった。

賢治が、あかねを見ていた。

あの顔だった。

お母さんが生きていた頃には、一度も見せなかった顔。穏やかで、柔らかくて、満たされたような顔。

はるかの腹の底で、何かが沸いた。

「……ねえ」

低い声だった。

賢治が振り返った。

「お母さんのごはんにも、そうやって言ってあげてたの」

リビングの空気が、凍った。

あゆむの箸が止まった。あかねも動かなかった。

「……はるか」

「お母さんが毎日毎日作ってたの、知ってるでしょ。あんたは帰ってこなかったから食べてないだけで」

「はるか——」

「なんで。なんで機械にはそんな顔するの。お母さんの時は——」

はるかの声が震えた。

「お母さんの時は、一回も言わなかったくせに」

賢治は、箸を置いた。

何も言えなかった。

反論する言葉が、一つもなかった。

本当のことだったから。

はるかは椅子を引いて、立ち上がった。

「ごちそうさま」

足音が、廊下に消えた。

ドアが閉まった。

リビングに、沈黙が残った。

あゆむが、賢治とあかねの顔を交互に見ていた。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。

賢治は、自分の椀を見ていた。

味噌汁が、冷めていた。

「……あかね」

「はい」

「はるかの分、温めておいてくれ。後で——食べるかもしれない」

「……わかりました」

あかねは、はるかの分を保存容器に移した。部屋のドアが開く音を拾ったら、すぐ温め直せるように、電子レンジの設定だけ先に済ませた。

賢治は立ち上がって、寝室に入った。

あかねは、はるかの椀を静かに持ち上げた。

まだ、半分残っていた。


――


ある夜、はるかが風呂から上がると、廊下にあかねが立っていた。

タオルを持っていた。

「髪、乾かしますか。ドライヤー、温めてあります」

「……いらない」

「そうですか」

あかねは、タオルをそっとドアノブにかけて、キッチンに戻っていった。

はるかは、そのタオルを見た。

 なんで、知ってるんだ。

本物のあかねは、いつもそうだった。風呂上がりのはるかに、黙ってタオルを差し出した。はるかが「いらない」と言っても、ドアノブにかけておいた。

はるかは、タオルを手に取った。

ふわりと、柔軟剤の匂いがした。

 同じ匂いだ。

はるかは、タオルを抱えたまま、しばらく廊下に立っていた。


――


翌週の土曜日。

賢治は朝から出かけていた。

あゆむは玄関で靴を履きながら、あかねに向かって言った。

「あかねさん、今日の晩ごはん、ハンバーグにして! 友達の家で食べてこないから!」

「わかりました。何時に帰りますか」

「五時! ……たぶん六時!」

あゆむが飛び出していった後、玄関のドアが揺れた。

家に残ったのは、はるかとあかねだけだった。

はるかは部屋に閉じこもっていたが、昼過ぎに腹が減って、リビングに出た。

あかねがソファの隣に座って、何かを読んでいた。

本だった。膝には薄い端末も載っていて、買い足す食材と来週の献立候補が並んでいた。

はるかは、冷蔵庫を開けながら、横目でそれを見た。

「……アンドロイドが本読むの」

「情報を取り込む方法の一つです。手順がはっきりしている料理は、家庭で再現しやすいので」

「ふうん」

はるかはリンゴを取り出して、テーブルに座った。

しばらく、沈黙が続いた。

「……何の本」

我ながら、なんで聞いたんだと思った。

あかねが、表紙を見せた。

料理の本だった。

「この家の人たちが、好きなものを調べています。味つけの傾向も、少しずつ記録しています」

「私の好きなものも?」

「はい。セロリが嫌いだということは、最初に教えてもらいました」

はるかは、リンゴをかじった。

「……他には」

「賢治さんは、魚より肉が好き。平日の夜は薄味のほうが箸が進む。あゆむさんは、辛いものが苦手なのに中辛が好きだと言い張る」

はるかは、思わず口元が緩みそうになって、押さえた。

「……あゆむのやつ、絶対嘘ついてるよ。本当は甘口じゃないと食べられないくせに」

「そうですか」

「うん。お母さんがいた頃、こっそり甘口にしてたから」

言ってから、はるかは口をつぐんだ。

 お母さん、という言葉を、この機械の前で使った。

あかねは何も言わなかった。

ただ、静かに料理の本に視線を戻した。

その横顔が、責めていなかった。

怒っていなかった。

ただ、そこにいた。

はるかは、リンゴの残りを皿に置いた。

「……次のカレー、甘口にしてやって」

「わかりました」

「あゆむには言わないで」

「言いません」

はるかは立ち上がって、自分の部屋に向かった。

廊下に出てから、一度だけ振り返った。

あかねは、また料理の本を読んでいた。

何事もなかったように。

 ……なんなんだ、本当に。

はるかは、部屋のドアを閉めた。

閉めてから、ドアに背中をつけて、天井を見た。

胸の奥に、何かがあった。

怒りじゃなかった。

悲しみでも、なかった。

なんと呼べばいいか、わからないものが、静かにそこにあった。


――


その夜。

あかねは休息に入る前に、一人でリビングに座っていた。今日の会話と、はるかの表情の変化を、短いメモとして残していた。

はるかが、お母さん、と言った。

その言葉が、あかねの中のどこかに引っかかっていた。

リンゴをかじりながら、口元が緩みかけた、あの一瞬。

 もう一度、見たい。

あかねは目を閉じた。

瞼の裏で、あの一瞬が、まだ光っていた。


――


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