第十章 五月の台所
五月の下旬。
梅雨には早いが、空気が重くなってきた。
あかねは朝五時半に起きて、台所に立った。
まだ誰も起きていない。窓の外は薄暗い。換気扇の音だけが、静かに回っている。
卵を割る。出汁を引く。米を研ぐ。
二ヶ月半で、この家の朝食の形が、あかねの中に出来上がっていた。
賢治は魚より肉が好きだが、朝は焼き鮭を黙って食べる。あゆむは何でも食べるが、味噌汁の具が豆腐だと機嫌がいい。はるかは——
はるかさんは、温かいものを先に食べる。
味噌汁から手をつける。それから白米。おかずは最後。
誰にも言われていない。あかねが、見て、覚えた。
見て、覚えた。
データの収集と最適化。マニュアルにはそう書いてある。
あかねは、卵焼きをひっくり返した。
覚えたくて、覚えたのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、あかねの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
――
朝食の時間。
あゆむが、味噌汁を飲みながら言った。
「あかねさん、今日の味噌汁、いつもと違う」
「わかりますか」
「うん。なんか、甘い」
「玉ねぎを少し入れてみました」
「うまい! これにして! 毎日これ!」
あかねが、口元に手を当てて笑った。
賢治がコーヒーを飲みながら、あゆむを見た。
「毎日は飽きるぞ」
「飽きない!」
「飽きる」
「飽きないってば!」
はるかが、黙って味噌汁を飲んでいた。
一口、二口。
椀を置いて——ほんの一瞬だけ、あかねの方を見た。
目は合わなかった。
でも、椀の中は空だった。
――
賢治とあゆむが出かけた後、あかねは食器を洗っていた。
はるかは、まだテーブルに座っていた。
スマートフォンを見ている。立つ気配がない。
いつもなら、食事が終わるとすぐに部屋に戻る。
あかねは、それに気づいていた。気づいていたが、何も言わなかった。
水の音だけが、続いた。
しばらくして、はるかが言った。
「……玉ねぎ」
「はい」
「いつから入れようと思ってたの」
「昨日の夜です。あゆむさんが最近、甘いものを好んで食べていたので」
「……ふうん」
はるかは立ち上がって、自分の部屋に向かった。
廊下に出てから、足が止まった。
「……おいしかった」
振り返らずに、言った。
あかねは、水を止めた。
はるかの足音が、遠ざかっていった。
あかねは、しばらく蛇口を見ていた。
おいしかった。
その三文字が、あかねの中で、どこにしまえばいいのかわからないものになっていた。
嬉しい。
定義は知っていた。でも——定義の中に自分がいるのは、初めてだった。
あかねは、蛇口をもう一度ひねって、食器の続きを洗い始めた。
胸の中に、さっきの三文字が、まだ残っていた。
――
その日の昼。
賢治は会社のデスクで、弁当を食べていた。
あかねが今朝から持たせるようになった弁当だった。頼んだわけではない。あかねが「作ってもいいですか」と聞いてきて、賢治は「ああ」とだけ答えた。
今朝、玄関で弁当を受け取った時のことを思い出した。あかねが両手で差し出して、少しだけ前屈みになった。ブラウスの襟元が開いて、鎖骨の下の白い肌が見えた。賢治は弁当を受け取って、すぐに目を逸らした。
なぜ目を逸らしたのか、自分でもわからなかった。
卵焼きが入っていた。
少し甘めの、出汁巻き。
一口食べて、賢治は箸を止めた。
本物のあかねの卵焼きは、もう少し塩が強かった。
味が違う。
違うのに——うまい。
賢治は、弁当の蓋を見た。なぜか、それ以上食べ進める手が止まっていた。
「部長、弁当ですか。珍しいですね」
真彩が、横を通りながら言った。
「ああ。あかねが作った」
言ってから——気づいた。
あかねが、と言った。
あかねさんが、でも、アンドロイドが、でもなく。
名前で呼んでいた。妻を呼ぶのと同じように。
真彩は、一瞬だけ目を細めた。
「……おいしそうですね」
「ああ」
真彩が去った後、賢治は弁当の続きを食べた。
味が違う。
もう一度、そう思った。
違うのに、箸が止まらなかった。
――
その日の午後。
真彩から、あかねの携帯に連絡が来た。
「あかねさん、今日の夕方、少し時間ある? 賢治さんの誕生日プレゼントの相談をしたいの」
「ご主人様のお誕生日は、来月ですね」
