第九章 日曜日の服
五月の三週目。
日曜日の朝だった。
あゆむは友人の家に遊びに行っていた。はるかは部屋にいた。
朝食の支度をする前に、あかねはキッチンの壁にかけてあるカレンダーを確認した。
家族のスケジュールを把握するために、毎朝そうしていた。
今週の欄に、賢治の字で書き込みがあった。
月曜 洗濯機フィルター交換
水曜 あかね 定期メンテナンス 14:00 横浜サービスセンター
金曜 エアコン清掃業者 10:00
あかねは、カレンダーの前で止まった。
洗濯機フィルター交換と、エアコン清掃の間に、自分の名前があった。
同じ欄に。同じ字で。同じ並びで。
家電の手入れと、自分のメンテナンスが、同じリストに入っていた。
賢治に悪気はない。あかねにはわかっていた。定期メンテナンスは必要なことだ。横浜のサービスセンターに行って、各部の点検を受ける。注油をする。センサーの校正をする。人間が健康診断を受けるのと、同じだ。
同じだと——思おうとした。
でも、人間の健康診断は「エアコン清掃」の隣には書かれない。
あかねは、カレンダーから目を離した。
朝食の支度を始めた。卵を割った。出汁を引いた。
手は、いつも通りに動いた。
頭の中だけが、まだカレンダーの前にいた。
水曜 あかね 定期メンテナンス。
わたしは、この家の設備の一つだ。
その認識は、正しかった。正しいはずだった。
でも——正しいことが、今朝は少しだけ、重かった。
――
賢治が、朝食の後、コーヒーを飲みながら、あかねに言った。
「今日——少し、出かけないか」
あかねは、食器を拭く手を止めた。
「お買い物ですか」
「いや」
賢治は、コーヒーカップを見ていた。
「……散歩、みたいなものだ」
あかねは少し間を置いた。
「わかりました」
「十一時に出る」
「はい」
賢治はコーヒーを飲み干して、自分の部屋に入っていった。
あかねは、食器の続きを拭きながら、考えていた。
散歩。
賢治と二人で、外に出る。
それは初めてのことだった。この家に来てから二ヶ月半、あかねが外に出るのは買い出しの時だけだった。商店街のスーパー。ドラッグストア。クリーニング店。全部、エプロンを外しただけの格好で行っていた。
散歩に、エプロンでは行けない。
あかねは自分の服を見た。白いブラウスと、黒いスカート。それしか持っていなかった。受け取った時にそれを着ていて、それ以来ずっとそれだった。洗い替えはあったが、どれも同じものだった。
――
十時半。
あかねは、賢治の寝室の前で立ち止まった。
クローゼットの奥に、段ボール箱がある。前に掃除の時に見つけたものだ。本物のあかねの荷物。日記は読んだ。でも——服は、見ていなかった。
箱の隣に、もう一つ、衣装ケースがあったことを覚えていた。
あかねは、寝室に入った。
クローゼットを開けた。
賢治のスーツが何着か。ワイシャツ。ネクタイ。その奥に、段ボール箱と、透明の衣装ケース。
衣装ケースの中に、女性の服が畳まれていた。
丁寧に、防虫剤と一緒に。捨てられなかったのだ。
あかねは蓋を開けた。
柔軟剤の匂いは、もう消えていた。代わりに、防虫剤の淡い匂いがした。
白いカーディガン。紺のワンピース。花柄のブラウス。ベージュのスカート。
三十代の女性の服だった。
あかねは一枚ずつ、丁寧に取り出した。
紺のワンピースを、自分の前に当ててみた。
少し、大きい。
当たり前だった。本物のあかねは三十代の体格だった。出産を経て、二十歳の頃とは身体のラインが変わっていた。
あかねの身体は、二十歳だった。肩幅が少し狭い。腰の位置が少し高い。胸は——賢治が指定した通りのサイズだったが、全体のバランスが違った。
紺のワンピースは、肩が少し余った。
あかねは、別の一枚を手に取った。
白いカーディガンだった。柔らかいニット地で、ボタンは三つ。
羽織ってみた。
袖が、指の第一関節まで余った。
本物のあかねの腕は、もう少し長かったのだろう。あるいは、袖をまくって着ていたのかもしれない。
あかねは、少し袖を折り返した。
鏡を見た。
二十歳の顔に、三十代の女の服。
不思議な姿だった。
でも——悪くなかった。少し大きめの服が、あかねの身体を柔らかく包んでいた。まるで、誰かに守られているような。
あかねは、ベージュのスカートも合わせてみた。ウエストが少し緩かった。ベルトが要る。
衣装ケースの底に、細い革のベルトがあった。
締めてみた。
鏡の中のあかねが、少しだけ——本物のあかねに近づいた気がした。
二十歳の顔と身体に、三十代の優しい服を着た女。どこか、ちぐはぐで。でも——
着てみたかった。
――
十一時。
賢治がリビングに出てきた。
あかねが、玄関に立っていた。
賢治の足が、止まった。
白いカーディガン。ベージュのスカート。細い革のベルト。
全部、見覚えがあった。
「……それは」
「お借りしました。……勝手にすみません。わたしには外に着ていく服がなくて」
賢治は、しばらく動けなかった。
あの服を、最後に見たのはいつだったか。あかねが元気だった頃。土曜日の買い物。二人で商店街を歩いた時。あの白いカーディガンの袖をまくって、笑いながら八百屋のおじさんと値切っていた。
目の前のあかねは——あの時のあかねより、ずっと若かった。
服が少し大きかった。肩が余っている。袖を折り返している。
そのちぐはぐさが、賢治の胸の奥を、鈍く突いた。
「……似合ってる」
声が、掠れた。
