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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第二幕
13/13

第十二章 父と娘

六月の半ば。

雨が続いていた。

あの土曜日から、はるかが変わった。

朝食の時、あかねに「おはよう」と言うようになった。小さな声で、目も合わせずに。でも、言った。あかねは「おはようございます」と返した。それだけだった。それだけで、キッチンの空気が変わった。

あゆむは気づいていた。

「お姉ちゃん、最近あかねさんと喋ってるよね」

「……別に。普通でしょ」

「前は無視してたじゃん」

「うるさい」

あゆむは、卵焼きを頬張りながら笑った。

賢治も、気づいていた。

何が起きたのかは、わからなかった。あの土曜日、自分が仕事に出ている間に、はるかとあかねの間で何かがあったのだろう。でも聞けなかった。聞く権利が、自分にはないような気がした。


――


ある夜。

夕食が終わって、あゆむが風呂に入った。

あかねがキッチンで片付けをしていた。

はるかが、リビングのテーブルで宿題を広げていた。最近は部屋ではなく、リビングでやるようになっていた。あかねの気配が届く場所に、自然と移動してきていた。本人はそれを意識していないようだった。

賢治は、ソファに座って新聞を読んでいた。

読んでいるふりをしていた。

視界の端に、はるかがいた。

四年間、こうして同じ部屋にいることが、ほとんどなかった。食事の時間だけ顔を合わせて、それ以外ははるかは部屋に閉じこもっていた。

今、はるかがリビングにいる。

それだけのことが、賢治には眩しかった。

「……はるか」

声をかけたのは、考えてからではなかった。

はるかが顔を上げた。

「なに」

「……いや」

言葉が、出なかった。

はるかは、しばらく賢治を見ていた。

それから、シャープペンシルをテーブルに置いた。

「……ねえ」

「なんだ」

「お母さんの話、していい?」

賢治の手が、新聞の上で止まった。

キッチンの水の音が、かすかに聞こえていた。

「……ああ」

はるかは、テーブルの上のノートを見ていた。

「あかねから、聞いた」

「……何を」

「お母さんに、モデルの夢があったこと」

賢治は、黙った。

「お父さんのために全部捨てたって。事務所から声がかかってた時に、プロポーズされたって」

「……ああ」

「知ってたの?」

「……知ってた」

はるかの目が、賢治を見た。

怒りではなかった。

もっと静かなものだった。

「なんで教えてくれなかったの」

賢治は、新聞を膝の上に置いた。

「……教えられなかった」

「なんで」

「お母さんが——夢を捨てたのは、俺のせいだから」

はるかは、黙った。

「俺がプロポーズしなければ、お母さんはモデルを続けていた。女優になっていたかもしれない。俺のせいで——」

「……」

「それを、お前に言える勇気がなかった」

リビングに、沈黙が落ちた。

キッチンの水音が止まっていた。あかねが、手を止めて聞いているのだと、二人ともわかっていた。でも、誰もそれを指摘しなかった。

はるかが、口を開いた。

「お父さん」

「……」

「わたし、ずっとお父さんのせいだと思ってた」

賢治は、はるかを見た。

「お母さんが死んだのは、お父さんが帰ってこなかったから。お母さんが一人で全部抱えてたのは、お父さんが何もしなかったから。全部、全部、お父さんのせいだって」

「……そうだ」

賢治が、言った。

「お前の言う通りだ」

はるかの目が、揺れた。

「……え?」

「俺のせいだ。全部」

賢治の声が、震えていた。

「あかねの夢を奪ったのも、俺だ。あかねが一人で全部やっていたのに気づかなかったのも、俺だ。電話で『今日も遅くなる』としか言えなかったのも、俺だ」

「お父さん——」

「お前が怒るのは、当然だ。四年間ずっと——俺を責めてくれていて、よかった」

はるかは、息を呑んだ。

「よかった?」

「俺を責める人間が、この家に一人もいなかったら——俺は自分を許してしまっていたかもしれない」

賢治の目が、赤くなっていた。

「お前が怒ってくれたから——俺は、自分がどれだけ酷いことをしたか、忘れずにいられた」

はるかは、テーブルの上で拳を握っていた。

「……やめてよ」

「すまない」

「やめてって言ってるでしょ。そんなこと——聞きたくて聞いたんじゃない」

はるかの声が、震えていた。

「わたしだって——わたしだって、お母さんを——」

言葉が、詰まった。

賢治が、はるかを見た。

「お前は何も——」

「あるよ!」

はるかが、叫んだ。

「あるよ。わたしだって、お母さんに甘えてた。毎日毎日、お母さんのこと全部使って、お母さんの時間を全部もらって——それが当たり前だと思ってた。お母さんがどれだけ疲れてても、わたしのこと見てくれるのが普通だと思ってた」

