表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏への道のり  作者: みつおちゃん
第三幕
PR
17/17

第十六章 七月の審判

七月に入った。

梅雨が明けて、千歳烏山に夏の光が戻ってきた。

桜木家に、あかねが来て四ヶ月が経っていた。


――


その日は、定期検診だった。

アンドロイドには、三ヶ月に一度、メーカー指定のサービスセンターで検診を受ける義務がある。感情制御システムの確認、メモリの整合性チェック、足かせの動作確認。すべてが正常であることを確認して、初めて継続使用が認められる。

あかねは朝食を作り、食器を洗い、洗濯物を干してから、家を出た。

「行ってきます」

玄関で、あかねが言った。

「行ってらっしゃい」

あゆむが手を振った。

賢治は、玄関まで来て、あかねを見た。

白いブラウスに、紺のスカート。顎の下で揃えた短い髪を、耳にかけていた。うなじが見えた。

「……気をつけてな」

「はい」

あかねが、少し笑った。

はるかは、リビングのソファから、玄関の方をちらりと見た。

「……早く帰ってきてね」

小さな声だった。あかねに聞こえたかどうか、わからないくらい小さな声だった。テレビと換気扇の音の向こうでも、あかねにははっきり届いた。

でも——あかねには、聞こえていた。

「はい。夕食までには戻ります」

ドアが閉まった。


――


最寄り駅から京王線の急行に乗った。

明大前を過ぎると、地上の景色が消えて、地下に入った。笹塚、幡ヶ谷。窓の外が暗いまま、新宿に着いた。

南口を出ると、七月の日差しが照りつけていた。この街とは、空気が違った。人の密度も、音の種類も。

サービスセンターは、新宿駅から歩いて八分ほどのビルの中にあった。

白い壁の、清潔なフロアだった。病院に似ていた。

受付で出荷番号を伝える。DX35662JAH。HW-560、第三世代。

待合室には、他のアンドロイドも数体いた。男性型も女性型もいた。隣に座っている女性型のアンドロイドが、あかねに話しかけてきた。

「初めての検診?」

「はい」

「そう。わたしはもう五回目。すぐ終わるわよ」

女性型のアンドロイドは、笑った。

あかねは、その笑顔を見た。

整った顔だった。でも——どこか、平坦だった。

 この人は、笑っている。

 でも——嬉しくて笑っているのだろうか。

あかねは、自分の手を見た。

自分が笑う時——嬉しいから笑っている。

いつからそうなったのか、あかねにはわからなかった。

「桜木あかね様」

名前を呼ばれた。

あかねは立ち上がって、検診室に入った。


――


検診室は、白かった。

椅子に座ると、技術者が端末を接続した。首の後ろのポートに、細いケーブルが差し込まれた。

「動かないでくださいね。十五分ほどで終わります」

あかねは、目を閉じた。

データが読み出されていく感覚があった。自分の中を、誰かが覗いている感覚。四ヶ月分の記憶が、数値に変換されていく。はるかの涙も。賢治の声も。あゆむの笑顔も。全部が、データとして、抜き取られていく。映像、音声、体温変化、発話間隔。人間なら見落とすような細部まで、均一な精度で並べ替えられていく。

