第五話 迷子のトナカイと、雪原の道しるべ
ある日の朝、白夜亭の扉を叩く音がした。
まだ開店前だったけれど、わたしは慌ててエプロンの紐を結び直しながら扉を開けた。立っていたのは、放牧地に暮らす家族だった。父親のほうは息を切らし、母親は青ざめた顔で、幼い息子の手をしっかりと握っている。朝の冷たい空気の中、三人の吐く息だけが、やけに白く目立っていた。
「子どものトナカイが一頭、いなくなったんだ。夜のうちに柵を抜けたらしくて……。リーヴァはいるかい」
その言葉に、わたしは奥にいたリーヴァを呼んだ。事情を聞いたリーヴァの表情が、ほんの少し曇る。まるで、これまで何度も繰り返されてきたやり取りを、今、また辿っているかのような表情だった。
「私が探す」
短くそう言ったけれど、口調にはどこか硬さがあった。町の人たちは、当然のように頷いて安心した顔をする。
「よかった、リーヴァならすぐ見つけてくれるさ」
「さすが雪原育ちだね」
口々にそう言われるたびに、リーヴァの肩が、ほんのわずかに強張るのが分かった。誰もが疑いなく向ける期待の眼差しが、まるで見えない重みとなって、彼女の背に積もっていくようだった。
家族が去ったあと、店の中で二人きりになると、リーヴァは小さく息を吐いた。肩の力が、ようやく抜けたように見えた。
「町では、リーヴァなら当然できるって思われてる」
わたしがそう言うと、リーヴァは目を伏せた。
「うん。……でも、それは、期待っていうより、押しつけられているみたいで」
小さな声だった。
誰もが当たり前のようにリーヴァを頼りにする。それは信頼のようでいて、リーヴァ自身の「したいこと」を置き去りにしているようにも見えた。
わたしには、その重さのすべては分からない。それでも、隣にいたいと思った。
外へ出るために手袋を探していると、棚の隅に、片方だけ残されたものが目に入った。去年、途中まで編んで、そのまま放り出してしまった手袋だ。
もう片方をどこへ置いたのか、自分でも覚えていない。
おばあちゃんは「そのうち見つかるよ」と笑っていたけれど、片方だけでは、手袋は役目を果たせない。
そのときは、そう思っていた。
白夜亭から外へ出ようとしたところで、ちょうど店を覗きに来たミルヤが、事情を聞いて眉を寄せた。
「トナカイが迷子? それ、リーヴァに任せきりで大丈夫なの?」
「わたしも一緒に行くよ」
「アイナが? ……まあ、それなら少し安心かな。リーヴァ、ひとりで背負い込むところあるから」
ミルヤの言葉に、リーヴァは少しばつが悪そうな顔をした。
「そんなこと、ない」
リーヴァが否定すると、ミルヤはすぐに首を振った。
「あるある。前にもそうだったじゃない」
軽口を叩くミルヤに、リーヴァはそれ以上言い返さず、代わりに支度の手を早めた。わたしはその様子を見ながら、リーヴァの周りにも、心配してくれる人がちゃんといるのだと、少しほっとした。
「気をつけてね、二人とも」
ミルヤに見送られて、わたしたちは雪原へ向かった。町を抜けるにつれ、家並みの色が薄れ、代わりに広々とした緑と灰色の景色が広がっていく。
「一緒に探そう」
「アイナが? 雪原は、慣れてないと危ない」
「うん。でも、ひとりで背負わせたくないの」
わたしがそう言うと、リーヴァは少し驚いたように、それから小さく頷いた。緑色の瞳が一瞬、やわらかく揺れた気がした。
「……足を引っ張らないように」
「気をつける」
町を離れるにつれ、道は石畳から湿った土へ変わった。夏草の間には白い綿毛をつけた花が揺れ、低い針葉樹が風に押されるように斜めへ伸びている。遠くにはトナカイの群れが、小さな茶色の点になって動いていた。
空は町と同じ明るさなのに、吹き渡る風だけは、薄い氷を含んでいるように冷たかった。
わたしは何度も足を取られそうになりながら、リーヴァのあとを歩いた。持ってきた手袋には、迷子にならないおまじないを縫い込んである。
「アイナ、そっち。足跡がある」
リーヴァは足跡と、苔の倒れる向きと、風の匂いからトナカイの進んだ方角を読んでいく。わたしにはただの雪原にしか見えない景色から、リーヴァは迷いなく道を選んでいった。その所作の一つひとつに、これまで積み重ねてきた経験の重みが、確かに宿っているように見えた。
「すごいね、リーヴァは」
「……これくらい、当然」
素っ気ない返事だったけれど、耳のあたりが少し赤くなっている気がした。
