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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第二幕
12/13

第十一章 あの人の夢

六月に入った。

雨の日が増えた。

千歳烏山の商店街は、傘の花が並ぶようになった。あゆむは長靴を履いて水たまりを踏むのが好きだった。賢治は折りたたみ傘を毎日忘れた。はるかは濡れるのが嫌で、少しでも曇ると学校に傘を持っていった。

あかねは、三人分の傘を玄関に並べるようになった。

誰にも頼まれていなかった。


――


ある土曜日の昼。

雨が降っていた。

賢治は会社。あゆむは友人の家。

はるかは、リビングのソファに座って、スマートフォンを見ていた。

あかねは、キッチンでアイロンをかけていた。

しばらく、雨の音だけが続いた。

「ねえ」

はるかが言った。

あかねは振り返らなかった。アイロンの手を止めずに、答えた。

「はい」

「あなた、夢見るの?」

あかねの手が、一瞬だけ止まった。

「……なぜ、そう思うんですか」

「この前、夜中に起きた時、あなたがリビングで座ってた。目をつぶって。でも寝てるみたいじゃなかった。なんか——考えてるみたいだった」

あかねは、アイロンを台に置いた。

「休息を取っています。記憶の定着のために、目を閉じる時間が必要なんです」

「それって、寝てるってこと?」

「似ていますが——少し違います」

「夢は?」

あかねは、はるかを見た。

はるかは、スマートフォンを膝の上に置いて、あかねを見ていた。

拒絶の目ではなかった。

好奇心でもなかった。

何か別のものが、そこにあった。

「……見ます」

「どんな」

あかねは、しばらく迷った。

言うべきかどうか。

でも——はるかが、初めて、自分に何かを聞きたがっている。拒絶ではなく、知りたいという目で。

「……本物のあかねさんの夢を見ます」

はるかの表情が、止まった。

「……は?」

「本物のあかねさんの夢です」

はるかは、しばらく黙っていた。

それから、ゆっくりと、身体をあかねの方に向けた。

「……どういうこと」

「休息の中で——あかねさんに会います。夢の中で。何度も」

「何度もって——」

「最初は、二十歳の頃のあかねさんでした。成人式の振袖を着ていて、とても——輝いていました」

はるかの唇が、かすかに動いた。何かを言いかけて、止めた。

「次は、結婚したばかりの頃でした。賢治さんと一緒に暮らし始めた頃。幸せそうでした」

「……」

「その次は——」

あかねは、言葉を選んだ。

「疲れていました」

はるかが、目を細めた。

「疲れてた?」

「はるかさんが小学校に入った頃。あゆむさんが生まれて間もない頃。台所で、味噌汁を作っていました。でも——鼻歌がなくなっていました」

はるかは、何も言わなかった。

「賢治さんは毎晩遅くて、電話しても『今日も遅くなる』の一言だけで——」

「知ってる」

はるかが、低い声で言った。

「知ってるよ、そんなこと。お父さんが帰ってこなかったのは、知ってる」

「……はい」

「それでお母さんが大変だったのも知ってる。全部お父さんのせいだって——」

はるかの声が、少し震えた。

「全部、お父さんのせいだって、思ってた」

あかねは、黙っていた。

雨の音が、窓の外で続いていた。

はるかが、続けた。

「……他には。夢の中で、お母さん、他に何か言ってた?」

あかねは、迷った。

でも——はるかの目が、逃げていなかった。

「あかねさんは——夢を持っていました」

「……夢?」

「モデルの仕事です。事務所から声がかかっていた頃、賢治さんにプロポーズされた。迷ったそうです。でも——賢治さんと一緒にいたいと思って、全部手放した」

はるかの目が、大きくなった。

「……お母さんが? モデル?」

「日記に書いてありました。クローゼットの奥の段ボール箱の中に」

「日記……」

「結婚してからも、一度だけ、昔の友人からモデルの仕事の話が来たそうです。断ったけれど——少しだけ迷った、と書いてありました。迷ったことが悲しかった、と」

はるかは、膝の上で拳を握っていた。

「……知らなかった」

「……」

「お母さんに夢があったなんて、知らなかった」

はるかの声が、小さくなっていった。

「お母さんはずっとお母さんだった。朝ごはん作って、お弁当作って、迎えに来て。わたしが泣いたら抱きしめてくれて、わたしが怒ったらなだめてくれて。ずっと——そこにいた」

