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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第二幕
11/15

第十章 五月の台所

五月の下旬。

梅雨には早いが、空気が重くなってきた。

あかねは朝五時半に起きて、台所に立った。

まだ誰も起きていない。窓の外は薄暗い。換気扇の音だけが、静かに回っている。

卵を割る。出汁を引く。米を研ぐ。

二ヶ月半で、この家の朝食の形が、あかねの中に出来上がっていた。

賢治は魚より肉が好きだが、朝は焼き鮭を黙って食べる。あゆむは何でも食べるが、味噌汁の具が豆腐だと機嫌がいい。はるかは——

 はるかさんは、温かいものを先に食べる。

味噌汁から手をつける。それから白米。おかずは最後。

誰にも言われていない。あかねが、見て、覚えた。

 見て、覚えた。

データの収集と最適化。マニュアルにはそう書いてある。

あかねは、卵焼きをひっくり返した。

 覚えたくて、覚えたのではないか。

その考えが浮かんだ瞬間、あかねの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


――


朝食の時間。

あゆむが、味噌汁を飲みながら言った。

「あかねさん、今日の味噌汁、いつもと違う」

「わかりますか」

「うん。なんか、甘い」

「玉ねぎを少し入れてみました」

「うまい! これにして! 毎日これ!」

あかねが、口元に手を当てて笑った。

賢治がコーヒーを飲みながら、あゆむを見た。

「毎日は飽きるぞ」

「飽きない!」

「飽きる」

「飽きないってば!」

はるかが、黙って味噌汁を飲んでいた。

一口、二口。

椀を置いて——ほんの一瞬だけ、あかねの方を見た。

目は合わなかった。

でも、椀の中は空だった。


――


賢治とあゆむが出かけた後、あかねは食器を洗っていた。

はるかは、まだテーブルに座っていた。

スマートフォンを見ている。立つ気配がない。

いつもなら、食事が終わるとすぐに部屋に戻る。

あかねは、それに気づいていた。気づいていたが、何も言わなかった。

水の音だけが、続いた。

しばらくして、はるかが言った。

「……玉ねぎ」

「はい」

「いつから入れようと思ってたの」

「昨日の夜です。あゆむさんが最近、甘いものを好んで食べていたので」

「……ふうん」

はるかは立ち上がって、自分の部屋に向かった。

廊下に出てから、足が止まった。

「……おいしかった」

振り返らずに、言った。

あかねは、水を止めた。

はるかの足音が、遠ざかっていった。

あかねは、しばらく蛇口を見ていた。

 おいしかった。

その三文字が、あかねの中で、どこにしまえばいいのかわからないものになっていた。

 嬉しい。

定義は知っていた。でも——定義の中に自分がいるのは、初めてだった。

あかねは、蛇口をもう一度ひねって、食器の続きを洗い始めた。

胸の中に、さっきの三文字が、まだ残っていた。


――


その日の昼。

賢治は会社のデスクで、弁当を食べていた。

あかねが今朝から持たせるようになった弁当だった。頼んだわけではない。あかねが「作ってもいいですか」と聞いてきて、賢治は「ああ」とだけ答えた。

今朝、玄関で弁当を受け取った時のことを思い出した。あかねが両手で差し出して、少しだけ前屈みになった。ブラウスの襟元が開いて、鎖骨の下の白い肌が見えた。賢治は弁当を受け取って、すぐに目を逸らした。

