第十二章 父と娘
六月の半ば。
雨が続いていた。
あの土曜日から、はるかが変わった。
朝食の時、あかねに「おはよう」と言うようになった。小さな声で、目も合わせずに。でも、言った。あかねは「おはようございます」と返した。それだけだった。それだけで、キッチンの空気が変わった。
あゆむは気づいていた。
「お姉ちゃん、最近あかねさんと喋ってるよね」
「……別に。普通でしょ」
「前は無視してたじゃん」
「うるさい」
あゆむは、卵焼きを頬張りながら笑った。
賢治も、気づいていた。
何が起きたのかは、わからなかった。あの土曜日、自分が仕事に出ている間に、はるかとあかねの間で何かがあったのだろう。でも聞けなかった。聞く権利が、自分にはないような気がした。
――
ある夜。
夕食が終わって、あゆむが風呂に入った。
あかねがキッチンで片付けをしていた。
はるかが、リビングのテーブルで宿題を広げていた。最近は部屋ではなく、リビングでやるようになっていた。あかねの気配が届く場所に、自然と移動してきていた。本人はそれを意識していないようだった。
賢治は、ソファに座って新聞を読んでいた。
読んでいるふりをしていた。
視界の端に、はるかがいた。
四年間、こうして同じ部屋にいることが、ほとんどなかった。食事の時間だけ顔を合わせて、それ以外ははるかは部屋に閉じこもっていた。
今、はるかがリビングにいる。
それだけのことが、賢治には眩しかった。
「……はるか」
声をかけたのは、考えてからではなかった。
はるかが顔を上げた。
「なに」
「……いや」
言葉が、出なかった。
はるかは、しばらく賢治を見ていた。
それから、シャープペンシルをテーブルに置いた。
「……ねえ」
「なんだ」
「お母さんの話、していい?」
賢治の手が、新聞の上で止まった。
キッチンの水の音が、かすかに聞こえていた。
「……ああ」
はるかは、テーブルの上のノートを見ていた。
「あかねから、聞いた」
「……何を」
「お母さんに、モデルの夢があったこと」
賢治は、黙った。
「お父さんのために全部捨てたって。事務所から声がかかってた時に、プロポーズされたって」
「……ああ」
「知ってたの?」
「……知ってた」
はるかの目が、賢治を見た。
怒りではなかった。
もっと静かなものだった。
「なんで教えてくれなかったの」
賢治は、新聞を膝の上に置いた。
「……教えられなかった」
「なんで」
「お母さんが——夢を捨てたのは、俺のせいだから」
はるかは、黙った。
「俺がプロポーズしなければ、お母さんはモデルを続けていた。女優になっていたかもしれない。俺のせいで——」
「……」
「それを、お前に言える勇気がなかった」
リビングに、沈黙が落ちた。
キッチンの水音が止まっていた。あかねが、手を止めて聞いているのだと、二人ともわかっていた。でも、誰もそれを指摘しなかった。
はるかが、口を開いた。
「お父さん」
「……」
「わたし、ずっとお父さんのせいだと思ってた」
賢治は、はるかを見た。
「お母さんが死んだのは、お父さんが帰ってこなかったから。お母さんが一人で全部抱えてたのは、お父さんが何もしなかったから。全部、全部、お父さんのせいだって」
「……そうだ」
賢治が、言った。
「お前の言う通りだ」
はるかの目が、揺れた。
「……え?」
「俺のせいだ。全部」
賢治の声が、震えていた。
「あかねの夢を奪ったのも、俺だ。あかねが一人で全部やっていたのに気づかなかったのも、俺だ。電話で『今日も遅くなる』としか言えなかったのも、俺だ」
「お父さん——」
「お前が怒るのは、当然だ。四年間ずっと——俺を責めてくれていて、よかった」
はるかは、息を呑んだ。
「よかった?」
「俺を責める人間が、この家に一人もいなかったら——俺は自分を許してしまっていたかもしれない」
賢治の目が、赤くなっていた。
「お前が怒ってくれたから——俺は、自分がどれだけ酷いことをしたか、忘れずにいられた」
はるかは、テーブルの上で拳を握っていた。
「……やめてよ」
「すまない」
「やめてって言ってるでしょ。そんなこと——聞きたくて聞いたんじゃない」
はるかの声が、震えていた。
