第九話 町から消えた古い歌
次の日の夜、白夜亭のランプが、また不自然に揺れた。
昼間までは、何も変わったことはなかった。
リーヴァは昨日と同じエプロンをつけて店を手伝い、ニエルは相変わらずジャムの瓶を狙っていた。そんな穏やかな一日が終わろうとしていたころだった。
裏庭から細い歌声が聞こえてくるたび、ランプの炎が、かすかに青白く揺れた。
リーヴァは古い木のベンチに腰かけ、何度も同じ旋律を口ずさんでいた。白夜の淡い光に包まれた姿は、どこか儚げに見えた。膝の上で組んだ両手が、旋律に合わせてかすかに動いている。
「……違う。ここから先が、出てこない」
白夜祭の夜に歌った子守歌を、もう一度最初から歌い直しているところだった。
けれど、何度繰り返しても、ある一節でリーヴァの声はふっと途切れてしまう。まるで、その先に見えない壁があるかのように、旋律はいつも同じ場所で行き止まりになった。
「祖母から、確かに教わったはずなのに」
わたしは店の窓辺から、その様子を見つめていた。
リーヴァの横顔には、これまで見たことのない焦りが浮かんでいる。いつも静かで、感情をあまり表に出さないリーヴァが、こんなに追い詰められた表情をしているのを見るのは初めてだった。
窓ガラスに映る自分の顔まで、不安げに曇っているように見えた。
「今日はもういいよ。休もう」
わたしが声をかけると、リーヴァは小さく首を振った。
「思い出さないと」
その声には、有無を言わせない硬さがあった。
「でも、無理に思い出そうとすると、余計に出てこなくなることもあるでしょう」
それでもリーヴァは納得しきれない様子で、口の中で小さく旋律を繰り返していた。
裏庭を吹き抜ける風が、彼女のほつれた髪を揺らす。
わたしは、かける言葉が見つからないまま、窓辺から離れられずにいた。あの欠けた旋律が、リーヴァの心まで少しずつ締めつけているような気がして、胸がざわついた。
☆
翌日、わたしはひとつの考えを思いついた。朝、店の掃除をしながら、ふと頭に浮かんだのだ。
「リーヴァ一人が全部覚えてる必要、ないんじゃないかな」
「どういうこと?」
カウンターで鈴の紐を編んでいたリーヴァが、手を止めて顔を上げた。
「町の人たちに聞いて回ってみようよ。もしかしたら、みんな、少しずつ覚えてるかもしれない」
リーヴァは少し驚いた顔をしたけれど、やがてゆっくりと頷いた。編みかけの紐をそっと置く。
「……試してみる」
こうして、わたしたちは町の人々を訪ね歩くことにした。
最初に向かったのは、おばあちゃんの古い知人だという、湖畔に住む老人の家だった。湖のほとりに建つ小さな木造の家は、青いペンキが所々剥げていて、それがかえって長い歳月を物語っていた。軒下には干した魚が吊られ、開いた窓からは、古い網と薪の匂いが流れてくる。窓辺の椅子からは、白夜の光を跳ね返す湖が一面に見渡せた。
扉を叩くと、腰の曲がった老人が、人懐こい笑顔で迎えてくれた。
「ああ、あの歌かい。若い頃、祭りでよく歌われていたよ」
老人は懐かしそうに目を細めながら、途切れ途切れに旋律を口ずさんでくれた。しわがれた声だったけれど、その節回しには、確かに聞き覚えのある温もりがあった。けれど、途中でふっと言葉が止まる。
「……すまんね。ここから先が思い出せん」
老人は申し訳なさそうに、白い眉を下げた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
わたしはその旋律を、持ってきた紙に音符のように書き留めた。老人の家を出るとき、湖面に映る白夜の光が、静かに揺れているのが見えた。
次に訪ねたのは、手仕事市の職人たちだった。
工房の中では、金槌の音が規則正しく響いていた。壁には大小の鈴や金具が並び、火床の赤い光が、職人の頬と磨かれた金属を交互に照らしている。
木の削りかすの匂いが漂う作業場で、職人たちは手を動かしながら耳を傾けてくれた。
「昔、母親が仕事をしながら口ずさんでいたよ」
