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夏への道のり  作者: みつおちゃん
第二幕
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14/17

第十三章 あゆむの喧嘩

六月の半ば。水曜日。

午後二時を少し過ぎた頃、あかねの携帯が鳴った。

賢治だった。

「あかね、悪いがちょっと頼みがある」

声が、いつもより低かった。

「あゆむを学校に迎えに行ってくれないか」

「あゆむさんを?」

「学校から電話があった。喧嘩をしたらしい。俺は今、会議が抜けられない」

あかねは、エプロンを外しながら聞いた。

「怪我は」

「大したことはないと。でも——相手の親が来てるらしくて、迎えが要ると言われた」

「わかりました」

「すまない。頼む」

電話が切れた。

あかねは靴を履いて、玄関を出た。

あゆむの小学校までは、歩いて十五分だった。


――


校門を入ると、職員室の隣にある小さな部屋に通された。

あゆむが、パイプ椅子に座っていた。

俯いていた。右の頬が少し赤くなっていた。殴られたのか。制服のシャツの襟元が、引っ張られたように伸びていた。

隣に、担任の男性教師が座っていた。

あかねが部屋に入った瞬間、教師の目が少し泳いだ。若い女性が来ると思っていなかったのだろう。

「桜木あゆむさんのお迎えの方ですか」

「はい。父が仕事で来られないので、代わりに来ました」

「お母さん——ではないですよね」

教師の声が、少し探るような調子になった。

「家の者です」

あかねは、それ以上説明しなかった。

教師は少し間を置いて、それから経緯を説明した。

昼休みに、あゆむが同級生と口論になった。最初は言い合いだけだったが、相手が手を出し、あゆむも殴り返した。相手の方は鼻血が出たが、大事には至らなかった。相手の親は既に来て、先に帰ったという。

「あゆむくん、原因を教えてくれないんです」

教師が言った。

「何が原因で言い合いになったのか、聞いても答えてくれなくて」

あかねは、あゆむを見た。

あゆむは、ずっと俯いていた。あかねが来たことに気づいているはずだったが、顔を上げなかった。

「あゆむさん」

あかねが呼んだ。

あゆむの肩が、びくりと動いた。

でも、顔を上げなかった。

あかねは教師に頭を下げて、あゆむの手を取った。

「帰りましょう」

あゆむは黙って立ち上がった。

手を握り返さなかった。でも、振り払いもしなかった。


――


校門を出て、住宅街の道を歩き始めた。

六月の午後だった。空は曇っていたが、雨は降っていなかった。紫陽花が、塀沿いに咲いていた。青と紫。

あゆむは黙っていた。

あかねも黙っていた。

しばらく、二人の足音だけが続いた。

あゆむの足音が、いつもより重かった。普段は走ったり跳ねたりしながら歩く子が、今日は地面を見ていた。

五分ほど歩いた頃。

「……あかねさん」

小さな声だった。

「はい」

「俺、悪くないよ」

あかねは、歩きながらあゆむを見た。

あゆむの目が、赤くなっていた。泣いた跡があった。学校では泣かなかったのだろう。こらえていたのだ。

「何があったか、教えてもらえますか」

あゆむは、しばらく黙っていた。

それから、堰を切ったように話し始めた。

「給食の時に、拓也たちと話してたんだ。うちのあかねさんの作る弁当がすげえうまいって。卵焼きが甘くて、鮭がいつもちょうどいい焼き加減で。それで、拓也が『へー、お母さんうまいんだな』って言ったから——」

あゆむの声が、少し詰まった。

「俺、お母さんじゃないよ、あかねさんっていうアンドロイドだよって。すげえんだぜって」

あかねは、黙って聞いていた。

「そしたら、大輔が——大輔ってやつがさ、急に笑い出して。『なんだ、ロボットかよ』って」

あゆむの手が、握りしめられた。

「『ロボットが作った飯がうまいとか、何ムキになってんの。そんなの設定でどうにでもなるじゃん。自慢することじゃねえだろ』って」

あかねの足が、一瞬だけ遅くなった。

「それで俺、頭にきて——」

「殴ったんですか」

「……先に殴ったのは大輔だよ。俺が『お前にあかねさんの何がわかるんだよ』って言ったら、『ロボット好きすぎだろ、キモ』って言いながら胸ぐら掴んできて」

あゆむの声が震えた。

「俺は殴り返しただけだよ。でも先生は、先に手を出した方が悪いのに、両方悪いって——」

「あゆむさん」

あかねが、立ち止まった。

あゆむも立ち止まった。

あかねは、あゆむの前にしゃがんだ。

あゆむの顔を、下から見上げた。

赤くなった右頬。伸びた襟元。涙の跡が残った目。

「殴り返したことは、よくなかったかもしれません」

あゆむの顔が、歪んだ。

「でも——あかねさんだって——」

「でも」

あかねが、続けた。

「わたしのために怒ってくれたことは——嬉しかったです」

あゆむの目が、大きくなった。

「わたしはアンドロイドです。それは事実です。ロボットと呼ばれても、設定だと言われても、それは——間違いではありません」

「間違いだよ!」

あゆむが叫んだ。

「あかねさんは設定なんかじゃない! 毎日俺のこと見て、俺が何が好きか覚えて、味噌汁に玉ねぎ入れたのだって俺が甘いもの好きだからだろ!? そんなの設定じゃできないよ!」