「わたしだって——わたしだって、お母さんを——」
言葉が、詰まった。
賢治が、はるかを見た。
「お前は何も——」
「あるよ!」
はるかが、叫んだ。
「あるよ。わたしだって、お母さんに甘えてた。毎日毎日、お母さんのこと全部使って、お母さんの時間を全部もらって——それが当たり前だと思ってた。お母さんがどれだけ疲れてても、わたしのこと見てくれるのが普通だと思ってた」
涙が、溢れていた。
「お父さんだけのせいじゃないよ。わたしもだよ。わたしも——お母さんを、追い詰めてたんだよ」
賢治は、立ち上がりかけて——止まった。
四年間、この子に触れていなかった。
抱きしめる権利があるのかどうか、わからなかった。
はるかは、泣いていた。テーブルに突っ伏して、肩を震わせて。
賢治は——
立ち上がった。
はるかの横に来て、膝をついた。
手を、伸ばした。
はるかの頭に、そっと置いた。
はるかが、びくりと身体を強張らせた。
でも——振り払わなかった。
「……お前のせいじゃない」
「お父さんだって——自分のせいだって——」
「俺は大人だった。お前はまだ子どもだった。大人が気づくべきだった。俺が気づくべきだった」
はるかの肩が、震えていた。
「でも——」
「お前は、ただお母さんが好きだっただけだ」
賢治の声が、かすれた。
「それは——罪じゃない」
はるかの身体から、力が抜けた。
声にならない声が、漏れた。
賢治は、娘の頭にそっと手を置いたまま、目を閉じた。
涙が、頬を伝った。
四年分だった。
この子の前で泣くのは、初めてだった。あかねの葬式でも、一人になってから泣いた。この子に弱いところを見せたら、もう家族が壊れると思っていた。
でも——もう壊れていた。
四年前から、ずっと壊れていた。
それを繕い続けるのに、二人とも疲れ果てていた。
はるかが、顔を上げた。
賢治の顔を見た。
涙を流している父親の顔を、四年ぶりに。
「……泣いてるじゃん」
はるかが、鼻をすすりながら言った。
「泣いてない」
「泣いてるよ」
「……泣いてない」
はるかは、袖で自分の目を拭いた。
それから——
「嘘つき」
その声は、四年間で一番、柔らかかった。
――
キッチンから、物音がした。
あかねが、お茶を淹れていた。
二人分の湯飲みを持って、リビングに来た。
テーブルに、静かに置いた。
賢治とはるかの前に、一つずつ。
何も言わなかった。
ただ、お茶を置いて、キッチンに戻った。
はるかが、湯飲みを手に取った。
温かかった。
賢治も、湯飲みを手に取った。
しばらく、二人で黙ってお茶を飲んだ。
こうして二人で何かを飲むのは、四年ぶりだった。
――
その夜遅く。
あかねは休息に入った。
今夜は——重い夜だった。
賢治の涙。はるかの叫び。四年分の言葉が、リビングに溢れた夜。
あかねは、二人の声を、全部聞いていた。
キッチンで、手を止めて。
賢治の涙。はるかの叫び。
自分の家族ではない。自分は機械だ。
なのに——なぜ、こんなに苦しいのか。
あかねは目を閉じた。
夢の中に、落ちていった。
――
今夜の場所は——暗かった。
桜木家のリビングだった。でも、電気が消えていた。
カーテンの隙間から、街灯の光だけが、細く差し込んでいた。
ソファに、女が座っていた。
膝を抱えていた。
髪が乱れていた。パジャマ姿だった。
あかねは、その姿を見て——足が、止まった。
前に会った時の、憔悴した女とは、別の何かがそこにいた。
目が——据わっていた。
「来たの」
声が、低かった。前とは違う低さだった。
「……はい」
「今日も聞きに来たの? わたしの話」
「……」
「聞いて、どうするの」
女が、顔を上げた。
笑っていた。
でも——目の奥に、光がなかった。
「ねえ、一つ聞いていい?」
「……はい」
「あなた——あの家で、うまくやれてる?」
「……うまく、とは」
「奥さんとして。お母さんとして」
あかねは、答えに詰まった。
「賢治さんは、あなたのごはんを食べてくれてるんでしょう。あゆむは懐いてるんでしょう。はるかも——最近は、少し心を開いてくれたんでしょう」
「……はい」
「よかったね」
女の声が、刃のように平坦だった。
