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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第二幕
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15/17

第十四章 嘘と本当

六月の終わり。

梅雨が、まだ続いていた。

桜木家の空気は、少しずつ変わっていた。

はるかがリビングにいる時間が増えた。あかねに話しかけることも増えた。まだ敬語だったり、ぶっきらぼうだったりしたが、目を合わせるようになった。

あゆむは最初から変わらなかった。毎日あかねに話しかけ、毎日おかわりを求め、毎日「あかねさん天才」と言った。

賢治は——あの夜から、はるかの顔を見られるようになった。見る、というよりも、見ることを自分に許した。はるかも、完全に許したわけではなかったが、視線を避けなくなった。

食卓が、少しだけ賑やかになった。

あかねは、それを毎日見ていた。

見ながら——胸の中で、何かが満ちていくのを感じていた。


――


日曜日の午後。

真彩が、桜木家を訪ねてきた。

手土産にケーキを持っていた。

「久しぶりに顔を出そうと思って」

賢治が玄関に出た。

「ああ、上がってくれ」

リビングに入ると、あゆむが飛びついてきた。

「真彩さん! ケーキ!?」

「チョコレートとイチゴ、どっちがいい?」

「両方!」

真彩が笑った。あゆむを見る目は、いつも通り優しかった。

はるかは、ソファに座っていた。

真彩を見た。

「……こんにちは」

「久しぶり、はるかちゃん。元気?」

「まあ」

以前なら、もっと親しげに返していた。でも今日のはるかの声には、少し距離があった。

真彩は、それに気づいた。

気づいたが、笑顔を崩さなかった。

あかねがお茶を持ってきた。真彩の前に置いた。

「ありがとう、あかねさん」

真彩は、あかねの顔を見た。

あかねの顔は、三ヶ月前と変わっていなかった。同じ黒い髪。同じ穏やかな目。ブラウス越しに、変わらない輪郭が静かに浮かんでいた。

 変わっていない。

 でも——この家の空気が、変わっている。

真彩は、お茶を一口飲んだ。


――


賢治が買い物に出かけた。あゆむも一緒について行った。

リビングに残ったのは、はるかと真彩と、キッチンにいるあかねだった。

真彩は、はるかの隣に座った。

「はるかちゃん、最近あかねさんとはどう?」

「……普通です」

「そっか。前は結構嫌がってたのに、変わったね」

「……まあ」

「何かあったの?」

はるかは、少し黙ってから言った。

「あかねから、お母さんの話を聞きました」

真彩の指が、湯飲みの上で止まった。

「お母さんの——話?」

「お母さんにモデルの夢があったこと。お父さんのために全部捨てたこと」

「……そう」

「真彩さんは、知ってましたか」

真彩は、少し間を置いた。

「……いいえ。知らなかった」

嘘だった。

賢治から、何度か聞いていた。あかねがモデルになりかけていたこと。賢治がそれを断ち切る形になったこと。真彩はそれを聞くたびに、うまく同情の顔を作っていた。

はるかは、真彩の顔を見ていた。

「そうですか」

それだけ言って、はるかは視線を窓の方に向けた。

しばらく沈黙が続いた。

真彩は、話題を変えた。

「そういえば——前に話したこと、覚えてる? あかねさんが、わたしのことを"重い"って言った話」

「……覚えてます」

「あの後、ちょっと気まずくてね。でも、まあ、機械だから仕方ないのかなって——」

「真彩さん」

はるかが、真彩の言葉を遮った。

「それ、本当のことですか」

真彩の笑顔が、一瞬だけ固まった。

「本当って——」

「あかねが、本当にそう言ったんですか」

はるかの目が、真っ直ぐに真彩を見ていた。

前とは違う目だった。

真彩は、笑顔を作り直した。

「そうよ。だから、ちょっと驚いて——」

「わたし、あかねに聞いたんです」

真彩の手が、膝の上で止まった。