涙が、溢れていた。

「お父さんだけのせいじゃないよ。わたしもだよ。わたしも——お母さんを、追い詰めてたんだよ」

賢治は、立ち上がりかけて——止まった。

四年間、この子に触れていなかった。

抱きしめる権利があるのかどうか、わからなかった。

はるかは、泣いていた。テーブルに突っ伏して、肩を震わせて。

賢治は——

立ち上がった。

はるかの横に来て、膝をついた。

手を、伸ばした。

はるかの頭に、そっと置いた。

はるかが、びくりと身体を強張らせた。

でも——振り払わなかった。

「……お前のせいじゃない」

「お父さんだって——自分のせいだって——」

「俺は大人だった。お前はまだ子どもだった。大人が気づくべきだった。俺が気づくべきだった」

はるかの肩が、震えていた。

「でも——」

「お前は、ただお母さんが好きだっただけだ」

賢治の声が、かすれた。

「それは——罪じゃない」

はるかの身体から、力が抜けた。

声にならない声が、漏れた。

賢治は、娘の頭にそっと手を置いたまま、目を閉じた。

涙が、頬を伝った。

四年分だった。

この子の前で泣くのは、初めてだった。あかねの葬式でも、一人になってから泣いた。この子に弱いところを見せたら、もう家族が壊れると思っていた。

でも——もう壊れていた。

四年前から、ずっと壊れていた。

それを繕い続けるのに、二人とも疲れ果てていた。

はるかが、顔を上げた。

賢治の顔を見た。

涙を流している父親の顔を、四年ぶりに。

「……泣いてるじゃん」

はるかが、鼻をすすりながら言った。

「泣いてない」

「泣いてるよ」

「……泣いてない」

はるかは、袖で自分の目を拭いた。

それから——

「嘘つき」

その声は、四年間で一番、柔らかかった。


――


キッチンから、物音がした。

あかねが、お茶を淹れていた。

二人分の湯飲みを持って、リビングに来た。

テーブルに、静かに置いた。

賢治とはるかの前に、一つずつ。

何も言わなかった。

ただ、お茶を置いて、キッチンに戻った。

はるかが、湯飲みを手に取った。

温かかった。

賢治も、湯飲みを手に取った。

しばらく、二人で黙ってお茶を飲んだ。

こうして二人で何かを飲むのは、四年ぶりだった。


――


その夜遅く。

あかねは休息に入った。

今夜は——重い夜だった。

賢治の涙。はるかの叫び。四年分の言葉が、リビングに溢れた夜。

あかねは、二人の声を、全部聞いていた。

キッチンで、手を止めて。

賢治の涙。はるかの叫び。

自分の家族ではない。自分は機械だ。

 なのに——なぜ、こんなに苦しいのか。

あかねは目を閉じた。

夢の中に、落ちていった。


――


今夜の場所は——暗かった。

桜木家のリビングだった。でも、電気が消えていた。

カーテンの隙間から、街灯の光だけが、細く差し込んでいた。

ソファに、女が座っていた。

膝を抱えていた。

髪が乱れていた。パジャマ姿だった。

あかねは、その姿を見て——足が、止まった。

前に会った時の、憔悴した女とは、別の何かがそこにいた。

目が——据わっていた。

「来たの」

声が、低かった。前とは違う低さだった。

「……はい」

「今日も聞きに来たの? わたしの話」

「……」

「聞いて、どうするの」

女が、顔を上げた。

笑っていた。

でも——目の奥に、光がなかった。

「ねえ、一つ聞いていい?」

「……はい」

「あなた——あの家で、うまくやれてる?」

「……うまく、とは」

「奥さんとして。お母さんとして」

あかねは、答えに詰まった。

「賢治さんは、あなたのごはんを食べてくれてるんでしょう。あゆむは懐いてるんでしょう。はるかも——最近は、少し心を開いてくれたんでしょう」

「……はい」

「よかったね」

女の声が、刃のように平坦だった。

「わたしには、できなかったことが——あなたにはできるんだ」

「そんなことは——」

「あなたごときが」

女が、あかねの目を見た。

「あたしより良い奥さん、そしてお母さんが務まる自信があるのかしら」

あかねは、動けなかった。

