第七話 ベリー畑の小さな妖精
夏の盛りが近づくと、白夜亭の裏庭にも、ベリーの甘い匂いが漂うようになった。
窓を開けるたびに、その甘酸っぱい香りが風に乗って店の中まで流れ込んでくる。丘の斜面に生い茂った草木も、夏の日差しをたっぷり浴びて、濃い緑を深めていた。
夏休みまで、あと一週間ほどになった日のことだった。
「今年もそろそろ、ベリー摘みの季節だね」
わたしがそう呟くと、カウンターの上で丸くなっていたニエルが、ぴくりと耳を動かした。眠っていたはずの目が、食べ物の気配を感じ取ったように、すっと開く。
「ベリーか。ジャムにするなら、我にも味見の権利がある」
「働いてから言ってよね」
☆
その日の放課後、学校から白夜亭へ戻る途中、わたしの隣を歩くリーヴァは、教科書を抱えたまま、いつもより少し疲れた顔をしていた。
「今日の歴史の授業、難しかった?」
「先生の話す言葉が速かった」
「あとで、ノート見せようか」
「助かる」
そんな話をしていると、後ろからミルヤが駆けてきた。
「二人とも、聞いて。今年、森のベリーが今ひとつだって、みんな困ってるの」
ミルヤの言葉に、わたしは首を傾げた。
「今ひとつって?」
「摘んでも摘んでも、籠の中身がすぐに減っちゃうんだって。まるで、実がこぼれ落ちてるみたいに」
リーヴァは腕を組みながら言った。その目には、これまでの異変を思い返しているような、慎重な色が浮かんでいた。
「森に、何かいるのかもしれない」
「森に……?」
その言葉を聞いて、わたしはなんとなく、これまでの異変と同じ空気を感じた。胸の奥に、かすかな緊張が走る。
☆
次の休日、わたしたちは籠を抱えて、町外れの森へ向かった。
ミルヤもニエルも一緒だ。木漏れ日の差し込む森は夏の匂いに満ちていて、赤や紫のベリーがたわわに実っていた。木々の間を抜ける風が、涼やかに頬を撫でていく。
「わあ、今年もいっぱい生ってる」
ミルヤが嬉しそうに手を伸ばしたその瞬間、籠に入れたはずのベリーが、ふっと霧のように消えてしまった。
「え!? 今の何!?」
ミルヤが驚いて籠を覗き込む。中身は、確かに空になっていた。ついさっきまで実が転がっていたはずなのに、籠の底には甘い匂いだけがうっすらと残っている。
そのとき、葉擦れの音が不意に止んだ。
風は吹いているのに、ベリーの葉だけが動かない。木漏れ日の中で、小さな光の粒が一つ、二つと浮かび上がり、熟した実の周りを円を描くように飛び始めた。甘い香りに混じって、雨上がりの土に似た匂いがした。
「見て、あそこ」
リーヴァが、木の根元を指さした。小さな緑の葉をまとった、指先ほどの大きさの生き物たちが、こちらをじっと見つめている。丸い目に、羽根のような透き通った翅。ベリー妖精だ。木漏れ日がその透明な翅を通り抜けて、地面に小さな光の模様を作っていた。
「あなたたちが、実を持っていってたの?」
わたしが尋ねると、妖精たちは怒ったように翅を震わせた。小さな声が、風のようにさざめく。その声には、確かな怒りと、それ以上に、悲しみのようなものが滲んでいるように感じられた。
「怒ってる、みたい」
わたしが呟くと、ニエルが翻訳するように鼻をひくつかせた。
「ふむ……。人間が、実を摘みすぎている、と言っておるな」
「摘みすぎ?」
ミルヤが困惑した顔で言うと、妖精たちの一匹が、地面の上をふわりと飛んで、籠の中の実を指さすような仕草をした。小さな体が、必死に何かを訴えているように見えた。
「昔は、ベリー摘みのあと、森へお礼の歌を残していた、と」
リーヴァが、記憶をたどるようにつぶやいた。
「そういえば、祖母から聞いたことある。ベリーを摘んだら、最後に短い歌を歌う、って」
「歌?」
「うん。でも……」
リーヴァは、少し言葉を濁した。視線が、木々の隙間から差し込む光の先へと、ぼんやりと逸れていく。
「その歌も、途中までしか覚えてない」
妖精たちは、リーヴァの言葉に反応するように、一斉に翅を鳴らした。まるで、その通りだ、と言っているかのように。その一斉の反応に、わたしは思わず息を呑んだ。
「町の人たちが、急いでたくさん摘みすぎて、お礼を忘れてしまったから、怒ってるんだね」
わたしがそう言うと、妖精の一匹が、こくりと頷くような仕草をした。
わたしは、しゃがみこんで妖精たちと目の高さを合わせた。土の匂いと、ベリーの甘い香りが、鼻先に近く漂う。
「ごめんね。知らなかったとはいえ、勝手なことをして」
ただ謝るだけでは、根本的な解決にはならない気がした。わたしは、しばらく考えてから、口を開いた。
「ねえ、これから、森へのお礼の日を作らない? 摘みすぎないこと、最初の実は森に残すこと、それから、みんなで作ったジャムを一瓶、広場で分け合うこと」
ミルヤが目を輝かせた。