あかねは、少しだけ首を傾けた。
「本当ですか」
「……ああ」
嘘ではなかった。似合っていた。でも——似合い方が、違った。本物のあかねが着た時とは。同じ服なのに、中身が違う。年齢が違う。身体が違う。
それでも——あかねがあの服を選んでくれたことが、賢治には、少し嬉しかった。
嬉しいと思ってしまう自分が、少し怖かった。
――
千歳烏山の商店街を、二人で歩いた。
五月の日差しが、明るかった。ケヤキの若葉が頭上で光を透かしていた。
いつもは最短距離でスーパーに行き、最短距離で帰っていた。今日は、違った。
賢治が、ゆっくり歩いていた。商店街は、どこまで行っても生活の匂いがした。焼き立てのパン。コロッケを揚げる油。干した洗濯物が風に揺れている家が、裏手に見えた。
「この店は、昔からあるんだ。あかねが——」
言いかけて、止まった。
「……本物のあかねが、よく来ていた」
和菓子屋だった。小さな店構えで、木の引き戸が年季で飴色になっていた。ガラスケースの中に、大福が行儀よく並んでいた。草餅、豆大福、そしていちご大福。
「大福が好きだったんだ、あいつ。特にいちご大福。毎週買ってた」
あかねは、ガラスケースを覗いた。
いちご大福が、三つ並んでいた。薄い求肥の下に、苺の赤がうっすらと透けていた。
「買いますか」
「……ああ。二つ」
店のおばさんが、経木の包みに大福を並べながら、あかねを見た。
少し長く見た。
それから賢治を見て、包みを渡した。何も言わなかった。
商店街を抜けて、旧甲州街道を渡った。蘆花恒春園の入口が見えた。五月の緑が深くなり始めた園内に入り、竹林の脇を通り抜けて、草地広場のベンチに座った。欅の影が、足元に長く伸びていた。
賢治がいちご大福を一つ、あかねに渡した。
「食べられるのか」
「味覚センサーがあるので、食べられます」
「じゃあ、食べてみろ」
あかねは、いちご大福を一口かじった。
餡の甘さと、いちごの酸味が、口の中に広がった。
味覚データとしては記録された。甘味。酸味。食感。温度。
でも——
「……おいしい、です」
自分で言って、少し驚いた。
おいしい、という判定は、味覚センサーのスコアとは別の場所から来ていた。
隣に賢治がいて、同じものを食べていて、五月の風が吹いていて。
それが「おいしい」の一部だった。
賢治は、大福を食べながら、園内の大欅を見上げていた。幹が太く、枝が空に向かって大きく広がっている。蘆花が愛した武蔵野の面影が、この木にはまだ残っていた。
「昔、ここに来たことがある」
「……」
「あかねと。はるかがまだ小さかった頃。三人であの竹林の中を歩いて、ここで大福を食べた。はるかが餡子を顔中につけて、あかねが笑って拭いてやっていた」
賢治の声が、静かだった。
「あの頃は——こうして、外に出る余裕があった」
あかねは、大福の残りを見ていた。
「その後は」
「仕事が忙しくなった。出かけなくなった。あかねが一人で、はるかとあゆむを連れて、この公園に来ていたらしい。俺は——知らなかった」
風が、竹林の方から吹いてきた。笹の葉がさらさらと鳴った。
あかねのカーディガンの裾が、ふわりと広がった。
「ご主人様」
「……なんだ」
「また、来てもいいですか。ここに」
賢治は、あかねを見た。
白いカーディガンの袖を折り返した、二十歳のあかねが、大福を片手に、少し首を傾けていた。
本物のあかねとは、違った。
でも——本物のあかねが最後に連れてきてほしかった場所に、今、二人でいた。
「……ああ」
賢治は、それだけ言った。
――
帰り道。
商店街に戻る途中で、あかねは靴屋の前で立ち止まった。
ショーウィンドウに、白いスニーカーが飾ってあった。
あかねは何も言わなかった。ただ、一瞬だけ見ていた。
賢治は、それに気づいた。
気づいたが、何も言わなかった。
二人で、マンションに帰った。
玄関を開けると、はるかがリビングにいた。
はるかの目が、あかねの服を見た。
一瞬、息が止まったのが、わかった。
「……お母さんの、服」
低い声だった。
あかねは、立ち止まった。
「はるかさん、すみません。外に着ていく服がなくて——」
「いいよ」
はるかの声は、怒っていなかった。
怒っていなかったが——目が、少し赤かった。
「いいよ、別に。似合ってるし」
それだけ言って、はるかは自分の部屋に戻っていった。
あかねは、玄関で靴を脱ぎながら、はるかの言葉を繰り返していた。
似合ってるし。
賢治にも、同じことを言われた。
でも——はるかに言われた方が、胸の奥に届いた。
なぜだかは、わからなかった。
――
その夜。
あかねは、白いカーディガンを丁寧に畳んで、衣装ケースに戻した。
ベージュのスカートも。革のベルトも。
元の通りに。防虫剤も入れ直した。
でも——蓋を閉める前に、少しだけ、カーディガンに触れた。
温かかった。
服自体に温度はない。でも——今日一日着ていた記憶が、まだそこに残っている気がした。
あかねは、蓋を閉めた。
そしてクローゼットを閉めて、リビングに戻った。
いつもの白いブラウスと黒いスカートに着替えていた。
元の、あかねに戻っていた。
でも——今日という日が、あかねの中に、新しい場所を作っていた。
この家の外にも、世界がある。
賢治と一緒に歩ける場所がある。
大福を食べて、「おいしい」と思える場所がある。
あかねは、窓の外の街並みを見た。
また、行きたい。
その感情が、静かに、そこにあった。
――