あかねは——

答えられなかった。

あゆむの言葉が、胸の中で大きく響いていた。

設定じゃできない。

それは正しいのだろうか。あかねにはわからなかった。味覚データを分析して嗜好を最適化する——それを「設定」と呼ぶことも、できなくはない。

でも——あゆむの好きなものを覚えたくて覚えた。それは、前に自分で思ったことだった。

「……あゆむさん」

「なに」

「お弁当、明日も作ります」

あゆむの目から、涙がこぼれた。

学校ではこらえていた涙が、ここでやっと出てきた。

「……当たり前じゃん」

声が、鼻にかかっていた。

「毎日作ってよ。毎日食うから」

「はい」

「卵焼きは甘めで」

「はい」

「鮭は——ちょっと焦げ目がつくくらいがいい」

「わかっています」

あゆむが、袖で目を拭いた。乱暴に。何度も。

あかねは、しゃがんだまま、あゆむを見ていた。

十二歳の男の子が、自分のために怒って、殴り返して、怒られて、それでもまだ自分の弁当を食べたいと言っている。

 守りたい。

その言葉が、あかねの中に、はっきりと立った。

あかねは立ち上がった。

「帰りましょう。今日のおやつ、何がいいですか」

あゆむが、鼻をすすりながら言った。

「……ホットケーキ」

「いちご、乗せますか」

「乗せて。たくさん」

「わかりました」

二人で歩き出した。

しばらくして、あゆむの手が、あかねの手に触れた。

握ってきた。

小さくて、温かい手だった。

まだ少し震えていた。

あかねは、その手を、そっと握り返した。


――


帰宅して、あかねがホットケーキを焼いていると、はるかが学校から帰ってきた。

「ただいま——」

リビングを見て、足が止まった。

あゆむがテーブルに座っていた。目が赤い。頬が赤い。制服の襟元が伸びている。

「……何があったの」

あゆむは答えなかった。ホットケーキのいちごを、フォークで突いていた。

はるかはキッチンのあかねを見た。

あかねは、ホットケーキを焼きながら、小さく言った。

「学校で、少しありました」

はるかは、あゆむの隣に座った。

「喧嘩?」

あゆむが、黙って頷いた。

「なんで」

あゆむは、しばらく黙っていた。

それから、小さな声で言った。

「……あかねさんのこと、バカにされた」

はるかの手が、テーブルの上で止まった。

「ロボットが作った飯で自慢すんなって。設定でどうにでもなるって」

はるかは、あゆむを見ていた。

それから——あかねを見た。

あかねはキッチンで、静かにホットケーキをひっくり返していた。

はるかは、何も言わなかった。

ただ、手を伸ばして、あゆむの頭に置いた。

「……ばか」

低い声だった。

「お姉ちゃんに言えよ、そういうことは」

あゆむの目が、また赤くなった。

「だって——お姉ちゃん、前はあかねさんのこと嫌いだったじゃん」

はるかの手が、一瞬止まった。

「……前はね」

はるかが、静かに言った。

「前は」

あゆむは、姉の顔を見た。

はるかは、まっすぐ前を見ていた。キッチンのあかねの方を。

「次にそいつに何か言われたら——」

はるかが言いかけて、止まった。

「……いや。殴るのはダメだよ。それは、ダメ」

「お姉ちゃんだって前に——」

「あたしの話はいいの」

あゆむが、少しだけ笑った。

泣いた顔のまま、笑った。

あかねが、ホットケーキを二枚、テーブルに持ってきた。

いちごが、たくさん乗っていた。

はるかの前にも、一枚置いた。

「……頼んでないけど」

「はるかさんも好きだと思いまして」

はるかは、フォークを手に取った。

「……まあ、食べるけど」

三人で、ホットケーキを食べた。

あゆむの頬の赤みが、少しずつ引いていった。

いちごを口に入れるたびに、目の赤みも薄くなっていった。

あかねは、二人が食べるのを見ていた。

キッチンに立ったまま。いつもの場所で。

 外では、「ロボット」かもしれない。

 でも——この子たちが、ここにいる。

 十分だと——思いたかった。


――


その夜。

賢治が帰ってきたのは、九時過ぎだった。

リビングに入ると、あゆむはもう寝ていた。はるかも部屋にいた。

あかねが、温め直した夕食をテーブルに並べた。

「あゆむは」

「大丈夫です。頬が少し赤くなっていましたが、傷はありません」

「相手の子は」

「鼻血が出たそうですが、大事には至っていないと」

賢治は、箸を取った。

「……原因は」

あかねは、少し間を置いた。

「わたしのことを、自慢していたそうです。お弁当がおいしいと。それを、からかわれて」

賢治の箸が、止まった。

「……あゆむが」

「はい」

賢治は、しばらく黙って味噌汁を飲んだ。

「……そうか」

それから、小さく言った。

「あいつ、お前のことが好きなんだな」

あかねは、答えなかった。

 好き。

その言葉が、賢治の口から出た時、胸の中で何かが温かく広がった。

声にしたら、壊れてしまいそうだった。

黙っていた方が、この温かさが、長く残る気がした。


――


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