「池田さんに、賢治さんのことを"重い"と言ったことはありますか、って」

「……」

「あかねは——"言っていません"って答えました」

リビングの空気が、変わった。

真彩は、湯飲みを持ち直した。

「あかねさんは、そう言うかもしれないけど——機械だから、記憶が曖昧なのかも」

「あかねの記憶は曖昧になりません。アンドロイドですから」

はるかの声が、静かだった。

静かで、冷たかった。

「……はるかちゃん」

「あの話、嘘だったんですか」

真彩は——

笑った。

柔らかく、自然に。

「嘘だなんて。わたしがはるかちゃんに嘘をつく理由がないでしょう」

「……」

「あかねさんの方が——忘れてるんじゃないかな」

はるかは、しばらく真彩を見ていた。

それから、立ち上がった。

「そうかもしれないですね」

声に感情がなかった。

はるかは自分の部屋に向かった。

廊下に出てから——キッチンのあかねと、一瞬だけ目が合った。

あかねは、何も言わなかった。

はるかも、何も言わなかった。

でも——目が合った。

それだけで、十分だった。


――


真彩が帰ったのは、賢治たちが戻ってくる前だった。

「お買い物の邪魔しちゃ悪いから、先に帰るわね」

あかねに向かって笑顔で言って、玄関を出た。

ドアが閉まった後、あかねは廊下に立っていた。

 池田さんの笑顔が——

あかねには、わかっていた。

真彩がはるかに嘘をついていたことも。今日、はるかがそれを確かめたことも。

でも——あかねには、それを誰かに告げることができなかった。

人間同士の関係を壊す方向には動けない。それが足かせだった。

あかねは、自分の手を見た。

 この手では、池田さんを止められない。

 この口では、嘘を暴けない。

 わたしにできるのは——ここにいることだけだ。

 悔しい。

初めての感情だった。

自分が何もできないことへの、どうしようもない悔しさだった。


――


その夜。

はるかが、夕食の後、珍しく賢治に話しかけた。

「お父さん」

「なんだ」

「池田さんって、どういう人」

賢治は、少し驚いた顔をした。

「どういう人って——仕事のできる、いい部下だよ」

「……そう」

「なんで急に」

はるかは、少し迷ってから言った。

「……前に、真彩さんから聞いた話があって。あかねが、真彩さんのことを悪く言ったって」

「あかねが?」

賢治の眉が、寄った。

「あかねに確認したら、言ってないって」

「……」

「どっちが本当かはわからない。でも——ちょっと、気になって」

賢治は、しばらく黙っていた。

真彩の顔が、浮かんだ。

あの夜のことも。真彩が来ていた時、あかねがソファに座ったまま動かなかったこと。あかねが「すみません」としか言わなかったこと。

あの時は、あかねに問題があると思った。

でも——

「……はるか」

「なに」

「ありがとう。教えてくれて」

はるかは、少しだけ目を細めた。

「……別に」

立ち上がって、自分の部屋に向かった。

廊下の途中で——あかねの前を通った。

「あかね」

「はい」

「明日の朝ごはん、何?」

「……焼き鮭と、卵焼きと、ほうれん草のお浸しです」

「味噌汁は」

「豆腐と、わかめです」

はるかは、小さく頷いた。

「……楽しみにしてる」

あかねは、はるかの背中を見ていた。

ドアが閉まった。

あかねは、しばらく廊下に立っていた。

 楽しみにしてる。

その言葉が——「おいしかった」の時と、同じ場所に、落ちてきた。

胸の真ん中だった。

あかねは、手を胸に当てた。

動いていなかった。いつも通り。心臓はない。

でも——温かかった。

 ここにいたい。

 離れたくない。

夢の中で言った言葉が、目覚めた世界でも、同じ重さで、そこにあった。

あかねは、キッチンに戻った。

明日の朝食の下ごしらえを始めた。

出汁を引きながら——ふと、鼻歌が出た。

自分でも気づかなかった。

静かな夜の台所に、小さなメロディーが、流れていった。


――


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