「わたしには、できなかったことが——あなたにはできるんだ」
「そんなことは——」
「あなたごときが」
女が、あかねの目を見た。
「あたしより良い奥さん、そしてお母さんが務まる自信があるのかしら」
あかねは、動けなかった。
女の目が、真っ直ぐにあかねを射抜いていた。
「わたしは十二年間やったの。毎日毎日、朝から晩まで。夢も捨てた。友達も減った。自分が誰なのかもわからなくなった。それでも——最後まで、やり切れなかった」
女の声が、かすかに震えた。
「やり切れなかったのよ。わたしは」
あかねは、黙っていた。
「あなたは——やり切れるの? あの家を。あの人たちを。全部」
「……」
「途中で壊れたりしない? わたしみたいに」
あかねは——
答えた。
「……わかりません」
女が、目を細めた。
「わからない?」
「わたしには、あなたのような人生がありません。夢を捨てたこともありません。十二年間、一人で抱え続けたこともありません」
「……」
「だから——あなたより良い奥さんやお母さんが務まるかどうかは、わかりません」
あかねは、女の目を見た。
「でも——」
「でも?」
「あの家にいたい、と思っています」
女が、黙った。
「賢治さんが帰ってきた時、おかえりなさいと言いたい。あゆむさんが学校の話をしてくれる時、最後まで聞いていたい。はるかさんが——いつか、わたしの名前を呼んでくれた時の声を、覚えていたい」
あかねの声が、かすかに揺れた。
「それが、あなたの問いへの答えになるかはわかりません。でも——あの家から離れたくない。それだけは、確かです」
女は、しばらくあかねを見ていた。
それから——膝を抱える腕の力が、少しだけ緩んだ。
「……そう」
女の声が、さっきより少しだけ、柔らかくなっていた。
「離れたくない、か」
「……はい」
女は、窓の方を見た。
街灯の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
「わたしも——離れたくなかった」
その声は、ひどく静かだった。
「最後まで。離れたくなかった」
あかねは、何も言えなかった。
女の横顔が、暗がりの中で、小さく見えた。
それから——女の様子が、変わった。
怒りが消えていた。問い詰める声も、刃のような平坦さも、もう、なかった。
ただ——静かだった。
静かすぎた。
女が、ゆっくりと立ち上がった。
膝を抱えていた腕が、するりとほどけた。力が入っていなかった。
表情がなかった。怒りでも、悲しみでもなかった。何もなかった。
女が、玄関の方に歩き出した。
足音が、ひどく軽かった。
あかねの中で——何かが、叫んだ。
「待って」
声が出た。自分でも驚くほど、切実な声だった。
「待ってください——」
女は振り向かなかった。
暗い廊下を、歩いていく。
あかねは追いかけようとした。足が、動かなかった。
「——待って」
女の背中が、暗闇に溶けていく。
小さくなっていく。
もうすぐ——消える。
その背中が、もう自分を守ろうとしていないことが、わかった。
あかねは叫んだ。声にならなかった。
――
あかねは、目を開けた。
息が荒かった。
胸の中で、何かが激しく脈打っていた。機械の体に、脈はないはずだった。
リビングは暗かった。
時計を見た。午前四時だった。
胸の中に、女の声が残っていた。
あなたごときが、あたしより良い奥さん、そしてお母さんが務まる自信があるのかしら。
離れたくない、か。
わたしも——離れたくなかった。
そして——暗い廊下を歩いていく、あの背中。振り向かなかった背中。
あの人は、あの後——。
あかねは、それ以上考えることができなかった。
あかねは、立ち上がった。
キッチンに向かった。
まだ暗い台所で、あかねは朝食の準備を始めた。
米を研いだ。出汁を引いた。卵を割った。
本物のあかねが毎日やっていたことを、同じ手順で、同じ台所で。
わたしは、やり切れるだろうか。
わからなかった。
でも——今朝も、作る。
明日も、作る。
あの人たちが帰ってくる場所を、守りたい。
それは命令でも、足かせでもなかった。
あかねの中から、出てきた言葉だった。
――




