表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏への道のり  作者: みつおちゃん
第一幕
5/13

第四章 池田真彩という女

月曜日の朝。

桜木賢治が会社に着いたのは、八時五分だった。

エレベーターを降りて、フロアに入った瞬間——

「おはようございます、部長」

振り返る前から、声でわかった。

池田真彩が、コーヒーを二つ持って立っていた。紺のジャケット。きちんと整えられた髪。三十二歳の彼女は、いつ見ても隙がなかった。

「ブラックでよかったですか」

「ああ。ありがとう」

賢治はコーヒーを受け取って、自分のデスクに向かった。真彩が後ろからついてくる。

「週末、どうでしたか」

「……普通だ」

「そうですか」

真彩は賢治のデスクの隣に立って、手元のタブレットを開いた。

「今日の午前は、十時から企画会議です。午後は——」

「わかってる」

「はい」

しばらく、キーボードの音だけが続いた。

真彩は帰りかけて、それから少し間を置いて、振り返った。

「部長」

「なんだ」

「……先週、大きな買い物をされたと聞きました」

賢治は、手を止めた。

「誰から聞いた」

「総務の田中さんが。配送の手配を手伝ったそうで」

賢治は、コーヒーを一口飲んだ。

「アンドロイドを、買った」

「……そうですか」

「家事をやってもらうために」

真彩は、何も言わなかった。

賢治は真彩の方を見なかった。

「それだけだ」

「……わかりました」

真彩の足音が、遠ざかっていった。

賢治は、その足音が消えてから、窓の外を見た。

三月の空は、まだ灰色だった。


――


その日の昼休み。

真彩は一人でランチを食べながら、スマートフォンの画面を見ていた。

検索欄に打ち込んだのは——「HW-560 第三世代」。

画面に、製品ページが開いた。

スペックが並んでいる。身長一七二センチ。体重五十二キロ。第三世代の最新モデル。標準仕様の顔写真が一枚。

真彩は、その写真を見た。

悪くない顔だった。

でも——これは標準モデルの顔だ。

賢治が買ったのは、顔を特注したものだと、田中さんから聞いていた。亡くなった奥さんそっくりに作ったと。追加料金は五十万円だったと。

 五十万。

真彩はスマートフォンを、テーブルに伏せた。

4年間だった。

あかねが死んで、賢治が憔悴して、子どもたちが途方に暮れていた時、そばにいたのは自分だった。引越しまでした。はるかの学校の送り迎えをした。あゆむの宿題を見た。賢治の愚痴を何時間でも聞いた。

 それが全部、機械一台で——

真彩は、コーヒーを一口飲んだ。

冷めていた。


――


土曜日。

真彩が桜木家を訪ねたのは、午後二時だった。

インターフォンを押す。

「はーい」

あゆむの声だった。

「真彩さんだよ! お父さん、真彩さん来たよ!」

ドアが開いた。

あゆむが飛び出してくる。

「真彩さん! これ見て、昨日学校でこんなことがあってさ——」

「ちょっと待って、中に入れてよ」

真彩は笑いながら、玄関に入った。

リビングに向かいながら、何気ない顔を作った。

そして——

止まった。

キッチンに、女がいた。

黒い長い髪。エプロン姿。ポニーテールに束ねた髪が、振り返った拍子にうなじに沿って揺れた。

「いらっしゃいませ」

声が、静かだった。

顔が——

 息が、止まった。

製品ページの標準モデルとは、まるで違った。

整った顔立ち。茶色い目。薄く、しかし形のいい唇。頬にも目元にも、三十代の翳りがなかった。若かった。どう見ても二十歳そこそこだった。

 ——若すぎないか。

奥さんに似せて作ったと聞いていた。でも、奥さんが亡くなったのは三十六歳のはずだ。目の前にいるのは、それよりはるかに若い女だった。

エプロンの下のブラウスが、胸元でゆるやかに膨らんでいた。腰から腿にかけてのラインが、布越しに柔らかく見えた。三十代の身体ではなかった。

 あの人、若い頃の姿で作らせたの?

真彩の指が、自分のジャケットの袖を掴んだ。

三十二歳。細身で、手入れもしている。負けているとは思わない。でも——目の前の女には、人間では辿り着けない均整と、二十歳の肌の艶があった。

「池田さん、ですか」

あかねが、首をわずかに傾けて言った。

「ご主人様から、お聞きしています。いつもお世話になっています」

真彩は、笑顔を作った。

「こちらこそ。よろしくね」

声が、自分でも驚くほど、平静だった。


――


賢治がリビングに出てきたのは、それから少しして、だった。

「真彩さん、来てたのか」

「はい。近くまで来たので、顔を出そうかと」

「そうか。上がってくれ」

真彩はソファに座った。あかねがお茶を持ってきた。

テーブルに置く仕草が、自然だった。

湯飲みの向きまで、きちんと揃えていた。

「ありがとう」

真彩は、お茶を受け取った。

あかねが、キッチンに戻っていく。

その後ろ姿を、真彩は目で追った。

 腰のラインが。

 歩く時にかすかに揺れる髪が。

 ブラウスの背中が、肩甲骨のあたりでわずかに張っている、あの感じが。

 全部、嫌になるくらい、自然だ。

 あれが、機械。

「どうだ、慣れたか」

賢治が聞いた。

「何がですか」

「あかねに」

真彩は、湯飲みを両手で包んだ。

「……ええ、素敵な方ですね」

賢治は、少し遠い目をした。

「そうだな」

その顔を見た瞬間——

 ああ、もう始まっている。

真彩は、湯飲みを静かにテーブルに置いた。

お茶の温度が、指先に残った。


――


帰り道。

エルモール烏山の商店街を、真彩は一人で歩いた。

三月の風が、冷たかった。焼き鳥屋の換気扇から、甘辛いたれの匂いが流れてくる。

 機械だ。

 ただの機械だ。

 あんなものに、負けるわけがない。

でも——

賢治の顔が、頭から離れなかった。

「そうだな」と言った時の、あの遠い目が。

4年間、一度もあんな顔を見たことがなかった。

 たった数日で。

 機械一台で。

真彩は、商店街の外れの踏切の手前で立ち止まった。

遮断機の向こうに、京王線の線路が伸びていた。上り電車の赤いテールランプが、仙川の方へ消えていく。

しばらく、そこに立っていた。

それから、スマートフォンを取り出した。

画面を開いて、「アンドロイド 問題行動 報告」と打ち込みかけて——

やめた。

 まだ、早い。

真彩はスマートフォンをしまって、歩き出した。

千歳烏山の夜が、静かに始まっていた。


――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