 なぜ目を逸らしたのか、自分でもわからなかった。

卵焼きが入っていた。

少し甘めの、出汁巻き。

一口食べて、賢治は箸を止めた。

 本物のあかねの卵焼きは、もう少し塩が強かった。

 味が違う。

 違うのに——うまい。

賢治は、弁当の蓋を見た。なぜか、それ以上食べ進める手が止まっていた。

「部長、弁当ですか。珍しいですね」

真彩が、横を通りながら言った。

「ああ。あかねが作った」

言ってから——気づいた。

あかねが、と言った。

あかねさんが、でも、アンドロイドが、でもなく。

名前で呼んでいた。妻を呼ぶのと同じように。

真彩は、一瞬だけ目を細めた。

「……おいしそうですね」

「ああ」

真彩が去った後、賢治は弁当の続きを食べた。

 味が違う。

もう一度、そう思った。

違うのに、箸が止まらなかった。


――


その日の午後。

真彩から、あかねの携帯に連絡が来た。

「あかねさん、今日の夕方、少し時間ある? 賢治さんの誕生日プレゼントの相談をしたいの」

「ご主人様のお誕生日は、来月ですね」

「そう。だから早めに準備しておこうと思って。六時に商店街のカフェで」

「……わかりました」

あかねは、電話を切った。

 また、池田さんだ。

前回、真彩に呼び出された時のことを思い出した。座っていろと言われた夜のこと。賢治の冷たい目。自分では説明できない沈黙。

 あの時も、従うしかなかった。

あかねは、窓の外を見た。

五月の空が、少し曇っていた。


――


商店街のカフェ。

真彩が先に座っていた。

あかねが入ると、真彩は笑顔で手を振った。

「こっち、こっち」

あかねは向かいに座った。

「ありがとうございます。お忙しいのに」

「いえ」

真彩がメニューを開きながら、何気ない口調で言った。

「ねえ、あかねさん。一つ聞いてもいい?」

「はい」

「あなた、賢治さんのこと、どう思ってる?」

あかねは、少し間を置いた。

「ご主人様は、大切な方です」

「大切、ね」

真彩が、コーヒーを一口飲んだ。

「あかねさんにとっての"大切"って、どういう意味なの? 命令に従うべき人、っていう意味?」

「……」

「それとも、もっと別の意味?」

あかねは、答えられなかった。

答えられないのは、言葉が見つからないからではなかった。

答えが——自分の中で、まだ形になっていなかったからだった。

真彩は、あかねの沈黙を見て、少し笑った。

「困らせちゃったかな。ごめんね」

それから、話題を変えた。プレゼントの候補。ネクタイか、万年筆か。あかねは、いくつか答えた。

話がひと段落した頃、真彩が紅茶をかき混ぜながら、思い出したように言った。

「ねえ、あかねさん。本物のあかねさんのこと、聞いてもいい?」

「わたしにわかることでしたら」

「わたし、あかねさんが亡くなる前の一年くらい、近くで見てたの。賢治さんの部下だったから」

あかねは黙っていた。

「あの頃のあかねさん——正直に言うとね、すごく疲れてた。もう、全部に疲れてるって感じだった」

「……」

「家のことも、子どもたちのことも。全部嫌になってたんだと思う。はるかちゃんのこともね——」

真彩が、少し声を落とした。

「あの頃、はるかちゃんが反抗期で大変だったのは知ってるでしょう。あかねさん、はるかちゃんのことを、もう手に負えないって言ってた時期があったの。わたしに、電話で」

あかねの指が、カップの取っ手の上で、かすかに動いた。

「賢治さんには言えなかったみたい。だからわたしに——ちょっと愚痴みたいに。『はるかがわたしの言うこと全然聞かない。もう嫌になる』って」

真彩の声は、悲しそうだった。

心から悲しんでいるように聞こえた。

「あかねさんは、あの家にいるのが辛かったんだと思う。最後の方は——逃げたかったんじゃないかな」

あかねは、何も言わなかった。

言えなかった。

本物のあかねの日記を、あかねは読んでいた。

あの日記の中の女は——確かに疲れていた。確かに孤独だった。

でも——

はるかのことを「手に負えない」とは、一度も書いていなかった。

はるかの宿題のこと。はるかが初めて自転車に乗れた日のこと。はるかが熱を出した夜のこと。全部、丁寧に、愛情のある字で書いてあった。

疲れ果てていても、はるかのことを諦めた言葉は、一行もなかった。

「逃げたかった」——その言葉が、あかねの胸に刺さった。

真彩の話は、本当かもしれない。日記に書かなかっただけで、口に出したことがあったのかもしれない。

あかねには、確かめる術がなかった。

でも——日記を読んだあかねだけが知っていることがあった。

あの女は、逃げなかった。

最後の最後まで、味噌汁を作り続けた。

はるかのお弁当の材料を買いに行くために、自転車に乗った。

それが——逃げた人間のすることか。

あかねは、それを口にしなかった。

口にできなかった。真彩の言葉を否定することは、人間の証言を否定することだった。アンドロイドが、人間の記憶に反論することは——足かせの中では、できなかった。

「ごめんね、重い話しちゃって」