「それ、いいね! 町のみんなにも伝えよう」
リーヴァは、少し驚いたようにわたしを見つめていた。緑色の瞳に、意外そうな色が浮かんでいる。
「アイナ、そういうこと、すぐ思いつくんだね」
「わたしにできることって、そういうことくらいだから」
照れくさくてそう答えると、リーヴァは首を振った。
「それが、大事なんだと思う」
その言葉の静かな響きに、わたしは少し胸が熱くなった。
妖精たちは、しばらく相談するように輪になって漂っていたけれど、やがて、翅を穏やかに揺らしながら、わたしたちの周りを一周した。まるで、その提案を受け入れてくれたかのような、優しい空気だった。木漏れ日の中を舞う小さな光の粒のような姿が、なんとも幻想的だった。
「ありがとう。それじゃ、今日はちゃんと、最初の実は残していくね」
わたしがそう言うと、妖精の一匹が、籠の中に小さなベリーをひとつ、そっと落としてくれた。まるでお礼のように。
その日、わたしたちは慎重にベリーを摘んだ。籠がいっぱいになるたびに、最初に摘んだ実をいくつか、木の根元に戻す。ミルヤは、そんな作業を面白がりながら、鼻歌を歌っていた。夏の日差しの中、その明るい声が森の静けさにほのかな彩りを添えていた。
「本当は、ここで歌を歌うはずなんだけどな」
リーヴァがぽつりと呟いた。木漏れ日が、彼女の横顔をまだらに照らしている。
「昔はどんな歌だったの?」
「森に感謝する歌。でも……」
リーヴァは、少し目を伏せた。
「途中までしか思い出せない。最後の一節が、いつも抜け落ちる」
その様子は、白夜祭の夜、子どもたちを寝かしつけたときの子守歌のことを思い出させた。あの時も、リーヴァは最後の一節だけ思い出せなかった。同じ場所に、同じように、暗い穴が空いているような、そんな感覚だった。
「もしかして、同じ歌なのかな」
「わからない。でも、似てる気がする」
その日の夕方、白夜亭に戻ると、わたしたちは摘んできたベリーで、大鍋いっぱいのジャムを作った。甘酸っぱい湯気が店中に立ち込め、瓶に詰めていく作業は、いつになく楽しかった。木べらでかき混ぜるたびに、鍋の中で赤紫色の果肉が、とろりと艶を帯びていく。
「これ、広場で配る分ね」
ミルヤが、瓶にリボンを結びながら言った。
「私も、何か手伝う」
リーヴァが空いている瓶を手に取った。
そこへオスカリも顔を出し、瓶を並べるための小さな棚をその場で作ってくれた。木を組む音が、店の隅で軽やかに響いていた。
「森へのお礼の日、次の集まりで町のみんなに提案してみるよ」
厚手の赤い外套を着たヘンリカ町長は、短い灰褐色の髪を風に揺らしながら、いつもより真剣な表情でわたしたちの話を聞いて快く賛成してくれた。
「いい取り組みだね。摘みすぎを防ぐのは、これからの町のためにもなる」
その言葉に、わたしは、これまでの小さな行動が、少しずつ町全体の暮らしへとつながっていくのを、あらためて実感した。
瓶詰めしたベリージャムを棚に並べていると、その中の一本だけ、ふとオーロラのような淡い光が瓶の中に宿っているのに気づいた。
「あ……見て、これ」
わたしが声を上げると、リーヴァもニエルも、驚いた様子でその瓶を見つめた。淡い緑がかった光が、ジャムの中でゆらゆらと揺れている。瓶を持つ手のひらに、かすかな温もりが伝わってくるようだった。
「森が、応えてくれた、のかな」
「たぶん」
リーヴァが小さく頷いた。
ニエルもその光を見て、少しほっとしたような顔をしていた。けれど、すぐにその表情は曇った。丸い目が、急に真剣な色を帯びる。
「安心はできぬ。ひとつ取り戻しても、まだ足りぬ」
「え……」
「歌が、欠けている」
ニエルの声には、これまでにない重さがあった。その一言が、店の中の空気を、静かに引き締めた。
わたしとリーヴァは、顔を見合わせた。ベリー畑での出来事は、ひとつの小さな解決だったはずなのに、その奥に、まだ埋まっていない大きな空白があるのだと、あらためて突きつけられた気がした。
「歌……。集めれば、思い出せるかな」
リーヴァが、自分の手のひらを見つめながら呟いた。
「私だけじゃなくて。町の人たちも、それぞれ、少しずつ覚えてるのかもしれない」
「うん。だったら、探してみようよ」
わたしがそう言うと、リーヴァはゆっくりと頷いた。その表情には、これからの困難を予感しながらも、確かな決意が浮かんでいた。
棚に並んだベリージャムの瓶が、白夜の淡い光の下でほんのりと輝いている。その中に混じった、あの緑がかった光がまるで何かを促すように、静かに瞬いていた。
森のベリー畑で交わした小さな約束と、まだ見つからない歌の欠片。
窓の外に広がる白夜の空を見上げながら、わたしはただ、次に何をすべきか考え始めていた。