職人の一人が、ぼそぼそと歌の一節を歌ってくれる。カンナを握ったままの、少し照れくさそうな歌声だった。それは、老人が歌ってくれた部分とは、また違う箇所だった。
「あ、これ、老人さんが歌ってくれたのと、続きになってる気がする」
リーヴァが、紙に書き留めた旋律を見比べながら言った。その目には、かすかな光が戻り始めていた。
わたしたちは、ヘンリカ町長のところへも足を運んだ。町長は忙しい合間を縫って、快く時間を作ってくれた。
「その歌なら、私も子どもの頃に聞いた覚えがあるよ」
町長は、少し考え込んでから、また別の一節を口にした。豪快な普段の様子とは違い、どこか遠くを見るような、優しい声だった。
「……こんな感じだったと思うけど。合ってるかしら」
訪ね歩けば歩くほど、歌の断片が、まるでパズルのピースのように少しずつ集まっていった。けれど、誰に聞いても、完全な形を覚えている人はいなかった。それでも、一枚の紙に書き留められていく旋律が増えていくたびに、わたしの胸にも、小さな手応えが積もっていった。
「みんな、少しずつしか覚えてない」
夕方、白夜亭に戻り、集めた断片を並べながら、リーヴァがぽつりと呟いた。カウンターに広げた紙を、彼女はじっと見つめている。
「歌が消えたんじゃなくて……」
「みんなの記憶の中で、ばらばらになってる、ってこと?」
「たぶん」
わたしは、これまでの異変を思い返した。ほどけた飾り紐。色を失った毛糸。季節外れのオーロラ。迷子のトナカイ。湖畔の寂しがる湯気の精。ベリー妖精の怒り。それらすべてが、この「忘れられていくもの」という一点に、じわじわとつながっていくような気がした。バラバラだった点が、一本の線で結ばれていくような感覚に、背筋がひやりとした。
「これ、たぶん、北風の鹿の歌なんだと思う」
わたしがそう言うと、カウンターの隅にいたニエルが、耳をぴくりと動かした。ずっとうたた寝をしているふりをしていたくせに、こういうときだけは目ざとい。
「うむ。その通りだ」
「知ってたなら、早く言ってよ」
「言うたところで、思い出せるわけでもなかろう」
ニエルの言い分は屁理屈だったけれど、否定はできなかった。わたしは小さくため息をついた。
その夜、リーヴァは白夜亭の隅で、集めた歌の断片を何度も並べ直していた。ランプの灯りの下で、紙を手に取ったり、順番を入れ替えたりしながら、彼女は真剣な表情で旋律をたどっている。けれど、どうしても最後の一節だけが、埋まらないままだった。
「私が受け継ぐはずだったのに」
リーヴァの声には、これまで隠していたであろう責任の重さが滲んでいた。うつむいた横顔に、ランプの影が落ちている。
「リーヴァのおばあちゃんから、教わってたんだよね」
「うん。でも、忘れてしまった。……歌守りの孫として、失格かもしれない」
その言葉が、あまりに寂しげに響いて、わたしは思わず身を乗り出した。
「そんなことないよ」
わたしは、思わず強く言い返した。自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
「歌を一人で抱える必要なんて、ないと思う。町の人たちが、それぞれ一節ずつ覚えてるなら、それを集めればいいだけだよ。実際、今日だけでも、こんなに集まったし」
わたしは、書き留めた紙をリーヴァの前に広げてみせた。ばらばらだけれど、確かに少しずつ形になり始めている歌の欠片たち。
リーヴァは、しばらくその紙を見つめていたけれど、やがて、小さく息をついた。張り詰めていた肩から、ほんの少しだけ力が抜けたように見えた。
「……アイナは、いつもそう言う」
「そう?」
「一人で背負わなくていい、って」
「だって、本当のことだから」
リーヴァは、少しだけ表情を和らげた。口元がわずかにゆるむ。
「私も、そう思えたら、いいんだけど」
そのとき、店の外で、風が急に強く吹き抜けた。窓の外を見ると、いつもより空気が張り詰めているように感じられた。木々のざわめきが、どこか不穏に耳に届く。
「何か、変な気配」
ニエルが、急に警戒するように立ち上がった。背中のオーロラ模様が、かすかに揺らめいている。丸い目が、いつになく鋭く窓の外を見据えていた。