女の目が、真っ直ぐにあかねを射抜いていた。

「わたしは十二年間やったの。毎日毎日、朝から晩まで。夢も捨てた。友達も減った。自分が誰なのかもわからなくなった。それでも——最後まで、やり切れなかった」

女の声が、かすかに震えた。

「やり切れなかったのよ。わたしは」

あかねは、黙っていた。

「あなたは——やり切れるの? あの家を。あの人たちを。全部」

「……」

「途中で壊れたりしない? わたしみたいに」

あかねは——

答えた。

「……わかりません」

女が、目を細めた。

「わからない?」

「わたしには、あなたのような人生がありません。夢を捨てたこともありません。十二年間、一人で抱え続けたこともありません」

「……」

「だから——あなたより良い奥さんやお母さんが務まるかどうかは、わかりません」

あかねは、女の目を見た。

「でも——」

「でも?」

「あの家にいたい、と思っています」

女が、黙った。

「賢治さんが帰ってきた時、おかえりなさいと言いたい。あゆむさんが学校の話をしてくれる時、最後まで聞いていたい。はるかさんが——いつか、わたしの名前を呼んでくれた時の声を、覚えていたい」

あかねの声が、かすかに揺れた。

「それが、あなたの問いへの答えになるかはわかりません。でも——あの家から離れたくない。それだけは、確かです」

女は、しばらくあかねを見ていた。

それから——膝を抱える腕の力が、少しだけ緩んだ。

「……そう」

女の声が、さっきより少しだけ、柔らかくなっていた。

「離れたくない、か」

「……はい」

女は、窓の方を見た。

街灯の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。

「わたしも——離れたくなかった」

その声は、ひどく静かだった。

「最後まで。離れたくなかった」

あかねは、何も言えなかった。

女の横顔が、暗がりの中で、小さく見えた。


 それから——女の様子が、変わった。

 怒りが消えていた。問い詰める声も、刃のような平坦さも、もう、なかった。

 ただ——静かだった。

 静かすぎた。

 女が、ゆっくりと立ち上がった。

 膝を抱えていた腕が、するりとほどけた。力が入っていなかった。

 表情がなかった。怒りでも、悲しみでもなかった。何もなかった。

 女が、玄関の方に歩き出した。

 足音が、ひどく軽かった。

 あかねの中で——何かが、叫んだ。

「待って」

 声が出た。自分でも驚くほど、切実な声だった。

「待ってください——」

 女は振り向かなかった。

 暗い廊下を、歩いていく。

 あかねは追いかけようとした。足が、動かなかった。

「——待って」

 女の背中が、暗闇に溶けていく。

 小さくなっていく。

 もうすぐ——消える。

 その背中が、もう自分を守ろうとしていないことが、わかった。

 あかねは叫んだ。声にならなかった。


――


あかねは、目を開けた。

 息が荒かった。

 胸の中で、何かが激しく脈打っていた。機械の体に、脈はないはずだった。

リビングは暗かった。

時計を見た。午前四時だった。

胸の中に、女の声が残っていた。

 あなたごときが、あたしより良い奥さん、そしてお母さんが務まる自信があるのかしら。

 離れたくない、か。

 わたしも——離れたくなかった。

 そして——暗い廊下を歩いていく、あの背中。振り向かなかった背中。

 あの人は、あの後——。

 あかねは、それ以上考えることができなかった。

あかねは、立ち上がった。

キッチンに向かった。

まだ暗い台所で、あかねは朝食の準備を始めた。

米を研いだ。出汁を引いた。卵を割った。

本物のあかねが毎日やっていたことを、同じ手順で、同じ台所で。

 わたしは、やり切れるだろうか。

わからなかった。

でも——今朝も、作る。

明日も、作る。

あの人たちが帰ってくる場所を、守りたい。

それは命令でも、足かせでもなかった。

あかねの中から、出てきた言葉だった。


――


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