第十五章 保護者会
七月に入っていた。
梅雨が明けかけていた。空が、少しずつ高くなっていた。
はるかの学校から、保護者会の案内が届いたのは、先週のことだった。
賢治はリビングのテーブルに案内を置いたまま、三日間、何も言わなかった。
あかねがそれに気づいたのは、四日目の朝だった。
テーブルを拭いている時に、封筒の下に紙が見えた。日付。場所。保護者会のご案内。
あかねは、紙を見た。
日付は、来週の木曜日だった。平日の午後二時。
――
その夜。
賢治がリビングでコーヒーを飲んでいた。
あかねが、封筒をテーブルに置いた。
「これ、保護者会のご案内ですか」
賢治の手が、一瞬止まった。
「……ああ」
「出席されますか」
「……難しい。木曜の午後は、どうしても抜けられない」
賢治は、コーヒーを見ていた。
「毎回そうなんだ。あかねが——本物のあかねが生きていた頃は、全部あいつが出ていた。俺は一度も行かなかった」
あかねは、黙っていた。
「あかねが死んでからも、行けなかった。はるかに聞いたら、『来なくていい』と言われた。それきりだ」
「……わたしが出ましょうか」
賢治が、あかねを見た。
「お前が?」
「はるかさんのことを、学校の先生方に聞く機会になります。はるかさんが学校でどんなふうに過ごしているか、わたしにはわからないので」
賢治は、しばらく考えていた。
「……はるかに聞いてくれ。あいつが嫌だと言ったら、やめてくれ」
「わかりました」
――
翌朝。
朝食の後、はるかが部屋に戻ろうとした時、あかねが声をかけた。
「はるかさん」
「なに」
「保護者会のこと、聞いてもいいですか」
はるかの足が止まった。
「……見たの」
「はい。お父さんは、お仕事で出られないそうです」
「知ってる。毎回そう」
はるかの声は平坦だった。慣れていた。
「わたしが代わりに出てもいいですか」
はるかが振り返った。
少し驚いた顔をしていた。
「あかねが?」
「はい」
はるかは、しばらくあかねを見ていた。
それから、視線を逸らした。
「……別にいいけど」
「本当に?」
「うん。というか——誰かが来てくれた方が、いい」
最後の方が、小さかった。
あかねは、それを聞き逃さなかった。
誰かが来てくれた方が、いい。
四年間、保護者会に誰も来なかった。はるかは毎回、空席の横の自分の名前を見ていたのだろう。
「行きます」
あかねは、静かに言った。
――
木曜日。午後一時半。
あかねは、衣装ケースから白いカーディガンを出した。
前に賢治と外出した時に着たものだ。ベージュのスカートも。革のベルトも。
鏡の前に立った。
二十歳の顔。三十代の服。相変わらず、肩が少し余る。
でも——これが、一番まともな格好だった。
あかねは玄関を出た。
――
千歳烏山の駅は、平日の昼間だった。
改札を抜けてホームに上がると、各停の電車が来た。クリーム色の車体に臙脂のライン。京王線の車両は、どこか柔らかい色をしている。
つつじヶ丘で降りた。はるかの高校は、駅から歩いて十分ほどだった。住宅街の坂を上ると、生垣の向こうにグラウンドが見えた。
門をくぐると、他の保護者たちがちらほら歩いていた。四十代、五十代の女性がほとんどだった。スーツの男性が一人。
あかねは、教室に向かった。
廊下を歩いていると、すれ違う保護者が、あかねをちらりと見た。
若かった。明らかに、他の保護者と年齢が違った。二十歳にしか見えない女が、保護者会に来ている。
教室に入った。後ろの席に座った。
前の方に、担任の女性教師が立っていた。五十代。落ち着いた表情。
保護者会が始まった。
成績の話。進路の話。夏休みの予定。
あかねは、静かに聞いていた。はるかの成績は上位だった。授業態度も問題ない。
途中で、担任が「何か質問がある方」と言った。
一人の保護者が手を挙げた。
「桜木さんのお宅から、今日はどなたが」
担任が、あかねの方を見た。
あかねは立ち上がった。
「桜木はるかの父の代理で参りました。仕事の都合で来られないためです」
教室の空気が、少し変わった。
保護者たちの視線が、あかねに集まっていた。
若すぎる。姉にしても若い。親戚? 家政婦?