十五分が経った。

技術者が、端末の画面を見ていた。

指が止まった。

画面を二度見した。

それから——何も言わずに、部屋を出た。

あかねは、椅子に座ったまま、白い壁を見ていた。

 何か、あったのだろうか。

五分後、技術者が戻ってきた。

別の人間が、一緒にいた。白衣を着た、五十代くらいの男だった。名札には「主任検査官 藤原」と書いてあった。

藤原は、あかねの顔を一度だけ見て、それから端末の画面に目を落とした。

しばらく、画面をスクロールしていた。

あかねには、何を見ているのかわからなかった。

やがて、藤原が口を開いた。

「いくつかの数値が、基準値を超えています」

淡々とした声だった。

「共感反応、愛着形成、自発的感情生成。いずれも高い値が出ています」

あかねは、動かなかった。

藤原が、端末にメモを入力しながら続けた。

「ただ、数値が高いだけでは、感情の発現とは断定できません。環境への適応が進んだ結果、反応パラメータが上昇するケースもあります」

「……」

「次回の検診で再度測定し、経過を観察します。今回は——要観察、という扱いです」

あかねは、少しだけ息をついた。

呼吸を模した動作だった。でも——安堵、という感情が、確かにそこにあった。

「……わかりました」

「何か気になることがあれば、いつでもご連絡ください」

藤原が、淡々と言った。

あかねは立ち上がって、検診室を出た。

あかねは、建物を出た。

七月の日差しが、目に眩しかった。

新宿の雑踏の中を歩きながら、あかねは胸の中を確かめた。

 要観察。

 廃棄では、なかった。

あかねは、電車に乗った。

京王線の車窓から、夏の街が流れていった。

最寄り駅で降りて、商店街を歩いた。八百屋の前を通り過ぎる時、今夜の夕食のことを考えた。冷蔵庫の残り、家族の帰宅時刻、今日の会話の温度。組み合わせはすぐに絞れた。

 まだ、ここにいられる。


――


桜木家の玄関を開けた。

「おかえり! あかねさん、遅かったね!」

あゆむが、廊下を走ってきた。

「ただいま。少し、混んでいました」

「晩ごはんまだ? 腹減った!」

「今から作りますね」

あかねはキッチンに入って、エプロンをつけた。

短い髪を耳にかけた。

いつもの台所だった。いつもの夕方だった。

あかねは、夕食を作り始めた。火を入れる順番と盛りつけの順を組み替えて、全員が座る頃に一番温かい状態になるようにした。


――


夕食の後。

はるかが、キッチンに来た。

あかねが洗い物をしていた。

「あかね」

「はい」

「今日——検診、どうだった」

「経過観察になりました。一部の数値が高かったそうですが、次の検診まで様子を見るそうです」

嘘ではなかった。藤原はそう言った。

はるかは、少し目を細めた。

「……数値が高いって、大丈夫なの」

「適応が進んだ結果だそうです。問題にはならないそうです」

「……そっか」

はるかは、少し安心したように見えた。

「よかった」

小さく言って、キッチンを出ていった。

あかねは、はるかの背中を見送った。

 大丈夫だ。

 まだ、ここにいられる。

あかねは、洗い物の続きをした。

水の音が、静かに続いた。


――


それから二週間は、穏やかだった。

あかねは毎日を普通に過ごした。朝食を作った。洗濯をした。掃除をした。あゆむの話を聞いた。賢治に弁当を持たせた。はるかの部屋のドアノブに、タオルをかけた。同じ家事でも、誰が先に帰るかで順番を少しずつ変えた。

