表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏への道のり  作者: みつおちゃん
第一幕
3/15

第二章 朝の食卓

翌朝、六時半。

キッチンから、包丁の音がした。

賢治は寝室のドアを細く開けて、廊下に耳を澄ませた。トントン、トントン、と規則正しいリズム。それからしばらくして、出汁の匂いが漂ってきた。

 ああ。

もう動いている。

昨夜、あかねに一つだけ言った。「朝食は六時半に頼む」と。それだけで、あかねは「わかりました」と答えた。それ以上の説明は何も要らなかった。

賢治はドアを閉めて、天井を見た。

しばらく、動けなかった。


――


はるかが部屋を出てきたのは、味噌汁の匂いがしてきてからだった。

ドアを細く開け、廊下を覗く。リビングの向こうに、エプロンをつけた後ろ姿が見えた。

黒い髪。エプロンの紐が、腰のくびれで結ばれていた。

母親と、同じ立ち方だった。

はるかは、ドアを閉めた。

しばらく部屋の中で立っていた。壁に背中をつけて、目をつぶった。

 機械だ。

 ただの機械だ。

深呼吸をひとつ。それから、もう一度ドアを開けた。

リビングに入る。あかねが振り返った。

「おはようございます、はるかさん」

笑顔だった。

はるかは、その顔をまともに見られなかった。視線をテーブルに落として、一番遠い椅子を引いた。

「……」

返事はしなかった。

あかねは何も言わなかった。ただ、静かにキッチンに戻って、料理を続けた。

しばらくして、あかねがテーブルに皿を並べ始めた。焼き鮭。卵焼き。ほうれん草のお浸し。白いご飯と、湯気の立つ味噌汁。

はるかは、思わず味噌汁の椀を見た。

豆腐と、わかめ。

 お母さんと、同じ具だ。

「……なんで」

思わず、声が出た。

あかねが振り返る。

「なんで、それを知ってるの」

「ご主人様に聞きました。奥様がよく作っていたと」

はるかは、それ以上何も言わなかった。

椀を手に取って、一口飲んだ。

出汁の味が、口の中に広がった。

 同じだ。

目の奥が、かすかに熱くなった。はるかは気づかれないように、椀で口元を隠した。


――


あゆむが帰ってきたのは、昼前だった。

「ただいまーー!」

玄関を開けた瞬間、あゆむは止まった。

キッチンに、見知らぬ女性が立っていた。

黒い長い髪。エプロン姿。振り返った顔が——

「おかえりなさい、あゆむさん」

あゆむは三秒間、固まった。

それから、ランドセルを玄関に放り投げて、リビングに駆け込んだ。

「お父さん! 誰この人!」

賢治がソファから立ち上がった。

「あかね、という。しばらく、うちにいてもらう」

「しばらく?」

「……ずっと、だ」

あゆむは、あかねを見た。あかねは静かに微笑んだ。

「よろしくお願いします、あゆむさん」

あゆむは少し考えてから、おずおずと聞いた。

「……アンドロイド?」

「そうです」

「お母さんに、似てる」

「そうだと思います」

あゆむは、また少し考えた。

それから、ぱっと顔を上げた。

「ねえ、お昼ごはん、作れる? 俺、カレーが食べたい!」

賢治が苦笑した。

あかねは、口元に手を当てて、静かに笑った。

「作れますよ。何辛にしますか?」

「中辛! でも、じゃがいもは大きめで!」

「わかりました」

あゆむは満足そうに頷いて、ランドセルを取りに玄関に戻った。廊下ではるかとすれ違った。

「お姉ちゃん、あかねさんだって! カレー作ってくれるって!」

はるかは何も答えなかった。

ただ、キッチンのあかねをちらりと見て、それから自分の部屋に戻った。


――


夜。

夕食が終わって、あゆむがお風呂に入っている間、賢治は一人でリビングに座っていた。

あかねが、食器を洗っている。

水の音が、静かに続く。

賢治は、その後ろ姿を、見ていた。

ふと、あかねが鼻歌を歌い始めた。

小さな声で、メロディーだけ。何の曲かはわからない。でも——

賢治は、息を止めた。

 あかねが、よく歌っていた。

本物のあかねも、料理をしながら、洗い物をしながら、いつもこうして鼻歌を歌っていた。どんな曲だったか、もう思い出せない。でもこの感じが——この、キッチンから流れてくる小さなメロディーが——

賢治は視線を落とした。

 俺はあの頃、これをどれだけ聞き流していたんだろう。

「ご主人様」

あかねが振り返った。

「食器、しまう場所を教えてもらえますか。まだ、覚えていないので」

「……ああ」

賢治は立ち上がって、キッチンに向かった。

あかねの隣に並んで、棚を開ける。

「ここに、茶碗。ここに、皿」

「わかりました」

あかねが、賢治の指差す棚を見ながら、静かに頷いた。

その仕草が、あまりにも自然だった。

柔軟剤の匂いが、かすかにした。あかねの髪からだった。

賢治はあかねから目を逸らして、窓の外を見た。

千歳烏山の夜景が、遠くに広がっていた。

「あかね」

「はい」

「……お前は、怖くないか。この家が」

あかねは少し間を置いてから、答えた。

「怖い、という感情は、わたしにはありません」

「……そうか」

「ただ」

あかねが、続けた。

「はるかさんが、夕食の間、一度もわたしを見なかったことは——わかっています」

賢治は、何も言えなかった。

「明日も、作ります。朝ごはん」

あかねが、静かに言った。

「食べてもらえなくても、作ります」

賢治は、しばらくその言葉を聞いていた。

 食べてもらえなくても、作ります。

それが、プログラムされた言葉なのか、それとも——

「……頼む」

賢治は、それだけ言った。


――


その夜遅く。

はるかは、部屋の電気を消したまま、ベッドの上で天井を見ていた。

夕食の間、あかねを見なかった。

見たくなかった。

でも——

 味噌汁の味が、頭から離れなかった。

お母さんと、同じ味だった。

同じ出汁の取り方で、同じ具で、同じ温度で。

 なんで。

 なんで機械が、お母さんと同じ味を出せるんだ。

はるかは、布団を頭まで被った。

廊下の向こうで、かすかに物音がした。

あかねが、まだ動いている。

明日の朝食の準備でもしているのか、それとも何か別のことをしているのか。

 知らない。

 知りたくもない。

でも——

はるかは布団の中で、目をつぶった。

眠れるまで、ずいぶん時間がかかった。


――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