第八話 白夜亭の新しい店員
森へ行った数日後、最後の授業を終えて、学校は夏休みに入った。
わたしは朝から、カウンターに並べた三つの籠を前に、ため息をついていた。
ベリージャム、毛糸、ランプ油。どれも今日中に町の人へ届けなければならない。
「配達に行ったら、店を閉めないといけないし……」
カウンターでは、ニエルが空になったジャムの瓶を抱えている。
「ニエル、店番してくれない?」
「断る。我は偉大なる北の使いである」
「ジャムを食べる仕事しかしてないくせに」
言い合っていると、扉の鈴が鳴った。
「おはよう」
入ってきたのはリーヴァだった。
彼女は籠を見て、すぐに事情を察したらしい。
「私が店にいる」
「え?」
「留守番する」
「でも、お客さんと話したり、代金を受け取ったりするんだよ」
「できると思う」
リーヴァは少し間を置いた。
「……やってみたい」
真剣な顔を見ていると、断る理由はなかった。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「うん」
わたしは商品の場所と値段を説明し、カウンターの下から淡い緑色のエプロンを取り出した。
「これ、つける?」
胸元には、白いカップの刺繍が入っている。
リーヴァはエプロンを受け取ったものの、背中の紐をうまく結べずにいた。
「動かないで」
わたしは後ろへ回り、絡まった紐をほどいた。
肩越しにリーヴァの髪が近く見える。指先が少しぎこちなくなったけれど、どうにか結び終えた。
「できたよ」
振り返ったリーヴァを見て、わたしは思わず頬を緩めた。
「似合う。白夜亭の人みたい」
「白夜亭の人」
リーヴァは胸元の刺繍に触れた。
「……嬉しい」
わたしは籠を持ち上げた。
「それじゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
その言葉に、胸の奥が少しだけ懐かしくなった。
以前は、おばあちゃんがいつもそう言って送り出してくれたからだ。
配達を終えて白夜亭へ戻ると、店の中から話し声が聞こえた。
窓越しに覗くと、年配の女性が赤と青の毛糸を持っている。
「孫の帽子なら、どっちがいいと思う?」
リーヴァは少し考えた。
「その子は、外で遊ぶのが好き?」
「雪が降ると、朝から飛び出していくよ」
「なら、赤。火と命の色だから。寒い場所でも、帰る力を忘れない」
「素敵な意味だね。じゃあ、赤にするよ」
リーヴァは代金を受け取ったけれど、お釣りを数えるところで手が止まった。
「銀貨一枚と銅貨三枚だ」
ニエルが横から口を出す。
「分かってる」
「先ほども同じところで間違えたぞ」
「毛玉は黙ってて」
リーヴァがいつになく早口で言った。
二人のやり取りに、女性は楽しそうに笑った。
「エルナさんがいなくても、この店は賑やかだねえ」
お客さんが帰ったあと、わたしは店へ入った。
「おかえり」
「ただいま」
自然にそう答えてから、胸の奥が柔らかくなるのを感じた。
「どうだった?」
「難しかった。お釣りを間違えた」
「でも、お客さんは喜んでたよ」
「私の言葉、短かったと思う」
「短くても、ちゃんと伝わってた」
リーヴァは少し黙ったあと、小さく頷いた。
そのとき、白夜祭の夜に店で眠った子どもたちが入ってきた。
「雪原のお姉ちゃん、お店の人になったの?」
リーヴァは答えに迷い、わたしを見る。
「今日はね」
「じゃあ、甘いジャムください!」
リーヴァは迷わず赤い蓋の瓶を取った。
「これが甘い方」
「知ってるの?」
「覚えた」
少し誇らしげな声だった。
子どもたちが帰ると、リーヴァは端切れを入れた箱から、青と黄色と赤の糸を取り出した。
「使ってもいい?」
「何を作るの?」
「待ってて」
リーヴァは慣れた手つきで糸を編み、小さな飾り紐を作った。
「青は道。黄色は帰りを待つ色。赤は帰る力」
それを店の入口の鈴へ結ぶ。
扉を少し動かすと、鈴の音と一緒に色糸が揺れた。
「店に来る人が、帰る場所を忘れないように」
「白夜亭へ?」
「それも」
リーヴァは短く答えた。
「アイナも、ちゃんと帰ってくるように」
「今日、帰ってきたよ」
「うん」
「リーヴァが待っててくれたから」
リーヴァの頬が、ほんの少し赤くなった。
片づけが終わり、リーヴァがエプロンを外そうとしたところで、わたしは言った。
「それ、持って帰っていいよ」
「エプロンを?」
「また手伝ってくれるときに使えるから」
「また、あるの?」
「わたしは、あってほしいけど」
言った途端、急に恥ずかしくなった。
けれどリーヴァは、すぐに頷いた。
「また手伝う」
リーヴァはエプロンを胸に抱き、少しだけ笑った。
その姿を見ていると、白夜亭の中にリーヴァのための場所が一つできたように思えた。
カップや椅子と同じように、これから少しずつ、リーヴァのものが店に増えていけばいい。なぜか、そんなことを考えていた。
「ここに、また立ちたい」
「じゃあ、それはリーヴァのエプロンね」
「私の?」
「白夜亭の店員用」
古く、少し色あせたエプロンだった。
それでもリーヴァは、大切なものを受け取ったような顔をしていた。
「ありがとう」
カウンターの上で、ニエルが尻尾を振った。
「店員が二人なら、我のジャムも二倍になるな」
「働かざる者、食うべからず」
リーヴァが真顔で返す。
「たった一日で店主見習いに毒されおったな」
「店員だから」
リーヴァはエプロンを抱えたまま、また小さく笑った。
白夜亭に、新しいものが増えた。
扉の鈴につけられた飾り紐。リーヴァのためのエプロン。
そして、誰かがわたしの帰りを待っている時間。
どれも、ずっと前からここにあったように、店の中へ馴染んでいた。
店に並ぶ道具には、おばあちゃんが半世紀近くかけて集めた話がある。
以前のわたしは、自分にはまだ、そんなふうに語れる話がひとつもないと思っていた。
けれど今は、ほどけた飾り紐や、眠れなかった子どもたち、色を取り戻した毛糸のことがある。
それらもいつか、この店に残る話の一つになるのだろうか。