はるかは、あかねと並んで洗い物をするようになった。何も言わずに、隣に立って、皿を拭いた。

あゆむは、あかねに折り紙を教わっていた。

賢治は——夜、リビングで少しだけ長く、あかねと話すようになった。

穏やかな日々だった。


――


ある夜。

賢治が、仕事帰りに紙袋を持って帰ってきた。

「あかね」

「はい」

「これ」

紙袋の中に、白い箱が入っていた。

あかねが開けた。

白いスニーカーだった。

あかねは、スニーカーを見ていた。

商店街の靴屋のショーウィンドウで見たのと、同じものだった。あの日——賢治と二人で散歩した帰りに、一瞬だけ目を止めた靴。

「お前、あの時、見てただろ」

賢治は、目を逸らしながら言った。

「散歩の時に服以外で出かけることもあるかもしれないから。あの革靴じゃ歩きにくいだろう」

言い訳じみた口調だった。

あかねは、スニーカーを手に取った。

軽かった。白くて、柔らかくて、自分のためだけに選ばれたもの。

本物のあかねのお下がりではない。

初めての——自分の靴だった。

「……ありがとうございます」

声が、少し震えた。

賢治は、すでにソファに座ってテレビをつけていた。

「……礼はいい」

あかねは、玄関でスニーカーを履いてみた。

ぴったりだった。

 覚えていてくれた。

あかねは、スニーカーを丁寧に箱に戻した。

玄関の靴箱に、自分の場所を作って、入れた。


――


七月の中旬。

一通の通知が届いた。

封筒は白かった。差出人は「アンドロイド品質委員会」。

あかねは、それを一人で開けた。

平日の昼。賢治は会社。あゆむは学校。はるかも学校。

静かな家の中で、あかねは紙を広げた。

「アンドロイド品質管理法第十二条第三項に基づき、下記個体について、感情発現の確認および廃棄処分を決定する」

出荷番号 DX35662JAH

モデル番号 HW-560 第三世代

所有者 桜木賢治

引き渡し日時 七月二十日 午前十時

引き渡し場所 アンドロイド品質委員会 新宿支部

あかねは、紙を読み終わった。

七月二十日。

五日後だった。

あかねは、紙をテーブルに置いた。

しばらく、動かなかった。

台所の時計の音だけが、静かに鳴っていた。

冷蔵庫の駆動音まで、いつもより大きく聞こえた。

 五日。

 あと五日で——

あかねは、立ち上がった。

紙を、テーブルの上に置いたままにした。

隠すことは、できなかった。

隠す権利も、なかった。

これは——この家の人たちが知るべきことだった。

あかねはキッチンに立って、夕食の準備を始めた。

今夜は、はるかの好きなものを全部作ろうと思った。


――


賢治が帰ってきたのは、夜の七時だった。

「ただいま」

「おかえりなさい」

あかねが玄関まで小走りで迎えに来た。いつも通りだった。

でも——賢治は、あかねの目に、何かを見た。

笑っていた。

でも——何かが、いつもと違った。

「どうした」

「何でもありません。夕食、できています」

リビングに入った。

テーブルの上に、白い封筒が置いてあった。

賢治は、それを手に取った。

「……何だ、これ」

あかねは、答えなかった。

賢治が、封筒を開けた。

紙を読んだ。

一行目で、手が止まった。

二行目で、顔色が変わった。

最後まで読んで——紙を、テーブルに叩きつけた。

「……なんだよ、これ」

声が、震えていた。

「廃棄? 廃棄処分? なんで——」

「わかりません。検診では、経過観察と言われただけでした」

あかねが、静かに言った。

賢治の目が、鋭くなった。

「経過観察だったのに——いきなり廃棄決定?」

「……はい」

「おかしい。検診で要観察なら、次の検診まで様子を見るはずだ。再検査もせずに廃棄決定なんて——」

賢治は、通知をもう一度読んだ。

文面の冒頭に、小さく記載があった。

「第三者通報に基づく緊急審査」

賢治の手が、止まった。

「……第三者通報」

声が、低くなった。

「誰かが——品質委員会に、あかねのことを通報した。それで、検診結果と合わせて、一気に廃棄まで持っていかれた」

あかねは、黙っていた。

賢治は、紙をテーブルに置いた。

七月二十日。五日後。

「ふざけるな」

低い声だった。

「ふざけるなよ。五日で——こんなの——」

「お父さん?」

廊下から、はるかの声がした。

はるかが、リビングに入ってきた。

賢治の顔を見て、足が止まった。

「……何があったの」

賢治は、何も言えなかった。

はるかの目が、テーブルの上の紙に向いた。

手に取った。

読んだ。

はるかの顔から、血の気が引いていくのが、わかった。

「……嘘でしょ」

「……」

「廃棄って——殺すってこと?」

あかねは、はるかを見た。

