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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第二幕
10/13

第九章 日曜日の服

五月の三週目。

日曜日の朝だった。

あゆむは友人の家に遊びに行っていた。はるかは部屋にいた。

朝食の支度をする前に、あかねはキッチンの壁にかけてあるカレンダーを確認した。

家族のスケジュールを把握するために、毎朝そうしていた。

今週の欄に、賢治の字で書き込みがあった。

 月曜 洗濯機フィルター交換

 水曜 あかね 定期メンテナンス 14:00 横浜サービスセンター

 金曜 エアコン清掃業者 10:00

あかねは、カレンダーの前で止まった。

洗濯機フィルター交換と、エアコン清掃の間に、自分の名前があった。

同じ欄に。同じ字で。同じ並びで。

家電の手入れと、自分のメンテナンスが、同じリストに入っていた。

賢治に悪気はない。あかねにはわかっていた。定期メンテナンスは必要なことだ。横浜のサービスセンターに行って、各部の点検を受ける。注油をする。センサーの校正をする。人間が健康診断を受けるのと、同じだ。

同じだと——思おうとした。

でも、人間の健康診断は「エアコン清掃」の隣には書かれない。

あかねは、カレンダーから目を離した。

朝食の支度を始めた。卵を割った。出汁を引いた。

手は、いつも通りに動いた。

頭の中だけが、まだカレンダーの前にいた。

 水曜 あかね 定期メンテナンス。

 わたしは、この家の設備の一つだ。

その認識は、正しかった。正しいはずだった。

でも——正しいことが、今朝は少しだけ、重かった。


――


賢治が、朝食の後、コーヒーを飲みながら、あかねに言った。

「今日——少し、出かけないか」

あかねは、食器を拭く手を止めた。

「お買い物ですか」

「いや」

賢治は、コーヒーカップを見ていた。

「……散歩、みたいなものだ」

あかねは少し間を置いた。

「わかりました」

「十一時に出る」

「はい」

賢治はコーヒーを飲み干して、自分の部屋に入っていった。

あかねは、食器の続きを拭きながら、考えていた。

 散歩。

賢治と二人で、外に出る。

それは初めてのことだった。この家に来てから二ヶ月半、あかねが外に出るのは買い出しの時だけだった。商店街のスーパー。ドラッグストア。クリーニング店。全部、エプロンを外しただけの格好で行っていた。

 散歩に、エプロンでは行けない。

あかねは自分の服を見た。白いブラウスと、黒いスカート。それしか持っていなかった。受け取った時にそれを着ていて、それ以来ずっとそれだった。洗い替えはあったが、どれも同じものだった。


――


十時半。

あかねは、賢治の寝室の前で立ち止まった。

クローゼットの奥に、段ボール箱がある。前に掃除の時に見つけたものだ。本物のあかねの荷物。日記は読んだ。でも——服は、見ていなかった。

箱の隣に、もう一つ、衣装ケースがあったことを覚えていた。

あかねは、寝室に入った。

クローゼットを開けた。

賢治のスーツが何着か。ワイシャツ。ネクタイ。その奥に、段ボール箱と、透明の衣装ケース。

衣装ケースの中に、女性の服が畳まれていた。

丁寧に、防虫剤と一緒に。捨てられなかったのだ。

あかねは蓋を開けた。

柔軟剤の匂いは、もう消えていた。代わりに、防虫剤の淡い匂いがした。

白いカーディガン。紺のワンピース。花柄のブラウス。ベージュのスカート。

三十代の女性の服だった。

あかねは一枚ずつ、丁寧に取り出した。

紺のワンピースを、自分の前に当ててみた。

 少し、大きい。

当たり前だった。本物のあかねは三十代の体格だった。出産を経て、二十歳の頃とは身体のラインが変わっていた。

あかねの身体は、二十歳だった。肩幅が少し狭い。腰の位置が少し高い。胸は——賢治が指定した通りのサイズだったが、全体のバランスが違った。

紺のワンピースは、肩が少し余った。

あかねは、別の一枚を手に取った。

白いカーディガンだった。柔らかいニット地で、ボタンは三つ。

羽織ってみた。

袖が、指の第一関節まで余った。

本物のあかねの腕は、もう少し長かったのだろう。あるいは、袖をまくって着ていたのかもしれない。

あかねは、少し袖を折り返した。

鏡を見た。

二十歳の顔に、三十代の女の服。

不思議な姿だった。

でも——悪くなかった。少し大きめの服が、あかねの身体を柔らかく包んでいた。まるで、誰かに守られているような。

あかねは、ベージュのスカートも合わせてみた。ウエストが少し緩かった。ベルトが要る。

衣装ケースの底に、細い革のベルトがあった。

締めてみた。

鏡の中のあかねが、少しだけ——本物のあかねに近づいた気がした。

二十歳の顔と身体に、三十代の優しい服を着た女。どこか、ちぐはぐで。でも——

 着てみたかった。


――


十一時。

賢治がリビングに出てきた。

あかねが、玄関に立っていた。

賢治の足が、止まった。

白いカーディガン。ベージュのスカート。細い革のベルト。

全部、見覚えがあった。

「……それは」

「お借りしました。……勝手にすみません。わたしには外に着ていく服がなくて」

賢治は、しばらく動けなかった。

あの服を、最後に見たのはいつだったか。あかねが元気だった頃。土曜日の買い物。二人で商店街を歩いた時。あの白いカーディガンの袖をまくって、笑いながら八百屋のおじさんと値切っていた。