「そう。だから早めに準備しておこうと思って。六時に商店街のカフェで」
「……わかりました」
あかねは、電話を切った。
また、池田さんだ。
前回、真彩に呼び出された時のことを思い出した。座っていろと言われた夜のこと。賢治の冷たい目。自分では説明できない沈黙。
あの時も、従うしかなかった。
あかねは、窓の外を見た。
五月の空が、少し曇っていた。
――
商店街のカフェ。
真彩が先に座っていた。
あかねが入ると、真彩は笑顔で手を振った。
「こっち、こっち」
あかねは向かいに座った。
「ありがとうございます。お忙しいのに」
「いえ」
真彩がメニューを開きながら、何気ない口調で言った。
「ねえ、あかねさん。一つ聞いてもいい?」
「はい」
「あなた、賢治さんのこと、どう思ってる?」
あかねは、少し間を置いた。
「ご主人様は、大切な方です」
「大切、ね」
真彩が、コーヒーを一口飲んだ。
「あかねさんにとっての"大切"って、どういう意味なの? 命令に従うべき人、っていう意味?」
「……」
「それとも、もっと別の意味?」
あかねは、答えられなかった。
答えられないのは、言葉が見つからないからではなかった。
答えが——自分の中で、まだ形になっていなかったからだった。
真彩は、あかねの沈黙を見て、少し笑った。
「困らせちゃったかな。ごめんね」
それから、話題を変えた。プレゼントの候補。ネクタイか、万年筆か。あかねは、いくつか答えた。
話がひと段落した頃、真彩が紅茶をかき混ぜながら、思い出したように言った。
「ねえ、あかねさん。本物のあかねさんのこと、聞いてもいい?」
「わたしにわかることでしたら」
「わたし、あかねさんが亡くなる前の一年くらい、近くで見てたの。賢治さんの部下だったから」
あかねは黙っていた。
「あの頃のあかねさん——正直に言うとね、すごく疲れてた。もう、全部に疲れてるって感じだった」
「……」
「家のことも、子どもたちのことも。全部嫌になってたんだと思う。はるかちゃんのこともね——」
真彩が、少し声を落とした。
「あの頃、はるかちゃんが反抗期で大変だったのは知ってるでしょう。あかねさん、はるかちゃんのことを、もう手に負えないって言ってた時期があったの。わたしに、電話で」
あかねの指が、カップの取っ手の上で、かすかに動いた。
「賢治さんには言えなかったみたい。だからわたしに——ちょっと愚痴みたいに。『はるかがわたしの言うこと全然聞かない。もう嫌になる』って」
真彩の声は、悲しそうだった。
心から悲しんでいるように聞こえた。
「あかねさんは、あの家にいるのが辛かったんだと思う。最後の方は——逃げたかったんじゃないかな」
あかねは、何も言わなかった。
言えなかった。
本物のあかねの日記を、あかねは読んでいた。
あの日記の中の女は——確かに疲れていた。確かに孤独だった。
でも——
はるかのことを「手に負えない」とは、一度も書いていなかった。
はるかの宿題のこと。はるかが初めて自転車に乗れた日のこと。はるかが熱を出した夜のこと。全部、丁寧に、愛情のある字で書いてあった。
疲れ果てていても、はるかのことを諦めた言葉は、一行もなかった。
「逃げたかった」——その言葉が、あかねの胸に刺さった。
真彩の話は、本当かもしれない。日記に書かなかっただけで、口に出したことがあったのかもしれない。
あかねには、確かめる術がなかった。
でも——日記を読んだあかねだけが知っていることがあった。
あの女は、逃げなかった。
最後の最後まで、味噌汁を作り続けた。
はるかのお弁当の材料を買いに行くために、自転車に乗った。
それが——逃げた人間のすることか。
あかねは、それを口にしなかった。
口にできなかった。真彩の言葉を否定することは、人間の証言を否定することだった。アンドロイドが、人間の記憶に反論することは——足かせの中では、できなかった。
「ごめんね、重い話しちゃって」
真彩が、紅茶を飲み干した。
「でも、知っておいた方がいいかなと思って。あなたがあの家にいるなら」
あかねは、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
でも——
真彩の質問も、真彩の思い出話も、頭から離れなかった。
大切、の意味。
あかねは、カフェを出てから、商店街をゆっくり歩いた。
夕方の商店街。買い物帰りの主婦が自転車で通り過ぎる。子どもたちが走り回っている。居酒屋が暖簾を出し始めている。