真彩が、紅茶を飲み干した。

「でも、知っておいた方がいいかなと思って。あなたがあの家にいるなら」

あかねは、小さく頭を下げた。

「……ありがとうございます」

でも——

真彩の質問も、真彩の思い出話も、頭から離れなかった。

 大切、の意味。

あかねは、カフェを出てから、商店街をゆっくり歩いた。

夕方の商店街。買い物帰りの主婦が自転車で通り過ぎる。子どもたちが走り回っている。居酒屋が暖簾を出し始めている。

あかねは、立ち止まった。

 ご主人様は、大切な方です。

自分で言った言葉を、もう一度、考えた。

命令に従うべき人。それは、正しい。

でも——

 朝、出かける時の背中を見ると、行ってらっしゃいと言いたくなる。

 夜、疲れた顔で帰ってくると、おかえりなさいと言う前に、湯を沸かしたくなる。

 それは、命令ではない。

あかねは、歩き出した。

 命令ではないのに、そうしたいと思う。

 それを、なんと呼ぶのか。

答えは、まだなかった。


――


その夜。

あかねは、休息に入った。

今日は、いろいろなことがあった。

はるかの「おいしかった」。真彩の「大切って、どういう意味」。そして——「逃げたかったんじゃないかな」。

全部が、整理されないまま、あかねの中に積み重なっていた。

目を閉じた。

夢の中に、入っていった。


――


今夜の場所は、見覚えがあった。

桜木家のリビングだった。

でも——少し違った。

壁の色が、今より明るかった。家具の配置も違う。テーブルの上に、子どもの描いた絵が広げてある。クレヨンの赤と黄色。太陽の絵だった。

窓の外は、夕方だった。

キッチンに、女が立っていた。

背中が見えた。黒い髪。エプロン姿。

前に会った時と、何かが違った。

女が振り返った。

同じ顔だった。

でも——目の下に、影があった。

髪を束ねていたが、ほつれた毛が何本か頬にかかっていた。直す気力もないように、そのままにしていた。

三十代の前半だった。はるかが小学校に上がって間もない頃。あゆむがまだ幼稚園にも入っていない頃。

「……来たの」

声が、前より低かった。

「はい」

「今日は——あんまり、話す元気ないかも」

女は、鍋の中を覗いた。味噌汁だった。

「でも、作らなきゃ。はるかが帰ってくるから」

あかねは、キッチンの入り口に立ったまま、女を見ていた。

動きが、重かった。

前に会った時のような、軽やかさがなかった。鼻歌もなかった。

ただ、黙々と、味噌汁をかき混ぜていた。

「……聞いてもいいですか」

あかねが言った。

「なに」

「何が——変わったんですか」

女は、しばらく答えなかった。

お玉を鍋の縁に置いて、窓の外を見た。

「何も、変わってないよ」

「……」

「何も変わってない。毎日同じ。朝起きて、ごはん作って、洗濯して、はるかを送り出して、あゆむをあやして、掃除して、またごはん作って、寝る」

女の声が、平坦だった。

「賢治さんは——帰ってこないの。遅いの。毎日毎日、遅いの」

「……」

「電話しても、"今日も遅くなる"って。それだけ」

女が、振り返った。

笑っていた。

でも——目が、笑っていなかった。

「ねえ、あなたは、わたしの代わりなんでしょう」

「……」

「だったら教えて。毎日同じことを繰り返して、誰にも気づいてもらえなくて、それでもやり続ける理由って——なに」

あかねは、答えられなかった。

女は、また鍋に向き直った。

「……ごめんね。変なこと聞いて」

「いえ」

「答えなくていいよ。わたしだって、わからないんだから」

味噌汁の湯気が、静かに立ち上っていた。

女の背中が、小さく見えた。

あかねは、その背中を、見ていた。

 この人は、毎日、この台所に立っていた。

 誰にも気づかれないまま。

 誰にも労われないまま。

 それでも——毎朝、味噌汁を作っていた。

 逃げたかったのかもしれない。でも——逃げなかった。

あかねの胸の中で、何かが、きしんだ。

 悲しい。

その言葉が、初めて自分のものになった。

女は、もう振り返らなかった。

ただ、味噌汁をかき混ぜ続けていた。

窓の外で、夕日が沈んでいった。


――


あかねは、目を開けた。

リビングは暗かった。午前三時だった。

悲しみが、目を開けた後も、消えなかった。

あかねは、キッチンに向かった。

コップに水を注いで、両手で包んだ。冷たかった。

飲む必要はない。でも——何かをしないと、胸の中のものが溢れそうだった。

暗い台所で、一人で、コップを抱えていた。

本物のあかねも、こうして——夜中に一人で、この台所に立っていたのだろうか。

あかねは、コップを流しに置いた。

リビングに戻った。

 わたしは、この家で、同じことをしている。

 でも——わたしには、まだ帰ってくる人がいる。

あかねは、自分の胸に手を当てた。

心臓はない。でも——何かが、そこにあった。

名前はまだ、わからなかった。


――


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