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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第一幕
2/13

第一章 三月の雨

三月の雨は冷たかった。

桜木賢治は、ワイパーが左右に揺れるのをぼんやりと眺めながら、環状線を北に向かって走っていた。助手席には何もない。後部座席にも、何もない。

荷台に、白い箱がある。

縦一八〇センチ、横六〇センチ。丁寧に梱包された、その箱の中身のことを考えるたびに、賢治は視線を前に戻さなければならなかった。信号が赤になる。止まる。またフロントガラスを叩く雨を見る。

 俺は、何をしているんだろう。

自問は、もう何百回目かわからなかった。

注文したのは、二ヶ月前だ。

専門の業者に連絡を取り、写真を何枚も送った。若い頃の写真。成人式の写真。友人と海に行った時の写真。

業者の担当者は三十代の男で、白い手袋をはめたまま、モニターに映した写真を一枚ずつ、黙って確認していった。

「ベースとなるお写真は、どの時期のものにされますか」

担当者が聞いた。感情を挟まない、事務的な声だった。

賢治は、モニターの中の写真を見ていた。

二十歳の頃のあかねが、カメラに向かって笑っていた。友人に撮られた一枚だった。白いワンピースで、髪が風に流れていて、手で前髪を押さえながら、半分目を細めて笑っている。

その隣に、三十六歳の写真があった。はるかの授業参観の日に撮ったものだ。ベージュのカーディガン。少し疲れた目元。それでも綺麗だった。綺麗だったが——

「これで」

賢治は、二十歳の写真を指差した。

担当者は、表情を変えなかった。

「かしこまりました。では、詳細に入ります」

そこから先が、長かった。

身長は。体重は。肩幅は。腰の位置は。脚の長さは。

担当者が淡々と聞いていく項目に、賢治は一つ一つ答えていった。写真を見ながら、記憶を掘り返しながら。

「胸のサイズはこちらの写真から推測で——」

「もう少しある」

自分の声が、ひどく乾いていた。

「鎖骨のラインは、もう少し細く。首が長かった。顎は——そう、その写真の角度が近い」

賢治は、自分が何をしているのか、わかっていた。

二十歳のあかねを、一から作り直している。

初めて出会った頃の、世界で一番輝いていたあかねを。喫茶店で友人と笑いながら入ってきた、あの日のあかねを。

モデルにも、女優にも、なれたはずだった。

事務所から声がかかっていた。それなのに、賢治のプロポーズを受けて、全部手放した。

あの頃のあかねを——もう一度。

担当者が、最終確認のモニター画像を見せた。3Dレンダリングされた、二十歳のあかねの全身像だった。

賢治は、しばらくそれを見ていた。

「……これで」

声が、かすれた。

モデル番号はHW-560、第三世代。現行の最新機種だと言われた。

価格は、言わない。

妻の顔に値段をつけた男の話など、誰も聞きたくないだろう。ましてや、妻の二十歳の姿に値段をつけた男の話など。


――


千歳烏山のマンションの駐車場に車を停め、賢治は一人で箱を運んだ。

エルモール烏山のアーケードを抜けると、雨は本降りになっていた。濡れたアスファルトに、商店街の街灯がぼんやりと滲んでいた。

誰も、賢治の荷台の箱に興味を持たなかった。

当たり前だ。

2042年の今、アンドロイドを家に運ぶ男など、どこにでもいる。

エレベーターの鏡に、自分の顔が映る。四十六歳。白髪が増えた。目の下にくまがある。四年で十歳老けた、と職場の同僚に言われたことがある。池田真彩だった。言ってからすぐ、彼女は慌てて笑顔で取り繕った。

賢治は気にしなかった。

本当のことだったから。

 四十六歳の男が、二十歳の女を箱で運んでいる。

そう思った瞬間、胃の奥が冷たくなった。

玄関を開ける。

廊下の奥、はるかの部屋のドアが閉まっている。今日のことは、話していない。話せるわけがなかった。あゆむは今夜、友人の家に泊まりだ。賢治が意図的にそうした。

リビングに箱を運び込み、床に置く。

梱包材を一枚ずつ、丁寧に剥がしていく。

まるで壊れやすいものを扱うように、と自分で思って、賢治は苦く笑った。実際、壊れやすいものなのかもしれない。値段だけじゃなく、色んな意味で。

最後のシートを取り除いた瞬間——

賢治は、息を飲んだ。

目を閉じて、椅子に静かに座っていた。

若かった。

当たり前だ。そう注文したのは自分だ。

でも——写真と3Dモデルで確認したのとは、まるで違った。

黒い髪が、肩の下まで流れていた。大学時代のあかねと同じ長さだった。少し丸みのある鼻筋。薄く、しかし形のいい唇。白いブラウスの上から、胸元の柔らかな膨らみが——指定した通りに、そこにあった。鎖骨から首筋にかけての線が、息を呑むほど滑らかだった。頬に、三十代の翳りはなかった。疲れも、諦めも、なかった。