あかねは、立ち止まった。
ご主人様は、大切な方です。
自分で言った言葉を、もう一度、考えた。
命令に従うべき人。それは、正しい。
でも——
朝、出かける時の背中を見ると、行ってらっしゃいと言いたくなる。
夜、疲れた顔で帰ってくると、おかえりなさいと言う前に、湯を沸かしたくなる。
それは、命令ではない。
あかねは、歩き出した。
命令ではないのに、そうしたいと思う。
それを、なんと呼ぶのか。
答えは、まだなかった。
――
その夜。
あかねは、休息に入った。
今日は、いろいろなことがあった。
はるかの「おいしかった」。真彩の「大切って、どういう意味」。そして——「逃げたかったんじゃないかな」。
全部が、整理されないまま、あかねの中に積み重なっていた。
目を閉じた。
夢の中に、入っていった。
――
今夜の場所は、見覚えがあった。
桜木家のリビングだった。
でも——少し違った。
壁の色が、今より明るかった。家具の配置も違う。テーブルの上に、子どもの描いた絵が広げてある。クレヨンの赤と黄色。太陽の絵だった。
窓の外は、夕方だった。
キッチンに、女が立っていた。
背中が見えた。黒い髪。エプロン姿。
前に会った時と、何かが違った。
女が振り返った。
同じ顔だった。
でも——目の下に、影があった。
髪を束ねていたが、ほつれた毛が何本か頬にかかっていた。直す気力もないように、そのままにしていた。
三十代の前半だった。はるかが小学校に上がって間もない頃。あゆむがまだ幼稚園にも入っていない頃。
「……来たの」
声が、前より低かった。
「はい」
「今日は——あんまり、話す元気ないかも」
女は、鍋の中を覗いた。味噌汁だった。
「でも、作らなきゃ。はるかが帰ってくるから」
あかねは、キッチンの入り口に立ったまま、女を見ていた。
動きが、重かった。
前に会った時のような、軽やかさがなかった。鼻歌もなかった。
ただ、黙々と、味噌汁をかき混ぜていた。
「……聞いてもいいですか」
あかねが言った。
「なに」
「何が——変わったんですか」
女は、しばらく答えなかった。
お玉を鍋の縁に置いて、窓の外を見た。
「何も、変わってないよ」
「……」
「何も変わってない。毎日同じ。朝起きて、ごはん作って、洗濯して、はるかを送り出して、あゆむをあやして、掃除して、またごはん作って、寝る」
女の声が、平坦だった。
「賢治さんは——帰ってこないの。遅いの。毎日毎日、遅いの」
「……」
「電話しても、"今日も遅くなる"って。それだけ」
女が、振り返った。
笑っていた。
でも——目が、笑っていなかった。
「ねえ、あなたは、わたしの代わりなんでしょう」
「……」
「だったら教えて。毎日同じことを繰り返して、誰にも気づいてもらえなくて、それでもやり続ける理由って——なに」
あかねは、答えられなかった。
女は、また鍋に向き直った。
「……ごめんね。変なこと聞いて」
「いえ」
「答えなくていいよ。わたしだって、わからないんだから」
味噌汁の湯気が、静かに立ち上っていた。
女の背中が、小さく見えた。
あかねは、その背中を、見ていた。
この人は、毎日、この台所に立っていた。
誰にも気づかれないまま。
誰にも労われないまま。
それでも——毎朝、味噌汁を作っていた。
逃げたかったのかもしれない。でも——逃げなかった。
あかねの胸の中で、何かが、きしんだ。
悲しい。
その言葉が、初めて自分のものになった。
女は、もう振り返らなかった。
ただ、味噌汁をかき混ぜ続けていた。
窓の外で、夕日が沈んでいった。
――
あかねは、目を開けた。
リビングは暗かった。午前三時だった。
悲しみが、目を開けた後も、消えなかった。
あかねは、キッチンに向かった。
コップに水を注いで、両手で包んだ。冷たかった。
飲む必要はない。でも——何かをしないと、胸の中のものが溢れそうだった。
暗い台所で、一人で、コップを抱えていた。
本物のあかねも、こうして——夜中に一人で、この台所に立っていたのだろうか。
あかねは、コップを流しに置いた。
リビングに戻った。
わたしは、この家で、同じことをしている。
でも——わたしには、まだ帰ってくる人がいる。
あかねは、自分の胸に手を当てた。
心臓はない。でも——何かが、そこにあった。
名前はまだ、わからなかった。
――




