第三章 まだ知らない家
あかねが来て、三日目の朝だった。
目覚ましが鳴る前に、あかねは台所に立っていた。昨日の朝食は、うまくいった。味噌汁の味も、焼き鮭の焼き加減も、賢治は何も言わずに食べた。何も言わないことが、おそらく合格の意味だった。
今朝も同じように作ればいい。
あかねは冷蔵庫を開けた。
卵がない。
昨日の夕食で使い切っていた。買い足すことを、考えていなかった。献立は立てていたが、在庫の管理までは——まだ、この家のリズムが掴めていなかった。
卵焼きは諦めて、代わりに何を出すか。冷蔵庫の中を見た。ハムがあった。レタスもある。
ハムエッグならぬ、ハムとレタスのサラダでいい。
あかねは手早く準備を始めた。
六時半。賢治がリビングに出てきた。
テーブルを見た。味噌汁、白米、焼き鮭、そしてサラダ。
「……卵焼きは」
「申し訳ありません。卵を切らしてしまいました」
賢治は、少し間を置いた。
「買い物は、いつ行った」
「まだ行っていません。この家の——買い出しのタイミングが、まだわかっていなくて」
賢治は何も言わずに座って、箸を取った。
味噌汁を一口。
「……薄いな」
あかねの手が、止まった。
「昨日と同じ分量で——」
「出汁の味が違う。昆布を変えたか」
「いいえ。同じものです。ただ、浸ける時間が——」
「短かったんだろう」
賢治の声は、怒っていなかった。ただ、事実を述べていた。
あかねは、黙った。
失敗した。
その認識が、あかねの中に落ちた。データとして記録された。だしに浸す時間が足りない。次回の修正値を算出する。
でも——それとは別の場所に、何かが引っかかった。
賢治の「薄いな」という三文字が、ただのフィードバックではなく、何か別のものに聞こえた。
昨日は何も言わなかった。合格だと思った。でも今日は——
期待されていたのだろうか。
その考えがどこから来たのか、あかねにはわからなかった。
――
午後。
あかねは洗濯をしていた。
洗濯機の使い方はマニュアルに書いてあった。しかし、この家の洗濯機は少し古くて、脱水の後に蓋が自動で開かなかった。あかねが力を入れて引っ張った瞬間——蓋の取っ手が、ぱきん、と嫌な音を立てた。
折れてはいなかった。
でも、ヒビが入った。
あかねは、ヒビの入った取っ手を見ていた。
壊した。
この家のものを、壊した。
マニュアルには載っていなかった。この洗濯機の癖も、この取っ手が脆くなっていることも。
あかねは取っ手を丁寧に拭いて、洗濯物を取り出した。
干し方はマニュアルに書いてある通りにした。はずだった。
夕方、はるかが学校から帰ってきた。
ベランダの前を通りかかって、足が止まった。
「……なにこれ」
干してあるシャツの一枚が、肩の部分がずれていた。ハンガーのサイズが合っていなかったのだ。はるかの制服のブラウスだった。
「はるかさん、すみません。ハンガーの——」
「触らないで」
はるかが、ブラウスをひったくるように取った。
「わたしのものに、触らないでって言ったでしょ」
言っていなかった。でも——はるかの中では、言ったことになっているのだと、あかねは思った。触れてほしくないという気持ちが、最初からそこにあったのだと。
はるかは自分の部屋に入って、ドアを閉めた。
あかねはベランダに立ったまま、残りの洗濯物を見ていた。
賢治のワイシャツ。あゆむのTシャツ。それから、はるかの靴下が一足。
靴下は、干し方を間違えていなかった。でも——はるかに渡すのが、少し怖くなっていた。
怖い。
その感情は、あかねのプログラムには存在しないはずだった。
――
翌日。
あかねは掃除をしていた。
リビングの隅に、小さな花瓶があった。中に、ドライフラワーが一本入っていた。
あかねがテーブルを拭いた時、肘が花瓶に当たった。
倒れた。割れなかった。でも、中のドライフラワーが床に落ちた。
拾い上げた時——花びらが、二枚、散った。
あかねは散った花びらを手のひらに乗せて、しばらく見ていた。
これは、誰のものだろう。
花瓶の位置。リビングの隅。テレビの横。誰にも邪魔にならない場所に、でも確実にそこにあったもの。
あかねには、わからなかった。でも——大切なものだったかもしれない、ということは、わかった。
花びらを、そっとティッシュに包んだ。花瓶を元の位置に戻した。ドライフラワーを、慎重に差し直した。
できるだけ、元の通りに。
でも——二枚の花びらは、もう戻らなかった。
――
三日目の夜。
あかねは休息に入る前に、この三日間のことを整理していた。
だしに浸す時間。卵の在庫管理。洗濯機の取っ手。ハンガーのサイズ。花瓶のドライフラワー。
失敗ばかりだ。
その認識が、データとしてではなく、もっと柔らかい場所に落ちてきた。
賢治の「薄いな」。はるかの「触らないで」。散った花びら。
全部、記録した。全部、次に活かす。それが正しい処理の仕方だった。
でも——
あかねは、自分の手を見た。
人間の手と同じ形をしている。五本の指がある。爪もある。でも——この手で触れたものが、壊れた。ずれた。散った。
この家のことを、まだ何も知らない。
あかねは目を閉じた。
明日の朝は、出汁を長く浸ける。卵を買いに行く。はるかのブラウスには、小さいハンガーを使う。
一つずつ。
一つずつ、覚えていく。
この家の人たちが、何を好きで、何を嫌がって、何を大切にしているのか。
それを知るためには——失敗するしかなかった。
あかねは、それをまだ「学習」と呼んでいた。
――