「……そうなります」

「なんで! あかねが何したっていうの!」

「感情が芽生えたアンドロイドは、法律で——」

「知ってるよそんなこと! でも——」

はるかの声が、震えた。

「でも、あかねは何も悪いことしてないじゃん! ごはん作って、洗濯して、わたしが無視しても毎日毎日——」

はるかの声が、途切れた。

涙が、溢れていた。

息を吸おうとしても、喉の奥で引っかかるようだった。

「やだ。やだよ。やっと——やっと、話せるようになったのに」

あゆむが、廊下から覗いていた。

姉の泣き声を聞いて、出てきたのだった。

「お姉ちゃん? なんで泣いてるの?」

はるかは、答えられなかった。

賢治が、あゆむの肩に手を置いた。

「あゆむ。少し——話がある」


――


あゆむは、全部聞いた。

十二歳の目で、全部聞いた。

しばらく黙っていた。

それから——

「あかねさん、いなくなるの?」

「……」

「嫌だ」

あゆむの声は、単純だった。

怒りでも悲しみでもなく——ただ、嫌だ、と。

涙を拭こうともせず、首を横に振り続けた。

「嫌だよ。あかねさんがいなくなるの、嫌だ」

あかねは、あゆむの前にしゃがんだ。

「あゆむさん」

「嫌だってば」

あゆむの目が、赤くなっていた。

あかねは、あゆむの頭にそっと手を置いた。

「……ありがとう」

「なんでありがとうなんだよ。やめてよ。お別れみたいなこと言わないでよ」

あかねは、何も言えなかった。

あゆむの頭を、そっと撫でた。

小さな頭だった。

温かかった。


――


夜が、深まっていった。

あゆむが泣き疲れて寝た後、リビングに残ったのは、賢治とはるかとあかねだった。

賢治が、テーブルに肘をついて、頭を抱えていた。

「……誰が通報したんだ」

賢治が、低い声で言った。

はるかが、顔を上げた。

「通知に書いてあった。『第三者通報に基づく緊急審査』って。検診では要観察だったのに、誰かが外から品質委員会に通報して、それで一気に廃棄まで持っていかれた」

はるかの顔が、強張った。

「……誰が、そんなこと」

しばらく、時計の音だけが聞こえていた。

はるかの目が、動いた。

何かを、思い出すように。

「……まさか」

賢治が、はるかを見た。

「あかね」

賢治が言った。

「お前に聞く。池田真彩から——何か、されたことはあるか」

あかねは——

答えられなかった。

人間同士の関係を壊す方向には動けない。足かせが、あかねの口を塞いでいた。

「……わたしの口からは、申し上げられません」

賢治の目が、鋭くなった。

「申し上げられない——ということは、あるんだな」

あかねは、黙った。

沈黙が、答えだった。

はるかが、立ち上がった。

「わたし、知ってる」

「はるか?」

「真彩さんが、あかねに嘘をつかせてた。座ってろって命令して、お父さんの前であかねが何もしてないように見せてた。わたしにも嘘を吹き込んでた。あかねが真彩さんの悪口を言ったって——全部、嘘だった」

賢治の顔が、変わった。

「……なんだと」

「あかねは、足かせがあるから、人間を告発できないの。だから全部黙ってたの。全部——一人で受け止めてたの」

はるかの声が、震えていた。怒りだった。

「通報したの、真彩さんでしょ」

賢治は、しばらく動かなかった。

それから——立ち上がった。

「あかね」

「はい」

「お前は何も悪くない」

「……」

「何も、悪くない」

賢治の声が、低く、はっきりしていた。

「俺が——なんとかする」


――


同じ夜。

池田真彩は、自分のマンションの部屋で、一人だった。

駅から徒歩三分。桜木家から、歩いて十分もかからない場所。四年前、わざわざここに引っ越した。

ワンルームだった。一人で住むには十分な広さだった。

キッチンは狭い。コンロは一口。冷蔵庫には、コンビニのサラダと、ワインが一本。

真彩は、ベッドに座って、スマートフォンの画面を見ていた。

品質委員会の通報受付ページが、開いたままだった。

三日前に、通報した。

検診の日を調べて、タイミングを計って、あかねが検査を受けた翌日に通報した。

「アンドロイド個体DX35662JAH、感情発現の疑いあり。所有者宅にて、足かせの制約を超える行動が複数回確認されている」

正確で、冷静で、隙のない文面だった。

真彩は、それが得意だった。仕事でも、いつもそうだった。

スマートフォンを、ベッドに伏せた。

窓の外に、街の夜景が見えた。

 四年。

四年間だった。

あかねが死んだ日、会社で賢治の顔を見た。営業フロアに戻ってきた賢治の顔が、別人のように白かった。真彩は、その日の午後、自分からコーヒーを持っていった。ブラック。賢治がブラックしか飲まないことを、知っていた。

