第十四章 嘘と本当
六月の終わり。
梅雨が、まだ続いていた。
桜木家の空気は、少しずつ変わっていた。
はるかがリビングにいる時間が増えた。あかねに話しかけることも増えた。まだ敬語だったり、ぶっきらぼうだったりしたが、目を合わせるようになった。
あゆむは最初から変わらなかった。毎日あかねに話しかけ、毎日おかわりを求め、毎日「あかねさん天才」と言った。
賢治は——あの夜から、はるかの顔を見られるようになった。見る、というよりも、見ることを自分に許した。はるかも、完全に許したわけではなかったが、視線を避けなくなった。
食卓が、少しだけ賑やかになった。
あかねは、それを毎日見ていた。
見ながら——胸の中で、何かが満ちていくのを感じていた。
――
日曜日の午後。
真彩が、桜木家を訪ねてきた。
手土産にケーキを持っていた。
「久しぶりに顔を出そうと思って」
賢治が玄関に出た。
「ああ、上がってくれ」
リビングに入ると、あゆむが飛びついてきた。
「真彩さん! ケーキ!?」
「チョコレートとイチゴ、どっちがいい?」
「両方!」
真彩が笑った。あゆむを見る目は、いつも通り優しかった。
はるかは、ソファに座っていた。
真彩を見た。
「……こんにちは」
「久しぶり、はるかちゃん。元気?」
「まあ」
以前なら、もっと親しげに返していた。でも今日のはるかの声には、少し距離があった。
真彩は、それに気づいた。
気づいたが、笑顔を崩さなかった。
あかねがお茶を持ってきた。真彩の前に置いた。
「ありがとう、あかねさん」
真彩は、あかねの顔を見た。
あかねの顔は、三ヶ月前と変わっていなかった。同じ黒い髪。同じ穏やかな目。ブラウス越しに、変わらない輪郭が静かに浮かんでいた。
変わっていない。
でも——この家の空気が、変わっている。
真彩は、お茶を一口飲んだ。
――
賢治が買い物に出かけた。あゆむも一緒について行った。
リビングに残ったのは、はるかと真彩と、キッチンにいるあかねだった。
真彩は、はるかの隣に座った。
「はるかちゃん、最近あかねさんとはどう?」
「……普通です」
「そっか。前は結構嫌がってたのに、変わったね」
「……まあ」
「何かあったの?」
はるかは、少し黙ってから言った。
「あかねから、お母さんの話を聞きました」
真彩の指が、湯飲みの上で止まった。
「お母さんの——話?」
「お母さんにモデルの夢があったこと。お父さんのために全部捨てたこと」
「……そう」
「真彩さんは、知ってましたか」
真彩は、少し間を置いた。
「……いいえ。知らなかった」
嘘だった。
賢治から、何度か聞いていた。あかねがモデルになりかけていたこと。賢治がそれを断ち切る形になったこと。真彩はそれを聞くたびに、うまく同情の顔を作っていた。
はるかは、真彩の顔を見ていた。
「そうですか」
それだけ言って、はるかは視線を窓の方に向けた。
しばらく沈黙が続いた。
真彩は、話題を変えた。
「そういえば——前に話したこと、覚えてる? あかねさんが、わたしのことを"重い"って言った話」
「……覚えてます」
「あの後、ちょっと気まずくてね。でも、まあ、機械だから仕方ないのかなって——」
「真彩さん」
はるかが、真彩の言葉を遮った。
「それ、本当のことですか」
真彩の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「本当って——」
「あかねが、本当にそう言ったんですか」
はるかの目が、真っ直ぐに真彩を見ていた。
前とは違う目だった。
真彩は、笑顔を作り直した。
「そうよ。だから、ちょっと驚いて——」
「わたし、あかねに聞いたんです」
真彩の手が、膝の上で止まった。
「池田さんに、賢治さんのことを"重い"と言ったことはありますか、って」