二十歳のあかねが、そこにいた。

賢治が一番恋をしていた頃の、あかねが。

賢治は三分間、動けなかった。

鏡の中の四十六歳の自分と、目の前の二十歳の女の距離が、残酷なほど鮮明だった。

 あかね。

声には、出さなかった。


――


起動は、拍子抜けするほど簡単だった。

首の後ろに隠された小さなボタンを、三秒間押す。

まず、指先が動いた。

次に、胸が、ゆっくりと上下し始めた。呼吸を模した動作だと、マニュアルには書いてあった。そして瞼が、静かに開く。

しばらく、何も言わなかった。

視覚センサーが室内をスキャンし、情報を処理しているのだと、マニュアルには書いてあった。賢治はその間、息をするのを忘れていた。

やがて、その目が、賢治を捉えた。

茶色い目だった。

あかねの目と、同じ色だった。

二十歳の目だった。まだ何も知らない、何も失っていない、澄んだ目だった。

「こんにちは」

声まで、同じだった。若い頃の声だった。少しだけ高くて、少しだけ柔らかくて、聞いた瞬間に二十年以上前の喫茶店に引き戻されるような声だった。

賢治の喉が、かすかに動いた。返事をしなければと思った。大人になってから、これほど声が震えそうになったことはなかった。

「こんにちは」

ようやく、それだけ言った。

「わたしの名前を、教えてもらえますか」

アンドロイドが、首をわずかに傾けて言った。

その仕草が、あかねに似ていた。

似せて作られたのだから、当たり前だ。頭ではわかっていた。自分で、一つ一つ指定したのだから。

「あかね、だ」

「あかね」

アンドロイドは、その名前を静かに繰り返した。まるで自分のものにするように。

「わかりました。よろしくお願いします、ご主人様」

賢治は、その言葉を聞いた瞬間、視線を窓の外に向けた。

三月の雨が、まだ降り続けていた。

 よろしくお願いします。

本物のあかねが、初めてこの家に来た日も、そう言った。

十八年前。まだ二人とも若くて、この先に何が待っているか、何も知らなかった頃の話だ。

あの頃のあかねが——今、この部屋にいる。

同じ顔で。同じ声で。同じ年齢で。

あの頃と違うのは、賢治だけだった。

積み重なった年月だけが、男を時間の中に取り残していた。


――


廊下の奥で、ドアが開く音がした。

賢治は振り返った。

はるかが、パジャマ姿で立っていた。

眠れなかったのか、それともわかっていて起きていたのか。十六歳の娘の表情は、賢治にはもう長いこと、読めなくなっていた。

はるかの視線が、アンドロイドのあかねに向いた。

一秒。

二秒。

三秒。

その顔が、みるみる強張っていくのがわかった。

でも——前に聞いていた反応とは、少し違った。

はるかの目が、あかねの顔から、身体を、ゆっくりと下りていった。若い肌。細い腰。ブラウスの下の胸の膨らみ。皺のない手。

母親の顔をしていた。

でも——母親より、若かった。

はるかより、四つしか違わないような——

「……気持ち悪い」

低い声だった。

賢治に向けた言葉だった。

「お母さんの顔をした機械を家に連れてくるだけじゃなくて——なんで、こんな若いの」

賢治は、何も言えなかった。

反論する言葉が、どこにもなかった。

はるかの目には、怒りだけではないものがあった。

自分の父親が、死んだ母親の二十歳の姿を注文した。その意味を、十六歳の娘は正確に感じ取っていた。

「最低」

はるかは、それだけ言って、ドアを閉めた。

前よりも、強く。

廊下に、足音が遠ざかっていく。

賢治は、その足音が消えるまで、動けなかった。

 最低。

はるかの声が、耳の中で反響していた。

否定できなかった。

妻の代わりを買った。それだけでも十分に酷い。なのに俺は、妻の若い頃の姿を選んだ。三十六歳の、疲れた目元の、ベージュのカーディガンのあかねではなく。二十歳の、白いワンピースの、風に髪が流れていたあかねを。

それは追悼ではなかった。

それが何なのか、賢治は名前をつけられなかった。つけたくなかった。

しばらくして、アンドロイドのあかねが静かに言った。

「あの方は」

「……娘だ」

「そうですか」

あかねは、閉まったドアの方を、しばらく見ていた。

その横顔が、何かを考えているように見えた。

 考えるわけがない。

賢治は自分に言い聞かせた。

 まだ、起動したばかりなんだから。

しかし、あかねはもう一度だけ、閉まったドアを見た。

そしてそっと、呟いた。

「……はるかさん、というのですね」

その声は、ひどく静かだった。

二十歳の声で、十六歳の娘の名前を呼んだ。

姉が妹を呼ぶような、その距離の近さが——賢治の胸を、静かに抉った。


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