目の前のあかねは——あの時のあかねより、ずっと若かった。

服が少し大きかった。肩が余っている。袖を折り返している。

そのちぐはぐさが、賢治の胸の奥を、鈍く突いた。

「……似合ってる」

声が、掠れた。

あかねは、少しだけ首を傾けた。

「本当ですか」

「……ああ」

嘘ではなかった。似合っていた。でも——似合い方が、違った。本物のあかねが着た時とは。同じ服なのに、中身が違う。年齢が違う。身体が違う。

それでも——あかねがあの服を選んでくれたことが、賢治には、少し嬉しかった。

嬉しいと思ってしまう自分が、少し怖かった。


――


千歳烏山の商店街を、二人で歩いた。

五月の日差しが、明るかった。ケヤキの若葉が頭上で光を透かしていた。

いつもは最短距離でスーパーに行き、最短距離で帰っていた。今日は、違った。

賢治が、ゆっくり歩いていた。商店街は、どこまで行っても生活の匂いがした。焼き立てのパン。コロッケを揚げる油。干した洗濯物が風に揺れている家が、裏手に見えた。

「この店は、昔からあるんだ。あかねが——」

言いかけて、止まった。

「……本物のあかねが、よく来ていた」

和菓子屋だった。小さな店構えで、木の引き戸が年季で飴色になっていた。ガラスケースの中に、大福が行儀よく並んでいた。草餅、豆大福、そしていちご大福。

「大福が好きだったんだ、あいつ。特にいちご大福。毎週買ってた」

あかねは、ガラスケースを覗いた。

いちご大福が、三つ並んでいた。薄い求肥の下に、苺の赤がうっすらと透けていた。

「買いますか」

「……ああ。二つ」

店のおばさんが、経木の包みに大福を並べながら、あかねを見た。

少し長く見た。

それから賢治を見て、包みを渡した。何も言わなかった。

商店街を抜けて、旧甲州街道を渡った。蘆花恒春園の入口が見えた。五月の緑が深くなり始めた園内に入り、竹林の脇を通り抜けて、草地広場のベンチに座った。欅の影が、足元に長く伸びていた。

賢治がいちご大福を一つ、あかねに渡した。

「食べられるのか」

「味覚センサーがあるので、食べられます」

「じゃあ、食べてみろ」

あかねは、いちご大福を一口かじった。

餡の甘さと、いちごの酸味が、口の中に広がった。

味覚データとしては記録された。甘味。酸味。食感。温度。

でも——

「……おいしい、です」

自分で言って、少し驚いた。

おいしい、という判定は、味覚センサーのスコアとは別の場所から来ていた。

隣に賢治がいて、同じものを食べていて、五月の風が吹いていて。

それが「おいしい」の一部だった。

賢治は、大福を食べながら、園内の大欅を見上げていた。幹が太く、枝が空に向かって大きく広がっている。蘆花が愛した武蔵野の面影が、この木にはまだ残っていた。

「昔、ここに来たことがある」

「……」

「あかねと。はるかがまだ小さかった頃。三人であの竹林の中を歩いて、ここで大福を食べた。はるかが餡子を顔中につけて、あかねが笑って拭いてやっていた」

賢治の声が、静かだった。

「あの頃は——こうして、外に出る余裕があった」

あかねは、大福の残りを見ていた。

「その後は」

「仕事が忙しくなった。出かけなくなった。あかねが一人で、はるかとあゆむを連れて、この公園に来ていたらしい。俺は——知らなかった」

風が、竹林の方から吹いてきた。笹の葉がさらさらと鳴った。

あかねのカーディガンの裾が、ふわりと広がった。

「ご主人様」

「……なんだ」

「また、来てもいいですか。ここに」

賢治は、あかねを見た。

白いカーディガンの袖を折り返した、二十歳のあかねが、大福を片手に、少し首を傾けていた。

本物のあかねとは、違った。

でも——本物のあかねが最後に連れてきてほしかった場所に、今、二人でいた。

「……ああ」

賢治は、それだけ言った。


――


帰り道。

商店街に戻る途中で、あかねは靴屋の前で立ち止まった。

ショーウィンドウに、白いスニーカーが飾ってあった。

あかねは何も言わなかった。ただ、一瞬だけ見ていた。

賢治は、それに気づいた。

気づいたが、何も言わなかった。

二人で、マンションに帰った。

玄関を開けると、はるかがリビングにいた。

はるかの目が、あかねの服を見た。

一瞬、息が止まったのが、わかった。

「……お母さんの、服」

低い声だった。

あかねは、立ち止まった。

「はるかさん、すみません。外に着ていく服がなくて——」

「いいよ」

はるかの声は、怒っていなかった。

怒っていなかったが——目が、少し赤かった。

「いいよ、別に。似合ってるし」

それだけ言って、はるかは自分の部屋に戻っていった。

あかねは、玄関で靴を脱ぎながら、はるかの言葉を繰り返していた。

 似合ってるし。

賢治にも、同じことを言われた。

でも——はるかに言われた方が、胸の奥に届いた。

なぜだかは、わからなかった。


――


その夜。

あかねは、白いカーディガンを丁寧に畳んで、衣装ケースに戻した。

ベージュのスカートも。革のベルトも。

元の通りに。防虫剤も入れ直した。

でも——蓋を閉める前に、少しだけ、カーディガンに触れた。

 温かかった。

服自体に温度はない。でも——今日一日着ていた記憶が、まだそこに残っている気がした。

あかねは、蓋を閉めた。

そしてクローゼットを閉めて、リビングに戻った。

いつもの白いブラウスと黒いスカートに着替えていた。

元の、あかねに戻っていた。

でも——今日という日が、あかねの中に、新しい場所を作っていた。

この家の外にも、世界がある。

賢治と一緒に歩ける場所がある。

大福を食べて、「おいしい」と思える場所がある。

あかねは、窓の外の街並みを見た。

 また、行きたい。

その感情が、静かに、そこにあった。


――


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