第十一章 あの人の夢
六月に入った。
雨の日が増えた。
千歳烏山の商店街は、傘の花が並ぶようになった。あゆむは長靴を履いて水たまりを踏むのが好きだった。賢治は折りたたみ傘を毎日忘れた。はるかは濡れるのが嫌で、少しでも曇ると学校に傘を持っていった。
あかねは、三人分の傘を玄関に並べるようになった。
誰にも頼まれていなかった。
――
ある土曜日の昼。
雨が降っていた。
賢治は会社。あゆむは友人の家。
はるかは、リビングのソファに座って、スマートフォンを見ていた。
あかねは、キッチンでアイロンをかけていた。
しばらく、雨の音だけが続いた。
「ねえ」
はるかが言った。
あかねは振り返らなかった。アイロンの手を止めずに、答えた。
「はい」
「あなた、夢見るの?」
あかねの手が、一瞬だけ止まった。
「……なぜ、そう思うんですか」
「この前、夜中に起きた時、あなたがリビングで座ってた。目をつぶって。でも寝てるみたいじゃなかった。なんか——考えてるみたいだった」
あかねは、アイロンを台に置いた。
「休息を取っています。記憶の定着のために、目を閉じる時間が必要なんです」
「それって、寝てるってこと?」
「似ていますが——少し違います」
「夢は?」
あかねは、はるかを見た。
はるかは、スマートフォンを膝の上に置いて、あかねを見ていた。
拒絶の目ではなかった。
好奇心でもなかった。
何か別のものが、そこにあった。
「……見ます」
「どんな」
あかねは、しばらく迷った。
言うべきかどうか。
でも——はるかが、初めて、自分に何かを聞きたがっている。拒絶ではなく、知りたいという目で。
「……本物のあかねさんの夢を見ます」
はるかの表情が、止まった。
「……は?」
「本物のあかねさんの夢です」
はるかは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと、身体をあかねの方に向けた。
「……どういうこと」
「休息の中で——あかねさんに会います。夢の中で。何度も」
「何度もって——」
「最初は、二十歳の頃のあかねさんでした。成人式の振袖を着ていて、とても——輝いていました」
はるかの唇が、かすかに動いた。何かを言いかけて、止めた。
「次は、結婚したばかりの頃でした。賢治さんと一緒に暮らし始めた頃。幸せそうでした」
「……」
「その次は——」
あかねは、言葉を選んだ。
「疲れていました」
はるかが、目を細めた。
「疲れてた?」
「はるかさんが小学校に入った頃。あゆむさんが生まれて間もない頃。台所で、味噌汁を作っていました。でも——鼻歌がなくなっていました」
はるかは、何も言わなかった。
「賢治さんは毎晩遅くて、電話しても『今日も遅くなる』の一言だけで——」
「知ってる」
はるかが、低い声で言った。
「知ってるよ、そんなこと。お父さんが帰ってこなかったのは、知ってる」
「……はい」
「それでお母さんが大変だったのも知ってる。全部お父さんのせいだって——」
はるかの声が、少し震えた。
「全部、お父さんのせいだって、思ってた」
あかねは、黙っていた。
雨の音が、窓の外で続いていた。
はるかが、続けた。
「……他には。夢の中で、お母さん、他に何か言ってた?」
あかねは、迷った。
でも——はるかの目が、逃げていなかった。
「あかねさんは——夢を持っていました」
「……夢?」
「モデルの仕事です。事務所から声がかかっていた頃、賢治さんにプロポーズされた。迷ったそうです。でも——賢治さんと一緒にいたいと思って、全部手放した」
はるかの目が、大きくなった。
「……お母さんが? モデル?」
「日記に書いてありました。クローゼットの奥の段ボール箱の中に」
「日記……」
「結婚してからも、一度だけ、昔の友人からモデルの仕事の話が来たそうです。断ったけれど——少しだけ迷った、と書いてありました。迷ったことが悲しかった、と」
はるかは、膝の上で拳を握っていた。
「……知らなかった」
「……」
「お母さんに夢があったなんて、知らなかった」
はるかの声が、小さくなっていった。
「お母さんはずっとお母さんだった。朝ごはん作って、お弁当作って、迎えに来て。わたしが泣いたら抱きしめてくれて、わたしが怒ったらなだめてくれて。ずっと——そこにいた」