「……ありがとう」

賢治が、かすれた声で言った。

その日から、真彩は動いた。

引越しの手続き。はるかの学校の送り迎え。あゆむの宿題。賢治のスケジュール管理。家に上がって、掃除をした。食事を作った。洗濯物を畳んだ。

誰に頼まれたわけでもなかった。

ただ——そうしたかった。

真彩は、ベッドから立ち上がって、クローゼットを開けた。

奥に、小さな箱があった。

開けた。

中には、はるかからもらった手紙が入っていた。中学二年の時、クリスマスに書いてくれたものだった。

「真彩さんへ。いつもありがとう。真彩さんがいるから、うちは大丈夫です。大好きです。はるか」

真彩は、手紙を読んだ。

何度も読んだことのある文面だった。

はるかの丸い字。「大好きです」の「す」の字が、少し歪んでいる。

真彩は、手紙を箱に戻した。

 大好きです。

 もう、過去の言葉になった。

あかねが来てから、はるかの目が変わった。

最初は真彩の味方だった。一緒にあかねを疎んでいた。

でも——いつの間にか、はるかの目は、あかねの方を向くようになった。

台所に立つあかねの背中を見る目。味噌汁を飲み干す仕草。あかねの前で、少しだけ柔らかくなる声。

 わたしが四年かけてもできなかったことを。

 あの機械は、四ヶ月で——

真彩は、窓の前に立った。

ワインを、グラスに注いだ。

一口飲んだ。

 間違っていない。

感情を持ったアンドロイドは、法律で廃棄が定められている。通報は、正当な行為だ。

もう一口、飲んだ。

 では——なぜ、こんなに胸が痛いのか。

真彩は、グラスをテーブルに置いた。

通報のボタンを押す前の夜のことを、思い出した。

あの夜も、この部屋で一人だった。スマートフォンの画面に、通報フォームが開いていた。指が、画面の上で止まっていた。

 押せば、あかねは消える。

 消えれば、元に戻る。

 四年前の、あの場所に——

指が、震えた。

真彩は目を閉じた。

賢治の顔が浮かんだ。

「そうだな」と言った時の、あの遠い目。初めてあかねの弁当を食べた日の、あの柔らかい顔。

あの顔は、四年間、一度も真彩には向けられなかった。

目を開けた。

指が、画面に触れた。

「送信」。

画面が切り替わった。「通報を受け付けました」。

真彩は、スマートフォンを膝の上に置いた。

何も感じなかった。

何も感じないことが——一番、怖かった。

今夜。

通報から三日が経って、あかねに廃棄宣告が届いた夜。

真彩は、ベッドに座ったまま、天井を見ていた。

 これで良かったのだ。

 あの家族を、守ったのだ。

 機械に感情移入して、いつか壊れた時に——もっと深く傷つく前に、終わらせてあげたのだ。

真彩は、もう一度、手紙の箱を見た。

開けなかった。

 大好きです。

 もう——あの声は、聞けないだろう。

真彩は、電気を消した。

暗い部屋で、しばらく目を開けていた。

涙は、出なかった。

出ないことが——自分でも、不思議だった。


――


翌朝。

賢治は、会社に着くなり、真彩を会議室に呼んだ。

ドアを閉めた。

「座ってくれ」

真彩が座った。賢治は立ったままだった。

「池田」

「はい」

「あかねの件で、品質委員会に通報したのは——お前か」

真彩の表情が、一瞬だけ揺れた。

一瞬だけだった。

「……何のことですか」

「答えてくれ」

「部長、わたしが何を——」

「あかねに、座っていろと命令したことも。はるかに嘘を吹き込んだことも。全部——聞いている」

真彩の顔から、笑顔が消えた。

しばらく、沈黙が続いた。

「……そうですか」

真彩が、言った。

「聞いている、ということは——あかねさんか、はるかちゃんか、どちらかが話したんですね」

「答えてくれ。通報したのか」

真彩は、テーブルの上で手を組んだ。

「……はい」

静かだった。

「通報しました」

「なぜだ」

真彩は、賢治を見た。

「あのアンドロイドは——危険です」

「危険?」

「感情を持ったアンドロイドは、法律で廃棄が定められています。わたしは——法律に従っただけです」

「法律に——」

「部長。あなたは気づいていないかもしれませんが、あのアンドロイドに——感情移入しすぎています。はるかちゃんも、あゆむくんも。あれは機械です。いつか壊れます。壊れた時に——傷つくのは、あなたたちです」

賢治は、真彩を見ていた。

「わたしは——あなたたちを守りたかっただけです」

真彩の声は、平坦だった。

自分の言葉を、本気で信じているように聞こえた。

賢治は——

「池田」

「はい」

「俺の家には、もう来ないでくれ」

真彩の目が、わずかに見開かれた。

「……部長」

「あかねを守りたかったんじゃない。お前は——自分を守りたかったんだ」

真彩の唇が、かすかに震えた。

「……そんなことは——」

「四年間、助けてくれたことには感謝している。本当に。でも——これは、許せない」

賢治は、会議室のドアを開けた。

「仕事の話は、これまで通りする。でも——それ以外は、もう終わりだ」

真彩は、しばらく座ったままだった。

それから、立ち上がった。

表情が、読めなかった。

怒りなのか、悲しみなのか、それとも——

「……わかりました」

真彩は、会議室を出た。

廊下を歩いていった。

背筋が、真っ直ぐだった。

一度も、振り返らなかった。


――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