第六話 湖畔のサウナ小屋に出る青い影
その噂は、朝いちばんに白夜亭へ届いた。
毛糸を買いに来た年配の女性が、声をひそめて言った。
「湖畔の古いサウナ小屋、知ってるだろう? あそこに、青い影が出るらしいんだよ」
「青い影……ですか?」
「ああ。夜中に近くを通った子が見たって言うんだ。窓の向こうで、青白いものがゆらゆら動いてたって」
その話は、あっという間に町中に広まった。子どもたちは怖がって近づかなくなり、大人たちも「今は行かないほうがいい」と言い合っている。
昼過ぎに店番をしていると、また別のお客さんが同じ話を持ってきた。
「うちの子も、あの小屋の前を通るのを嫌がってねえ。前は薪拾いの通り道にしてたのに」
「湖の水汲みも、あっちを避けて回り道してる人が増えてるよ」
噂は少しずつ形を変えながら広がっていくらしく、聞くたびに影の大きさや不気味さが増しているようだった。誰も実際に近くまで行って確かめたわけではないのに、恐怖だけが独り歩きしているように見えた。
カウンターの奥で聞いていたニエルが鼻をひくつかせた。
「む。それは、放っておいてよいものではないな」
「行ってみる?」
わたしがそう言うと、ちょうど店に来ていたリーヴァが頷いた。
「気になる」
こうして、わたしたちは湖畔のサウナ小屋へ向かうことになった。
湖までの道は、白夜亭からそう遠くない。けれど、道すがら町の人たちにすれ違うたび、「そっちには行かないほうがいいよ」「気をつけてね」と、心配そうに声をかけられた。噂が広まっている分、みんなの不安も本物なのだと分かる。
「アイナ、怖い?」
リーヴァに聞かれて、わたしは少し考えた。
「怖くない、と言ったら嘘になるかも。でも、放っておくほうが、もっと怖い気がする」
わたしがそう答えると、リーヴァは小さく頷いた。
「同じ」
湖へ向かう小道には、夏の野草が茂り、遠くでカモメに似た水鳥の声が響いていた。普段なら気持ちのいい散歩道のはずなのに、噂のせいか、いつもより静かに感じられた。
「リーヴァは、こういう話、信じるほう?」
「分からない。でも、確かめないで怖がるのは、好きじゃない」
その答えは、いかにもリーヴァらしいと思った。分からないことを分からないままにせず、自分の足で確かめに行く。そういうところに、わたしはいつも少しだけ憧れていた。
湖畔の道を曲がると、白樺の木立の向こうに小さなサウナ小屋が見えた。丸太の壁は雨と風で灰色に褪せ、屋根には苔が厚く積もっている。細い煙突は少し傾き、湖に面した窓だけが、青白い光をぼんやりと映していた。
昔は人の声や薪の爆ぜる音で賑わっていたのだろう。けれど今は、波が岸辺の石を洗う音だけが聞こえていた。
扉は半分朽ちかけていたけれど、かろうじて開けることができた。
中は薄暗く、埃っぽい匂いが鼻をついた。差し込む光の筋の中に、埃がゆっくりと舞っている。かつては人の声で賑わっていただろう場所が、今はしんと静まり返っていることが、なんだか胸に迫るものがあった。
古いランプと、壊れた木桶がひとつ、隅に転がっていた。壁には、色褪せたタオル掛けと、ひび割れたベンチが残っている。
「ここ、おばあちゃんが若い頃によく使ってたって聞いたことがある」
わたしがそう呟くと、ニエルが鼻を鳴らした。
「先代の冬守りは、ここで湯気を浴びながら、町の悩みを聞いていたそうだ」
「知ってるの?」
「我は、古いことをいろいろ知っておる。……ただし、忘れっぽいがな」
偉そうな口調とは裏腹に、どこか懐かしそうな声だった。
リーヴァは壁際にしゃがみ込み、埃をかぶった木の道具をひとつひとつ眺めていた。
「昔の道具、大事にされてたのが分かる」
「うん。壊れてても、ちゃんと残されてる」
わたしたちはしばらく、無言でその静けさに耳を澄ませていた。
しばらく小屋の中を見回していると、隅の暗がりに、たしかに青白いものがふわりと揺れるのが見えた。
「……!」
わたしは思わず息をのんだ。リーヴァも身構える。
けれど、よく目を凝らすと、それは恐ろしい何かではなく、小さな、湯気のかたまりのようなものだった。ゆらゆらと形を変えながら、こちらの様子をうかがっている。
「これが、青い影……?」
わたしがそう呟くと、湯気は驚いたように奥へ引っ込んでしまった。
ニエルが慎重に前へ進み出た。
「む。これは、悪霊などではない。湯気の精だ。長く使われなくなった湯屋に、寂しさから宿ることがある」
「寂しさ……」
「うむ。人が来なくなり、火も灯らなくなれば、精は行き場を失う。驚かせるつもりはなくとも、驚かせてしまうことがあるのだ」
その説明を聞いて、わたしは少しだけ胸が痛くなった。誰かを怖がらせたかったわけではなく、ただ、忘れられてしまったことが寂しかっただけなのかもしれない。
リーヴァは、暗がりの奥にそっと目を向けた。
「ごめんね。誰も、来なくて」
その声は、いつもよりずっとやわらかかった。湯気は答えるように、ほんの少しだけ、揺れ方を変えた気がした。
「怖がらせるつもりで出てきてたわけじゃ、ないんだよね」
わたしがそう言うと、湯気はまた、ゆらりと形を変えた。まるで頷いているようにも見えた。