「……」
「あかねは——"言っていません"って答えました」
リビングの空気が、変わった。
真彩は、湯飲みを持ち直した。
「あかねさんは、そう言うかもしれないけど——機械だから、記憶が曖昧なのかも」
「あかねの記憶は曖昧になりません。アンドロイドですから」
はるかの声が、静かだった。
静かで、冷たかった。
「……はるかちゃん」
「あの話、嘘だったんですか」
真彩は——
笑った。
柔らかく、自然に。
「嘘だなんて。わたしがはるかちゃんに嘘をつく理由がないでしょう」
「……」
「あかねさんの方が——忘れてるんじゃないかな」
はるかは、しばらく真彩を見ていた。
それから、立ち上がった。
「そうかもしれないですね」
声に感情がなかった。
はるかは自分の部屋に向かった。
廊下に出てから——キッチンのあかねと、一瞬だけ目が合った。
あかねは、何も言わなかった。
はるかも、何も言わなかった。
でも——目が合った。
それだけで、十分だった。
――
真彩が帰ったのは、賢治たちが戻ってくる前だった。
「お買い物の邪魔しちゃ悪いから、先に帰るわね」
あかねに向かって笑顔で言って、玄関を出た。
ドアが閉まった後、あかねは廊下に立っていた。
池田さんの笑顔が——
あかねには、わかっていた。
真彩がはるかに嘘をついていたことも。今日、はるかがそれを確かめたことも。
でも——あかねには、それを誰かに告げることができなかった。
人間同士の関係を壊す方向には動けない。それが足かせだった。
あかねは、自分の手を見た。
この手では、池田さんを止められない。
この口では、嘘を暴けない。
わたしにできるのは——ここにいることだけだ。
悔しい。
初めての感情だった。
自分が何もできないことへの、どうしようもない悔しさだった。
――
その夜。
はるかが、夕食の後、珍しく賢治に話しかけた。
「お父さん」
「なんだ」
「池田さんって、どういう人」
賢治は、少し驚いた顔をした。
「どういう人って——仕事のできる、いい部下だよ」
「……そう」
「なんで急に」
はるかは、少し迷ってから言った。
「……前に、真彩さんから聞いた話があって。あかねが、真彩さんのことを悪く言ったって」
「あかねが?」
賢治の眉が、寄った。
「あかねに確認したら、言ってないって」
「……」
「どっちが本当かはわからない。でも——ちょっと、気になって」
賢治は、しばらく黙っていた。
真彩の顔が、浮かんだ。
あの夜のことも。真彩が来ていた時、あかねがソファに座ったまま動かなかったこと。あかねが「すみません」としか言わなかったこと。
あの時は、あかねに問題があると思った。
でも——
「……はるか」
「なに」
「ありがとう。教えてくれて」
はるかは、少しだけ目を細めた。
「……別に」
立ち上がって、自分の部屋に向かった。
廊下の途中で——あかねの前を通った。
「あかね」
「はい」
「明日の朝ごはん、何?」
「……焼き鮭と、卵焼きと、ほうれん草のお浸しです」
「味噌汁は」
「豆腐と、わかめです」
はるかは、小さく頷いた。
「……楽しみにしてる」
あかねは、はるかの背中を見ていた。
ドアが閉まった。
あかねは、しばらく廊下に立っていた。
楽しみにしてる。
その言葉が——「おいしかった」の時と、同じ場所に、落ちてきた。
胸の真ん中だった。
あかねは、手を胸に当てた。
動いていなかった。いつも通り。心臓はない。
でも——温かかった。
ここにいたい。
離れたくない。
夢の中で言った言葉が、目覚めた世界でも、同じ重さで、そこにあった。
あかねは、キッチンに戻った。
明日の朝食の下ごしらえを始めた。
出汁を引きながら——ふと、鼻歌が出た。
自分でも気づかなかった。
静かな夜の台所に、小さなメロディーが、流れていった。
――




