第十三章 あゆむの喧嘩
六月の半ば。水曜日。
午後二時を少し過ぎた頃、あかねの携帯が鳴った。
賢治だった。
「あかね、悪いがちょっと頼みがある」
声が、いつもより低かった。
「あゆむを学校に迎えに行ってくれないか」
「あゆむさんを?」
「学校から電話があった。喧嘩をしたらしい。俺は今、会議が抜けられない」
あかねは、エプロンを外しながら聞いた。
「怪我は」
「大したことはないと。でも——相手の親が来てるらしくて、迎えが要ると言われた」
「わかりました」
「すまない。頼む」
電話が切れた。
あかねは靴を履いて、玄関を出た。
あゆむの小学校までは、歩いて十五分だった。
――
校門を入ると、職員室の隣にある小さな部屋に通された。
あゆむが、パイプ椅子に座っていた。
俯いていた。右の頬が少し赤くなっていた。殴られたのか。制服のシャツの襟元が、引っ張られたように伸びていた。
隣に、担任の男性教師が座っていた。
あかねが部屋に入った瞬間、教師の目が少し泳いだ。若い女性が来ると思っていなかったのだろう。
「桜木あゆむさんのお迎えの方ですか」
「はい。父が仕事で来られないので、代わりに来ました」
「お母さん——ではないですよね」
教師の声が、少し探るような調子になった。
「家の者です」
あかねは、それ以上説明しなかった。
教師は少し間を置いて、それから経緯を説明した。
昼休みに、あゆむが同級生と口論になった。最初は言い合いだけだったが、相手が手を出し、あゆむも殴り返した。相手の方は鼻血が出たが、大事には至らなかった。相手の親は既に来て、先に帰ったという。
「あゆむくん、原因を教えてくれないんです」
教師が言った。
「何が原因で言い合いになったのか、聞いても答えてくれなくて」
あかねは、あゆむを見た。
あゆむは、ずっと俯いていた。あかねが来たことに気づいているはずだったが、顔を上げなかった。
「あゆむさん」
あかねが呼んだ。
あゆむの肩が、びくりと動いた。
でも、顔を上げなかった。
あかねは教師に頭を下げて、あゆむの手を取った。
「帰りましょう」
あゆむは黙って立ち上がった。
手を握り返さなかった。でも、振り払いもしなかった。
――
校門を出て、住宅街の道を歩き始めた。
六月の午後だった。空は曇っていたが、雨は降っていなかった。紫陽花が、塀沿いに咲いていた。青と紫。
あゆむは黙っていた。
あかねも黙っていた。
しばらく、二人の足音だけが続いた。
あゆむの足音が、いつもより重かった。普段は走ったり跳ねたりしながら歩く子が、今日は地面を見ていた。
五分ほど歩いた頃。
「……あかねさん」
小さな声だった。
「はい」
「俺、悪くないよ」
あかねは、歩きながらあゆむを見た。
あゆむの目が、赤くなっていた。泣いた跡があった。学校では泣かなかったのだろう。こらえていたのだ。
「何があったか、教えてもらえますか」
あゆむは、しばらく黙っていた。
それから、堰を切ったように話し始めた。
「給食の時に、拓也たちと話してたんだ。うちのあかねさんの作る弁当がすげえうまいって。卵焼きが甘くて、鮭がいつもちょうどいい焼き加減で。それで、拓也が『へー、お母さんうまいんだな』って言ったから——」
あゆむの声が、少し詰まった。
「俺、お母さんじゃないよ、あかねさんっていうアンドロイドだよって。すげえんだぜって」
あかねは、黙って聞いていた。
「そしたら、大輔が——大輔ってやつがさ、急に笑い出して。『なんだ、ロボットかよ』って」
あゆむの手が、握りしめられた。
「『ロボットが作った飯がうまいとか、何ムキになってんの。そんなの設定でどうにでもなるじゃん。自慢することじゃねえだろ』って」
あかねの足が、一瞬だけ遅くなった。
「それで俺、頭にきて——」
「殴ったんですか」
「……先に殴ったのは大輔だよ。俺が『お前にあかねさんの何がわかるんだよ』って言ったら、『ロボット好きすぎだろ、キモ』って言いながら胸ぐら掴んできて」
あゆむの声が震えた。
「俺は殴り返しただけだよ。でも先生は、先に手を出した方が悪いのに、両方悪いって——」
「あゆむさん」
あかねが、立ち止まった。
あゆむも立ち止まった。
あかねは、あゆむの前にしゃがんだ。
あゆむの顔を、下から見上げた。
赤くなった右頬。伸びた襟元。涙の跡が残った目。
「殴り返したことは、よくなかったかもしれません」
あゆむの顔が、歪んだ。
「でも——あかねさんだって——」
「でも」
あかねが、続けた。
「わたしのために怒ってくれたことは——嬉しかったです」
あゆむの目が、大きくなった。
「わたしはアンドロイドです。それは事実です。ロボットと呼ばれても、設定だと言われても、それは——間違いではありません」
「間違いだよ!」
あゆむが叫んだ。
「あかねさんは設定なんかじゃない! 毎日俺のこと見て、俺が何が好きか覚えて、味噌汁に玉ねぎ入れたのだって俺が甘いもの好きだからだろ!? そんなの設定じゃできないよ!」
