第二章 朝の食卓
翌朝、六時半。
キッチンから、包丁の音がした。
賢治は寝室のドアを細く開けて、廊下に耳を澄ませた。トントン、トントン、と規則正しいリズム。それからしばらくして、出汁の匂いが漂ってきた。
ああ。
もう動いている。
昨夜、あかねに一つだけ言った。「朝食は六時半に頼む」と。それだけで、あかねは「わかりました」と答えた。それ以上の説明は何も要らなかった。
賢治はドアを閉めて、天井を見た。
しばらく、動けなかった。
――
はるかが部屋を出てきたのは、味噌汁の匂いがしてきてからだった。
ドアを細く開け、廊下を覗く。リビングの向こうに、エプロンをつけた後ろ姿が見えた。
黒い髪。エプロンの紐が、腰のくびれで結ばれていた。
母親と、同じ立ち方だった。
はるかは、ドアを閉めた。
しばらく部屋の中で立っていた。壁に背中をつけて、目をつぶった。
機械だ。
ただの機械だ。
深呼吸をひとつ。それから、もう一度ドアを開けた。
リビングに入る。あかねが振り返った。
「おはようございます、はるかさん」
笑顔だった。
はるかは、その顔をまともに見られなかった。視線をテーブルに落として、一番遠い椅子を引いた。
「……」
返事はしなかった。
あかねは何も言わなかった。ただ、静かにキッチンに戻って、料理を続けた。
しばらくして、あかねがテーブルに皿を並べ始めた。焼き鮭。卵焼き。ほうれん草のお浸し。白いご飯と、湯気の立つ味噌汁。
はるかは、思わず味噌汁の椀を見た。
豆腐と、わかめ。
お母さんと、同じ具だ。
「……なんで」
思わず、声が出た。
あかねが振り返る。
「なんで、それを知ってるの」
「ご主人様に聞きました。奥様がよく作っていたと」
はるかは、それ以上何も言わなかった。
椀を手に取って、一口飲んだ。
出汁の味が、口の中に広がった。
同じだ。
目の奥が、かすかに熱くなった。はるかは気づかれないように、椀で口元を隠した。
――
あゆむが帰ってきたのは、昼前だった。
「ただいまーー!」
玄関を開けた瞬間、あゆむは止まった。
キッチンに、見知らぬ女性が立っていた。
黒い長い髪。エプロン姿。振り返った顔が——
「おかえりなさい、あゆむさん」
あゆむは三秒間、固まった。
それから、ランドセルを玄関に放り投げて、リビングに駆け込んだ。
「お父さん! 誰この人!」
賢治がソファから立ち上がった。
「あかね、という。しばらく、うちにいてもらう」
「しばらく?」
「……ずっと、だ」
あゆむは、あかねを見た。あかねは静かに微笑んだ。
「よろしくお願いします、あゆむさん」
あゆむは少し考えてから、おずおずと聞いた。
「……アンドロイド?」
「そうです」
「お母さんに、似てる」
「そうだと思います」
あゆむは、また少し考えた。
それから、ぱっと顔を上げた。
「ねえ、お昼ごはん、作れる? 俺、カレーが食べたい!」
賢治が苦笑した。
あかねは、口元に手を当てて、静かに笑った。
「作れますよ。何辛にしますか?」
「中辛! でも、じゃがいもは大きめで!」
「わかりました」
あゆむは満足そうに頷いて、ランドセルを取りに玄関に戻った。廊下ではるかとすれ違った。
「お姉ちゃん、あかねさんだって! カレー作ってくれるって!」
はるかは何も答えなかった。
ただ、キッチンのあかねをちらりと見て、それから自分の部屋に戻った。
――
夜。
夕食が終わって、あゆむがお風呂に入っている間、賢治は一人でリビングに座っていた。
あかねが、食器を洗っている。
水の音が、静かに続く。
賢治は、その後ろ姿を、見ていた。
ふと、あかねが鼻歌を歌い始めた。
小さな声で、メロディーだけ。何の曲かはわからない。でも——
賢治は、息を止めた。
あかねが、よく歌っていた。
本物のあかねも、料理をしながら、洗い物をしながら、いつもこうして鼻歌を歌っていた。どんな曲だったか、もう思い出せない。でもこの感じが——この、キッチンから流れてくる小さなメロディーが——
賢治は視線を落とした。
俺はあの頃、これをどれだけ聞き流していたんだろう。
「ご主人様」
あかねが振り返った。
「食器、しまう場所を教えてもらえますか。まだ、覚えていないので」
「……ああ」
賢治は立ち上がって、キッチンに向かった。
あかねの隣に並んで、棚を開ける。
「ここに、茶碗。ここに、皿」
「わかりました」
あかねが、賢治の指差す棚を見ながら、静かに頷いた。
その仕草が、あまりにも自然だった。
柔軟剤の匂いが、かすかにした。あかねの髪からだった。
賢治はあかねから目を逸らして、窓の外を見た。
千歳烏山の夜景が、遠くに広がっていた。
「あかね」
「はい」
「……お前は、怖くないか。この家が」
あかねは少し間を置いてから、答えた。
「怖い、という感情は、わたしにはありません」
「……そうか」
「ただ」
あかねが、続けた。
「はるかさんが、夕食の間、一度もわたしを見なかったことは——わかっています」
賢治は、何も言えなかった。
「明日も、作ります。朝ごはん」
あかねが、静かに言った。
「食べてもらえなくても、作ります」
賢治は、しばらくその言葉を聞いていた。
食べてもらえなくても、作ります。
それが、プログラムされた言葉なのか、それとも——
「……頼む」
賢治は、それだけ言った。
――
その夜遅く。
はるかは、部屋の電気を消したまま、ベッドの上で天井を見ていた。
夕食の間、あかねを見なかった。
見たくなかった。
でも——
味噌汁の味が、頭から離れなかった。
お母さんと、同じ味だった。
同じ出汁の取り方で、同じ具で、同じ温度で。
なんで。
なんで機械が、お母さんと同じ味を出せるんだ。
はるかは、布団を頭まで被った。
廊下の向こうで、かすかに物音がした。
あかねが、まだ動いている。
明日の朝食の準備でもしているのか、それとも何か別のことをしているのか。
知らない。
知りたくもない。
でも——
はるかは布団の中で、目をつぶった。
眠れるまで、ずいぶん時間がかかった。
――