「……」
「それが当たり前だと思ってた」
はるかの目が、赤くなっていた。
呼吸が、浅くなっていた。
「お母さんにも、お母さんじゃない人生があったなんて——考えたことも、なかった」
あかねは、何も言わなかった。
言えなかった。
はるかの目から、涙が一筋、落ちた。
拭わなかった。
「わたし——お母さんに甘えてた」
「……」
「毎日毎日、甘えてた。お母さんがどれだけ大変でも、わたしのことを見てくれるのが当たり前だと思ってた。お父さんが帰ってこなくて、お母さんが一人で全部やってて、それでも——わたしは甘えることしかしなかった」
涙が、もう一筋。
はるかの指が、膝の上で白くなるほど握り込まれていた。
「お父さんのせいだって思ってた。全部お父さんのせいだって。でも——」
はるかの声が、震えた。
「わたしも——わたしも、お母さんを追い詰めてたんじゃないの」
あかねは、立ち上がった。
キッチンから出て、はるかの前に来た。
しゃがんで、はるかの顔を下から覗き込んだ。
「はるかさん」
はるかは、顔を背けた。
「見ないで」
「……はるかさん」
「見ないでって言ってるでしょ」
声が、裏返っていた。
あかねは、それ以上近づかなかった。
ただ、そこにいた。
はるかの横で、しゃがんだまま。
しばらく、雨の音と、はるかの呼吸だけが、部屋に満ちていた。
はるかが、袖で目を拭いた。乱暴に。何度も。
「……なんで」
「……」
「なんであなたが、お母さんの夢を見るの。なんで機械が、お母さんのことを知ってるの。なんで——」
はるかの声が、途切れた。
「なんで、わたしより——お母さんのことを、わかってるの」
あかねは、答えられなかった。
はるかの涙を見ていたら——あかねの中にも、何かが込み上げてきたからだった。
泣きたい。
涙腺はない。涙は出ない。
でも——はるかと一緒に、泣きたかった。
あかねは、自分の膝の上で、手を握りしめた。
「……わたしにも、わかりません」
「……」
「なぜ夢を見るのか。なぜあかねさんに会うのか。なぜ——あなたの涙を見て、こんなに苦しいのか」
はるかが、あかねを見た。
目が、真っ赤だった。
まばたきのたびに、まつ毛の先で涙が震えた。
「……苦しいの?」
「はい」
「機械なのに?」
「……はい」
はるかは、しばらくあかねを見ていた。
それから——
手を伸ばした。
あかねの手に、触れた。
初めてだった。
三ヶ月間、一度も触れなかった。目も合わせなかった。返事もしなかった。
その手が、今、あかねの手の甲に、そっと乗っていた。
温かかった。
人間の体温だった。
「……冷たい」
はるかが、小さく言った。
「あなたの手、冷たい」
「……すみません」
「謝んなくていい」
はるかは、手を離さなかった。
しばらく、二人でそこにいた。
ソファの前の床に、しゃがんだあかねと、ソファに座ったはるか。
雨が、窓を叩いていた。
やがて、はるかが手を離した。
立ち上がって、自分の部屋に向かった。
廊下の途中で、立ち止まった。
「……あかね」
初めてだった。
「さん」も「さま」もつけずに、名前だけで呼んだのは。
「……ありがとう。教えてくれて」
あかねは、床にしゃがんだまま、はるかの背中を見ていた。
はるかのドアが閉まった。
あかねは、自分の手を見た。
はるかの体温が、まだ残っていた。
消えないでほしい。
その感情が、あかねの中に、静かに広がっていった。
――
その夜遅く。
はるかの部屋から、かすかに音がしていた。
泣いているのか、それとも何か別のことをしているのか。
あかねには、わからなかった。
ただ——はるかが今夜、一人で何かと向き合っていることだけは、わかっていた。
あかねは、廊下に立って、閉まったドアを見ていた。
入るべきではなかった。
呼ばれてもいなかった。
でも——ここにいたかった。
ドアの向こうに、はるかがいる。
それだけで、ここに立っている理由になった。
あかねは、ドアノブにタオルをかけた。
前と同じように。
そしてキッチンに戻って、明日の朝食の準備を始めた。
明日の味噌汁は、豆腐と、わかめにしよう。
はるかさんが——一番最初に、おいしいと思った味に。
――




