第四章 池田真彩という女
月曜日の朝。
桜木賢治が会社に着いたのは、八時五分だった。
エレベーターを降りて、フロアに入った瞬間——
「おはようございます、部長」
振り返る前から、声でわかった。
池田真彩が、コーヒーを二つ持って立っていた。紺のジャケット。きちんと整えられた髪。三十二歳の彼女は、いつ見ても隙がなかった。
「ブラックでよかったですか」
「ああ。ありがとう」
賢治はコーヒーを受け取って、自分のデスクに向かった。真彩が後ろからついてくる。
「週末、どうでしたか」
「……普通だ」
「そうですか」
真彩は賢治のデスクの隣に立って、手元のタブレットを開いた。
「今日の午前は、十時から企画会議です。午後は——」
「わかってる」
「はい」
しばらく、キーボードの音だけが続いた。
真彩は帰りかけて、それから少し間を置いて、振り返った。
「部長」
「なんだ」
「……先週、大きな買い物をされたと聞きました」
賢治は、手を止めた。
「誰から聞いた」
「総務の田中さんが。配送の手配を手伝ったそうで」
賢治は、コーヒーを一口飲んだ。
「アンドロイドを、買った」
「……そうですか」
「家事をやってもらうために」
真彩は、何も言わなかった。
賢治は真彩の方を見なかった。
「それだけだ」
「……わかりました」
真彩の足音が、遠ざかっていった。
賢治は、その足音が消えてから、窓の外を見た。
三月の空は、まだ灰色だった。
――
その日の昼休み。
真彩は一人でランチを食べながら、スマートフォンの画面を見ていた。
検索欄に打ち込んだのは——「HW-560 第三世代」。
画面に、製品ページが開いた。
スペックが並んでいる。身長一七二センチ。体重五十二キロ。第三世代の最新モデル。標準仕様の顔写真が一枚。
真彩は、その写真を見た。
悪くない顔だった。
でも——これは標準モデルの顔だ。
賢治が買ったのは、顔を特注したものだと、田中さんから聞いていた。亡くなった奥さんそっくりに作ったと。追加料金は五十万円だったと。
五十万。
真彩はスマートフォンを、テーブルに伏せた。
4年間だった。
あかねが死んで、賢治が憔悴して、子どもたちが途方に暮れていた時、そばにいたのは自分だった。引越しまでした。はるかの学校の送り迎えをした。あゆむの宿題を見た。賢治の愚痴を何時間でも聞いた。
それが全部、機械一台で——
真彩は、コーヒーを一口飲んだ。
冷めていた。
――
土曜日。
真彩が桜木家を訪ねたのは、午後二時だった。
インターフォンを押す。
「はーい」
あゆむの声だった。
「真彩さんだよ! お父さん、真彩さん来たよ!」
ドアが開いた。
あゆむが飛び出してくる。
「真彩さん! これ見て、昨日学校でこんなことがあってさ——」
「ちょっと待って、中に入れてよ」
真彩は笑いながら、玄関に入った。
リビングに向かいながら、何気ない顔を作った。
そして——
止まった。
キッチンに、女がいた。
黒い長い髪。エプロン姿。ポニーテールに束ねた髪が、振り返った拍子にうなじに沿って揺れた。
「いらっしゃいませ」
声が、静かだった。
顔が——
息が、止まった。
製品ページの標準モデルとは、まるで違った。
整った顔立ち。茶色い目。薄く、しかし形のいい唇。頬にも目元にも、三十代の翳りがなかった。若かった。どう見ても二十歳そこそこだった。
——若すぎないか。
奥さんに似せて作ったと聞いていた。でも、奥さんが亡くなったのは三十六歳のはずだ。目の前にいるのは、それよりはるかに若い女だった。
エプロンの下のブラウスが、胸元でゆるやかに膨らんでいた。腰から腿にかけてのラインが、布越しに柔らかく見えた。三十代の身体ではなかった。
あの人、若い頃の姿で作らせたの?
真彩の指が、自分のジャケットの袖を掴んだ。
三十二歳。細身で、手入れもしている。負けているとは思わない。でも——目の前の女には、人間では辿り着けない均整と、二十歳の肌の艶があった。
「池田さん、ですか」
あかねが、首をわずかに傾けて言った。
「ご主人様から、お聞きしています。いつもお世話になっています」
真彩は、笑顔を作った。
「こちらこそ。よろしくね」
声が、自分でも驚くほど、平静だった。
――
賢治がリビングに出てきたのは、それから少しして、だった。
「真彩さん、来てたのか」
「はい。近くまで来たので、顔を出そうかと」
「そうか。上がってくれ」
真彩はソファに座った。あかねがお茶を持ってきた。
テーブルに置く仕草が、自然だった。
湯飲みの向きまで、きちんと揃えていた。
「ありがとう」
真彩は、お茶を受け取った。
あかねが、キッチンに戻っていく。
その後ろ姿を、真彩は目で追った。
腰のラインが。
歩く時にかすかに揺れる髪が。
ブラウスの背中が、肩甲骨のあたりでわずかに張っている、あの感じが。
全部、嫌になるくらい、自然だ。
あれが、機械。
「どうだ、慣れたか」
賢治が聞いた。
「何がですか」
「あかねに」
真彩は、湯飲みを両手で包んだ。
「……ええ、素敵な方ですね」
賢治は、少し遠い目をした。
「そうだな」
その顔を見た瞬間——
ああ、もう始まっている。
真彩は、湯飲みを静かにテーブルに置いた。
お茶の温度が、指先に残った。
――
帰り道。
エルモール烏山の商店街を、真彩は一人で歩いた。
三月の風が、冷たかった。焼き鳥屋の換気扇から、甘辛いたれの匂いが流れてくる。
機械だ。
ただの機械だ。
あんなものに、負けるわけがない。
でも——
賢治の顔が、頭から離れなかった。
「そうだな」と言った時の、あの遠い目が。
4年間、一度もあんな顔を見たことがなかった。
たった数日で。
機械一台で。
真彩は、商店街の外れの踏切の手前で立ち止まった。
遮断機の向こうに、京王線の線路が伸びていた。上り電車の赤いテールランプが、仙川の方へ消えていく。
しばらく、そこに立っていた。
それから、スマートフォンを取り出した。
画面を開いて、「アンドロイド 問題行動 報告」と打ち込みかけて——
やめた。
まだ、早い。
真彩はスマートフォンをしまって、歩き出した。
千歳烏山の夜が、静かに始まっていた。
――




