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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第一幕
4/13

第三章 まだ知らない家

あかねが来て、三日目の朝だった。

目覚ましが鳴る前に、あかねは台所に立っていた。昨日の朝食は、うまくいった。味噌汁の味も、焼き鮭の焼き加減も、賢治は何も言わずに食べた。何も言わないことが、おそらく合格の意味だった。

今朝も同じように作ればいい。

あかねは冷蔵庫を開けた。

 卵がない。

昨日の夕食で使い切っていた。買い足すことを、考えていなかった。献立は立てていたが、在庫の管理までは——まだ、この家のリズムが掴めていなかった。

卵焼きは諦めて、代わりに何を出すか。冷蔵庫の中を見た。ハムがあった。レタスもある。

 ハムエッグならぬ、ハムとレタスのサラダでいい。

あかねは手早く準備を始めた。

六時半。賢治がリビングに出てきた。

テーブルを見た。味噌汁、白米、焼き鮭、そしてサラダ。

「……卵焼きは」

「申し訳ありません。卵を切らしてしまいました」

賢治は、少し間を置いた。

「買い物は、いつ行った」

「まだ行っていません。この家の——買い出しのタイミングが、まだわかっていなくて」

賢治は何も言わずに座って、箸を取った。

味噌汁を一口。

「……薄いな」

あかねの手が、止まった。

「昨日と同じ分量で——」

「出汁の味が違う。昆布を変えたか」

「いいえ。同じものです。ただ、浸ける時間が——」

「短かったんだろう」

賢治の声は、怒っていなかった。ただ、事実を述べていた。

あかねは、黙った。

 失敗した。

その認識が、あかねの中に落ちた。データとして記録された。だしに浸す時間が足りない。次回の修正値を算出する。

でも——それとは別の場所に、何かが引っかかった。

賢治の「薄いな」という三文字が、ただのフィードバックではなく、何か別のものに聞こえた。

昨日は何も言わなかった。合格だと思った。でも今日は——

 期待されていたのだろうか。

その考えがどこから来たのか、あかねにはわからなかった。


――


午後。

あかねは洗濯をしていた。

洗濯機の使い方はマニュアルに書いてあった。しかし、この家の洗濯機は少し古くて、脱水の後に蓋が自動で開かなかった。あかねが力を入れて引っ張った瞬間——蓋の取っ手が、ぱきん、と嫌な音を立てた。

折れてはいなかった。

でも、ヒビが入った。

あかねは、ヒビの入った取っ手を見ていた。

 壊した。

この家のものを、壊した。

マニュアルには載っていなかった。この洗濯機の癖も、この取っ手が脆くなっていることも。

あかねは取っ手を丁寧に拭いて、洗濯物を取り出した。

干し方はマニュアルに書いてある通りにした。はずだった。

夕方、はるかが学校から帰ってきた。

ベランダの前を通りかかって、足が止まった。

「……なにこれ」

干してあるシャツの一枚が、肩の部分がずれていた。ハンガーのサイズが合っていなかったのだ。はるかの制服のブラウスだった。

「はるかさん、すみません。ハンガーの——」

「触らないで」

はるかが、ブラウスをひったくるように取った。

「わたしのものに、触らないでって言ったでしょ」

言っていなかった。でも——はるかの中では、言ったことになっているのだと、あかねは思った。触れてほしくないという気持ちが、最初からそこにあったのだと。

はるかは自分の部屋に入って、ドアを閉めた。

あかねはベランダに立ったまま、残りの洗濯物を見ていた。

賢治のワイシャツ。あゆむのTシャツ。それから、はるかの靴下が一足。

靴下は、干し方を間違えていなかった。でも——はるかに渡すのが、少し怖くなっていた。

 怖い。

その感情は、あかねのプログラムには存在しないはずだった。


――


翌日。

あかねは掃除をしていた。

リビングの隅に、小さな花瓶があった。中に、ドライフラワーが一本入っていた。

あかねがテーブルを拭いた時、肘が花瓶に当たった。

倒れた。割れなかった。でも、中のドライフラワーが床に落ちた。

拾い上げた時——花びらが、二枚、散った。

あかねは散った花びらを手のひらに乗せて、しばらく見ていた。

 これは、誰のものだろう。

花瓶の位置。リビングの隅。テレビの横。誰にも邪魔にならない場所に、でも確実にそこにあったもの。

あかねには、わからなかった。でも——大切なものだったかもしれない、ということは、わかった。

花びらを、そっとティッシュに包んだ。花瓶を元の位置に戻した。ドライフラワーを、慎重に差し直した。

できるだけ、元の通りに。

でも——二枚の花びらは、もう戻らなかった。


――


三日目の夜。

あかねは休息に入る前に、この三日間のことを整理していた。

だしに浸す時間。卵の在庫管理。洗濯機の取っ手。ハンガーのサイズ。花瓶のドライフラワー。

 失敗ばかりだ。

その認識が、データとしてではなく、もっと柔らかい場所に落ちてきた。

賢治の「薄いな」。はるかの「触らないで」。散った花びら。

全部、記録した。全部、次に活かす。それが正しい処理の仕方だった。

でも——

あかねは、自分の手を見た。

人間の手と同じ形をしている。五本の指がある。爪もある。でも——この手で触れたものが、壊れた。ずれた。散った。

 この家のことを、まだ何も知らない。

あかねは目を閉じた。

明日の朝は、出汁を長く浸ける。卵を買いに行く。はるかのブラウスには、小さいハンガーを使う。

一つずつ。

一つずつ、覚えていく。

 この家の人たちが、何を好きで、何を嫌がって、何を大切にしているのか。

それを知るためには——失敗するしかなかった。

あかねは、それをまだ「学習」と呼んでいた。


――


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