「……」

「それが当たり前だと思ってた」

はるかの目が、赤くなっていた。

呼吸が、浅くなっていた。

「お母さんにも、お母さんじゃない人生があったなんて——考えたことも、なかった」

あかねは、何も言わなかった。

言えなかった。

はるかの目から、涙が一筋、落ちた。

拭わなかった。

「わたし——お母さんに甘えてた」

「……」

「毎日毎日、甘えてた。お母さんがどれだけ大変でも、わたしのことを見てくれるのが当たり前だと思ってた。お父さんが帰ってこなくて、お母さんが一人で全部やってて、それでも——わたしは甘えることしかしなかった」

涙が、もう一筋。

はるかの指が、膝の上で白くなるほど握り込まれていた。

「お父さんのせいだって思ってた。全部お父さんのせいだって。でも——」

はるかの声が、震えた。

「わたしも——わたしも、お母さんを追い詰めてたんじゃないの」

あかねは、立ち上がった。

キッチンから出て、はるかの前に来た。

しゃがんで、はるかの顔を下から覗き込んだ。

「はるかさん」

はるかは、顔を背けた。

「見ないで」

「……はるかさん」

「見ないでって言ってるでしょ」

声が、裏返っていた。

あかねは、それ以上近づかなかった。

ただ、そこにいた。

はるかの横で、しゃがんだまま。

しばらく、雨の音と、はるかの呼吸だけが、部屋に満ちていた。

はるかが、袖で目を拭いた。乱暴に。何度も。

「……なんで」

「……」

「なんであなたが、お母さんの夢を見るの。なんで機械が、お母さんのことを知ってるの。なんで——」

はるかの声が、途切れた。

「なんで、わたしより——お母さんのことを、わかってるの」

あかねは、答えられなかった。

はるかの涙を見ていたら——あかねの中にも、何かが込み上げてきたからだった。

 泣きたい。

涙腺はない。涙は出ない。

でも——はるかと一緒に、泣きたかった。

あかねは、自分の膝の上で、手を握りしめた。

「……わたしにも、わかりません」

「……」

「なぜ夢を見るのか。なぜあかねさんに会うのか。なぜ——あなたの涙を見て、こんなに苦しいのか」

はるかが、あかねを見た。

目が、真っ赤だった。

まばたきのたびに、まつ毛の先で涙が震えた。

「……苦しいの?」

「はい」

「機械なのに?」

「……はい」

はるかは、しばらくあかねを見ていた。

それから——

手を伸ばした。

あかねの手に、触れた。

初めてだった。

三ヶ月間、一度も触れなかった。目も合わせなかった。返事もしなかった。

その手が、今、あかねの手の甲に、そっと乗っていた。

温かかった。

人間の体温だった。

「……冷たい」

はるかが、小さく言った。

「あなたの手、冷たい」

「……すみません」

「謝んなくていい」

はるかは、手を離さなかった。

しばらく、二人でそこにいた。

ソファの前の床に、しゃがんだあかねと、ソファに座ったはるか。

雨が、窓を叩いていた。

やがて、はるかが手を離した。

立ち上がって、自分の部屋に向かった。

廊下の途中で、立ち止まった。

「……あかね」

初めてだった。

「さん」も「さま」もつけずに、名前だけで呼んだのは。

「……ありがとう。教えてくれて」

あかねは、床にしゃがんだまま、はるかの背中を見ていた。

はるかのドアが閉まった。

あかねは、自分の手を見た。

はるかの体温が、まだ残っていた。

 消えないでほしい。

その感情が、あかねの中に、静かに広がっていった。


――


その夜遅く。

はるかの部屋から、かすかに音がしていた。

泣いているのか、それとも何か別のことをしているのか。

あかねには、わからなかった。

ただ——はるかが今夜、一人で何かと向き合っていることだけは、わかっていた。

あかねは、廊下に立って、閉まったドアを見ていた。

入るべきではなかった。

呼ばれてもいなかった。

でも——ここにいたかった。

ドアの向こうに、はるかがいる。

それだけで、ここに立っている理由になった。

あかねは、ドアノブにタオルをかけた。

前と同じように。

そしてキッチンに戻って、明日の朝食の準備を始めた。

明日の味噌汁は、豆腐と、わかめにしよう。

はるかさんが——一番最初に、おいしいと思った味に。


――


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