あかねは——
答えられなかった。
あゆむの言葉が、胸の中で大きく響いていた。
設定じゃできない。
それは正しいのだろうか。あかねにはわからなかった。味覚データを分析して嗜好を最適化する——それを「設定」と呼ぶことも、できなくはない。
でも——あゆむの好きなものを覚えたくて覚えた。それは、前に自分で思ったことだった。
「……あゆむさん」
「なに」
「お弁当、明日も作ります」
あゆむの目から、涙がこぼれた。
学校ではこらえていた涙が、ここでやっと出てきた。
「……当たり前じゃん」
声が、鼻にかかっていた。
「毎日作ってよ。毎日食うから」
「はい」
「卵焼きは甘めで」
「はい」
「鮭は——ちょっと焦げ目がつくくらいがいい」
「わかっています」
あゆむが、袖で目を拭いた。乱暴に。何度も。
あかねは、しゃがんだまま、あゆむを見ていた。
十二歳の男の子が、自分のために怒って、殴り返して、怒られて、それでもまだ自分の弁当を食べたいと言っている。
守りたい。
その言葉が、あかねの中に、はっきりと立った。
あかねは立ち上がった。
「帰りましょう。今日のおやつ、何がいいですか」
あゆむが、鼻をすすりながら言った。
「……ホットケーキ」
「いちご、乗せますか」
「乗せて。たくさん」
「わかりました」
二人で歩き出した。
しばらくして、あゆむの手が、あかねの手に触れた。
握ってきた。
小さくて、温かい手だった。
まだ少し震えていた。
あかねは、その手を、そっと握り返した。
――
帰宅して、あかねがホットケーキを焼いていると、はるかが学校から帰ってきた。
「ただいま——」
リビングを見て、足が止まった。
あゆむがテーブルに座っていた。目が赤い。頬が赤い。制服の襟元が伸びている。
「……何があったの」
あゆむは答えなかった。ホットケーキのいちごを、フォークで突いていた。
はるかはキッチンのあかねを見た。
あかねは、ホットケーキを焼きながら、小さく言った。
「学校で、少しありました」
はるかは、あゆむの隣に座った。
「喧嘩?」
あゆむが、黙って頷いた。
「なんで」
あゆむは、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「……あかねさんのこと、バカにされた」
はるかの手が、テーブルの上で止まった。
「ロボットが作った飯で自慢すんなって。設定でどうにでもなるって」
はるかは、あゆむを見ていた。
それから——あかねを見た。
あかねはキッチンで、静かにホットケーキをひっくり返していた。
はるかは、何も言わなかった。
ただ、手を伸ばして、あゆむの頭に置いた。
「……ばか」
低い声だった。
「お姉ちゃんに言えよ、そういうことは」
あゆむの目が、また赤くなった。
「だって——お姉ちゃん、前はあかねさんのこと嫌いだったじゃん」
はるかの手が、一瞬止まった。
「……前はね」
はるかが、静かに言った。
「前は」
あゆむは、姉の顔を見た。
はるかは、まっすぐ前を見ていた。キッチンのあかねの方を。
「次にそいつに何か言われたら——」
はるかが言いかけて、止まった。
「……いや。殴るのはダメだよ。それは、ダメ」
「お姉ちゃんだって前に——」
「あたしの話はいいの」
あゆむが、少しだけ笑った。
泣いた顔のまま、笑った。
あかねが、ホットケーキを二枚、テーブルに持ってきた。
いちごが、たくさん乗っていた。
はるかの前にも、一枚置いた。
「……頼んでないけど」
「はるかさんも好きだと思いまして」
はるかは、フォークを手に取った。
「……まあ、食べるけど」
三人で、ホットケーキを食べた。
あゆむの頬の赤みが、少しずつ引いていった。
いちごを口に入れるたびに、目の赤みも薄くなっていった。
あかねは、二人が食べるのを見ていた。
キッチンに立ったまま。いつもの場所で。
外では、「ロボット」かもしれない。
でも——この子たちが、ここにいる。
十分だと——思いたかった。
――
その夜。
賢治が帰ってきたのは、九時過ぎだった。
リビングに入ると、あゆむはもう寝ていた。はるかも部屋にいた。
あかねが、温め直した夕食をテーブルに並べた。
「あゆむは」
「大丈夫です。頬が少し赤くなっていましたが、傷はありません」
「相手の子は」
「鼻血が出たそうですが、大事には至っていないと」
賢治は、箸を取った。
「……原因は」
あかねは、少し間を置いた。
「わたしのことを、自慢していたそうです。お弁当がおいしいと。それを、からかわれて」
賢治の箸が、止まった。
「……あゆむが」
「はい」
賢治は、しばらく黙って味噌汁を飲んだ。
「……そうか」
それから、小さく言った。
「あいつ、お前のことが好きなんだな」
あかねは、答えなかった。
好き。
その言葉が、賢治の口から出た時、胸の中で何かが温かく広がった。
声にしたら、壊れてしまいそうだった。
黙っていた方が、この温かさが、長く残る気がした。
――