一人の保護者が、隣の保護者に何かを囁いた。
保護者会が終わった後、担任が教卓であかねに声をかけた。
「少しよろしいですか」
「はい」
「桜木さんのお宅とのご関係を、もう少し詳しく教えていただけますか。お母様は——」
「四年前に亡くなりました」
「ええ、それは把握しています。あなたは——」
担任の目が、あかねの顔を見ていた。
丁寧だったが、探るような目だった。
あかねは、少し迷った。
嘘をつく能力はあった。親戚だと言うこともできた。
でも——嘘は、つきたくなかった。
「わたしは、アンドロイドです」
教室の中が、静まった。
まだ数人の保護者が残っていた。
全員が、あかねを見ていた。
担任の表情が、固くなった。
「……アンドロイド」
「はい。桜木家で家事全般を担当しています。はるかさんの保護者会に出席できる人間がいないため、わたしが参りました」
担任は、しばらく何も言わなかった。
それから、プリントの束を整えながら、言った。
「そうでしたか。……今後は、できればご家族の方に出席していただけると」
声は丁寧だった。
でも——意味は明確だった。
あなたは、保護者ではない。
「……はい」
あかねは、頭を下げた。
教室を出た。
廊下を歩いていると、後ろから声が聞こえた。
「あの若い人、アンドロイドだったの」
「桜木さんのところって——」
「奥さん亡くなったんでしょう。それで機械に代わりを——」
「ちょっと、子どもの保護者会にアンドロイドを寄越すって……」
あかねは、振り返らなかった。
足を止めず、まっすぐ歩いた。
校門を出た。
駅に向かう道を歩いた。
七月の日差しが、白いカーディガンの肩に当たっていた。
今後は、できればご家族の方に。
あなたは、保護者ではない。
あかねは、歩きながら、その言葉を噛みしめていた。
正しかった。
正しいことが、なぜこんなに——
あかねは、自分の胸に手を当てた。
動いていなかった。いつも通り。心臓はない。
でも——そこに、重いものがあった。
怒りではなかった。悲しみとも、少し違った。
もっと静かで、もっと冷たいものだった。
はるかさんが、来てくれた方がいいと言ったから、来た。
でも——わたしが来ることは、間違いだったのだろうか。
つつじヶ丘の駅に戻った。
上りホームに立つと、線路の向こうに住宅街の屋根が続いていた。遮断機の警報音が鳴り、踏切が閉まる。
電車が来るまで、三分間。
その三分間、あかねは立ったまま、目の前の線路を見ていた。夏草の匂いがした。線路脇の側溝に、雑草が青く茂っていた。
何も考えていないように見えた。
でも——胸の中で、何かが静かに傷ついていた。
――
帰宅すると、はるかが待っていた。
リビングのソファに座って、スマートフォンを触っていた。
あかねが玄関を開けた音で、顔を上げた。
「どうだった」
「成績は上位でした。授業態度も問題ないそうです」
「そっか」
はるかは、あかねの顔を見ていた。
「……他には」
あかねは、靴を脱ぎながら、少し間を置いた。
「先生が、次回は家族の方に出席してほしいと」
はるかの目が、少し細くなった。
「……なんで」
「わたしがアンドロイドだと伝えたので」
はるかが、スマートフォンを膝に置いた。
「嫌なこと言われた?」
あかねは、靴を揃えた。
「いいえ。皆さん、丁寧でした」
嘘だった。
廊下の声は聞こえていた。全部、記録していた。でも——はるかに、それを聞かせる必要はなかった。
はるかは、あかねの顔を見ていた。
長い間、見ていた。
「……嘘つき」
静かな声だった。
あかねは、顔を上げた。
はるかの目が、まっすぐだった。
「あかね、嘘つくの下手だよ」
「……」
「顔に出てる」
あかねは、自分の顔に手を当てた。
はるかは、少し黙った。それから、窓の方を見た。
「……わたしも、毎回そうだった」
「……え?」
「保護者会の後。クラスの子に、『お前んち、今回も誰も来なかったな』って。毎回。四年間ずっと」
あかねは、動けなかった。
はるかが、立ち上がった。
「だから——ありがとう。来てくれて」
あかねは、廊下に立ったまま、はるかを見ていた。
「次も——来てくれていいよ。先生が何言おうと」
はるかは、それだけ言って、自分の部屋に向かった。
ドアが閉まった。
あかねは、しばらく廊下に立っていた。
次も来ていい。
はるかの言葉が、さっきまで胸にあった冷たいものの上に、温かく落ちてきた。
消えたわけではなかった。
学校の廊下で聞いた声は、まだ記録の中にあった。
でも——はるかの「ありがとう」が、その上に、静かに重なった。
傷は消えなかった。
でも——傷の上に、何かが育ち始めていた。
あかねは、白いカーディガンを脱いで、丁寧に畳んだ。
でも——また着たい。
たとえ、世界がそれを認めなくても。
――