「町の記録が残っている場所、知らない?」
わたしが尋ねると、ニエルは少し考えるような素振りを見せた。ひげをぴくぴくと動かしながら、記憶をたどっているようだった。
「北灯文庫、というものがある」
「北灯文庫?」
「冬の間だけ開く、小さな資料室だ。今は、閉じられているはずだが」
リーヴァが、少し驚いたように顔を上げた。
「聞いたことある。町の古い記録が、たくさん残ってるって」
「そこに行けば、何かわかるかもしれない」
わたしがそう言うと、ニエルはゆっくりと頷いた。
「うむ。この奥に、北風の鹿の記憶がある」
その声には、これまでにない確信めいた響きがあった。いつもの尊大さの奥に、何か重いものが宿っているように感じられた。
わたしとリーヴァは、顔を見合わせた。集めてきた歌の断片だけでは、まだ足りない。けれど、その先に何かがあるという予感が、二人の胸の内に静かに、けれど確かに芽生えていた。窓の外の張り詰めた気配が、その予感をいっそう強くさせた。
☆
翌朝、わたしたちは、町の外れにあるという北灯文庫を訪ねてみることにした。
文庫の扉は、長く使われていなかったせいか、蔦が絡みつき、木の板が霜で薄く白くなっていた。夏だというのに、その一角だけ、まるで季節が取り残されたかのように冷たい空気が漂っている。
「本当に、ここ?」
ミルヤも一緒についてきて、心配そうに扉を見上げていた。明るいミルヤでさえ、この場所の静けさには少し気圧されているようだった。
「うん、たぶん」
わたしは、扉に手をかけてみたけれど、鍵がかかっているのか、びくともしなかった。冷たい木の感触が、手のひらに伝わってくる。
「開かない」
「鍵、誰か持ってるかな」
リーヴァが、扉の周りを観察するように歩き回りながら言った。彼女の鋭い観察眼が、蔦の絡まった錠前をじっと見つめている。
「エルナさんなら、知ってるかもしれない」
ミルヤが思い出したように言った。
わたしは、ふと、おばあちゃんが以前、この場所について話していたのを思い出した。療養に発つ前、おばあちゃんが何気なく口にした言葉の断片が、記憶の奥から浮かび上がってくる。
「そういえば、おばあちゃんの引き出しに、古い鍵があった気がする」
「探してみよう」
わたしたちは急いで白夜亭へ戻った。
店の奥へ向かいながら、わたしは壁に並ぶ古い道具へ目をやった。
木製のスプーン、色あせたランプの傘、古い糸巻き、羊の角でできたボタン。どれも見た目は地味だけれど、ひとつひとつに、おばあちゃんから聞いた話があった。
あのスプーンは、吹雪の夜に迷った旅人が置いていったもの。あのボタンは、湖で溺れかけた子どもの上着についていたもの。
おばあちゃんは、そうした昔の話をするとき、いつも少しだけ嬉しそうだった。
この店に残されているのは、道具だけではない。町の人たちがここで助けられ、何かを預けていった記憶も、きっと一緒に残っている。
そう考えると、北灯文庫のことをおばあちゃんが知っていたのも、偶然ではないような気がした。
わたしはカウンターの奥へ回り、おばあちゃんが使っていた古い引き出しを開けた。
中には、古い写真や手紙に混じって、錆びついた小さな鍵が入っていた。長い年月を経て、表面がすっかり茶色く変色している。
「これかも」
「行ってみよう」
鍵を手に、わたしたちは再び北灯文庫へと向かった。
夕暮れとも呼べない白夜の淡い光の中、扉の前に立つと、なぜか胸がざわついた。手の中の鍵がいつもより重く感じられる。
この奥に、何が眠っているのか。忘れられた歌の続きは、見つかるのか。冷たい霜に覆われた扉の向こうに広がる、未知の暗がりを思うと、期待と不安が入り混じって、鼓動が速くなった。
ニエルが、扉の前で小さく鼻を鳴らした。
「さあ、行こう。町の記憶が、我々を待っておる」
わたしとリーヴァは、互いに小さく頷き合い、錆びついた鍵を鍵穴に差し込んだ。かちりと金属の触れ合う硬い音が静まりかえった空気の中に響いた。