「桶、直せば、また使えるようになるかな」
返事の代わりに、リーヴァはすでに壊れた木桶を手に取り、傷んだ部分を確かめていた。
「私が湖から水を運ぶ。アイナは桶を」
「うん」
わたしは白夜亭から持ってきた道具で、木桶の割れ目に小さな呪文をかけながら補修していく。
「……水を、こぼしませんように」
板の隙間に小さな呪文を染み込ませると、木がわずかに引き締まるような感触があった。派手な直し方ではないけれど、こういう地道な作業には、自分の魔法が合っている気がした。
リーヴァは湖まで何度も往復し、大きな桶に水を運んでくる。冷たい水を運ぶたびに、頬がほんのり赤くなっていた。
「重くない?」
「平気。これくらい、慣れてる」
そう言いながらも、リーヴァは一度、水をこぼしそうになって、慌てて体勢を立て直した。わたしは思わず笑ってしまい、リーヴァは少し拗ねたような顔をした。
「笑わないで」
「ご、ごめん。でも、リーヴァでもそういうことあるんだね」
「……たまに」
その素直な返事に、わたしはまた小さく笑ってしまった。
しばらくすると、外からオスカリの声が聞こえた。
「聞いたよ、青い影の噂。手伝おうと思って来た」
彼は壊れかけたベンチを見るなり、道具箱を取り出して直し始めた。
「オスカリ、来てくれたんだ」
「そりゃ、噂だけ聞いて放っておくのも気持ち悪いしね。それに、木材が傷んでるのを見ると、直したくなるのが職人ってやつなんだ」
軽い調子でそう言いながらも、オスカリの手つきは丁寧だった。釘を打つ音が、静かな小屋の中に規則正しく響く。ニエルはその音を聞きながら、少し落ち着かない様子で耳を伏せた。
「木くずの少年は、相変わらず騒々しいな」
「静かに直せって言うほうが無理だよ」
オスカリが笑いながら言い返すと、ニエルはふん、と鼻を鳴らして、わたしのフードの奥へ引っ込んでしまった。
やがて、ミルヤも町の子どもたちを連れてやってきた。明るい栗色の髪を高い位置で結び、黄色いマフラーを風になびかせながら、先頭を歩いてくる。
「掃除、手伝うよ! みんなも来て」
子どもたちは最初こそ怖がっていたけれど、ミルヤに促されて、少しずつ小屋の中を掃き始めた。埃を払い、古い道具を並べ直し、割れた窓に板を当てる。
「わあ、掃除するとけっこう広いね、ここ」
「昔は、みんなでよく来てたんだって」
子どもたちの声が響くうちに、小屋の空気が、少しずつ和らいでいくのが分かった。
日が傾く頃、桶の修理もベンチの補修も終わり、リーヴァが運んできた水を、わたしは古いストーブで温めた。湯気が立ちのぼる。
「灯りも、つけてみようか」
ニエルの尻尾がひとふり、ランプに触れると、ほんの一瞬だけ、灯りが明るく灯った。
湯気がゆっくりと部屋に満ちていく。さっきまで青白く見えていたその気配は、いまはやわらかな、白い湯気になっていた。
「……ありがとう、って言ってる気がする」
わたしがそう呟くと、リーヴァもゆっくりと頷いた。
湯気の向こうに、一瞬だけ、大きな鹿の角のような影が映った気がした。
「今の……」
「見えた」
リーヴァも同じものを見たらしい。二人で顔を見合わせたけれど、影はもうどこにも見当たらなかった。
小屋を出ると、オスカリとミルヤが、子どもたちと一緒に満足げな顔をしていた。
「これで、また使えるね」
「うん。ありがとう、二人とも」
わたしがお礼を言うと、オスカリは軽く肩をすくめた。
「僕にできることなんて、これくらいだしね」
「これくらいが、大事なんだよ」
わたしがそう返すと、オスカリは少し照れたように笑った。
ミルヤは子どもたちの頭を撫でながら、満足げに言った。
「今日、みんなで直したこと、忘れないでね。今度からは、みんなでここの手入れをしよう」
「うん!」
子どもたちの元気な返事に、さっきまでの怖がっていた様子は、もうどこにも見当たらなかった。
白夜亭へ戻る道すがら、ニエルがぽつりと呟いた。
「北風の鹿は、まだ完全には眠っていない。だが、呼びかける声が足りぬ」
その言葉の重さに、わたしとリーヴァは、しばらく黙って歩いた。
「呼びかける声って、どういうことなんだろう」
わたしがそう尋ねると、ニエルは珍しく言葉を選ぶように黙り込んだ。
「……我にも、まだ全ては分からぬ。だが、今日のような小さな灯りの積み重ねが、いずれ大きな呼びかけになるのだと思う」
その答えは、いつものニエルの尊大さとは違う、どこか真剣な響きを持っていた。
湖の向こうに、白夜の淡い光が反射している。今日、小さな灯りをひとつ取り戻せたことは、きっと無駄ではないはずだと、わたしは思った。
隣を歩くリーヴァも、同じ湖面を見つめながら、小さく口を開いた。
「今日みたいな日が、少しずつ増えるといい」
「うん。わたしも、そう思う」
湖から冷たい風が吹き、わたしは思わず肩をすくめた。
するとリーヴァが、何も言わずにわたしのほうへ半歩寄った。風を遮るような位置だった。
「寒い?」
「少しだけ」
「なら、こっちを歩いて」
短い言葉だったけれど、自分だけに向けられた気遣いが、サウナ小屋の熱よりも長く胸に残った。
二人の足音が、静かな湖畔にゆっくりと重なって響いていった。