ニエルは寒がって、わたしのフードの中に潜り込んだまま、偉そうに指示を出す。フードの中から、もぞもぞと動く小さな気配が伝わってくる。
「そちらの丘を右へ回れ。……いや、待て。左だったか」
「どっちなのよ」
「……両方確かめれば早い」
「それ、指示になってないよ」
適当な物言いに、わたしは思わずため息をついた。フードの中で、ニエルがもぞもぞと丸くなり直す気配がした。
「む。我は寒さに弱いだけで、方向感覚には自信がある」
「さっき間違えたばかりじゃない」
「……あれは、試練を与えていたのだ」
あきれたわたしの横で、リーヴァがめずらしく口の端をゆるめた。その小さな変化に、わたしは思わず嬉しくなった。
わたしは、おばあちゃんから聞いた「帰り道を忘れないランプ」の魔法を使ってみることにした。腰に下げた小さなランプに火を灯し、来た道の方角を覚えさせる呪文を唱える。冷たい風の中、指先に集めた小さな熱が、なんだか心強く感じられた。
「……帰り道、忘れませんように」
ランプの灯りが、かすかに橙色を濃くした。派手な魔法ではないけれど、迷わないための小さな支えにはなるはずだった。リーヴァはその灯りをちらりと見て、小さく頷いた。
「アイナの魔法、こういうときに役立つ」
「そう、かな」
「うん。私は方角は分かるけど、灯りは持ってない」
その言葉に、わたしは少しだけ誇らしい気持ちになった。自分の小さな魔法が、こんな場所でも役に立つのだと知って、胸の奥がじんわりと温かくなった。
歩くうちに、リーヴァがぽつりと言った。
「町では、みんな私を『雪原の子』として見る。トナカイに詳しい子、歌に詳しい子」
「うん」
「それが嫌なわけじゃない。でも、ときどき、それだけじゃないのにって思う」
リーヴァはそれ以上、何も言わなかった。
風が丘を渡り、低い草を同じ方向へ揺らしていく。
わたしにはまだ、その言葉の奥にある気持ちを、すべては分からなかった。
しばらく歩くと、小さな沢に行く手を阻まれた。夏の雪解け水が流れ込んでいるのか、思ったより水量があり、飛び石も苔で滑りやすくなっている。水音が思いのほか大きく耳に響いた。
「ここ、渡れる?」
「渡れる。でも、慎重に」
リーヴァは先に石を選んで渡っていく。慣れた足取りだったけれど、途中で一度、石がぐらついた。
「わっ」
わたしは思わず声を上げたけれど、リーヴァは体勢を崩しながらも、うまくバランスを取り戻した。
「大丈夫」
「び、びっくりした……」
ほっとしたのも束の間、今度はわたしの番だった。石から石へ、慎重に足を運ぶ。手袋に縫い込んだおまじないのおかげか、足元がわずかに軽く感じられた気がしたけれど、最後の一歩でバランスを崩しかけた。
「アイナ」
リーヴァがとっさに手を伸ばし、わたしの腕をつかんでくれた。おかげで転ばずに済んだけれど、心臓はしばらくどきどきしていた。触れた手の力強さが、いつまでも腕に残っているような気がした。
「ありがとう……」
「……無理しなくていい。私の後ろを歩けば」
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、リーヴァはそのあとも、わたしの歩幅に合わせて少しだけゆっくり進んでくれるようになった。
沢を越えると、風向きが変わった。ニエルがフードの中で身じろぎする。
「む。空気が変わったぞ。この先、風が渦を巻いている」
「渦?」
「トナカイが迷いやすい場所だ。臭いも音も、あちこちから来るように感じてしまう」
リーヴァは眉を寄せて、あたりの地形を見回した。目を凝らし、地面のわずかな乱れも見逃すまいとしている様子だった。
「ここで足跡が乱れてる。……いくつか方向がある」
わたしたちはしばらく、どちらへ進むべきか迷った。
足跡は、苔の剥がれた岩場を境に、三つの方向へ分かれていた。右は低木の茂る斜面、左は浅い霧の漂う窪地、正面には灰色の岩山が続いている。
風が窪地を回り込み、草を四方から揺らしていた。これでは、匂いも足音も一つの方向から来ているようには感じられない。
リーヴァは黙って地面を見つめ、風の匂いを何度も確かめている。
雪原を進むうちに、風が少しずつ強くなってきた。
草原を渡る冷たい風に押されながら、わたしはリーヴァのあとを追った。けれど、慣れない地面に足を取られ、前へ転びかける。
「アイナ」
リーヴァが腕をつかみ、支えてくれた。
「大丈夫?」
「う、うん」
どうにか踏みとどまったものの、とっさについた右手が浅い水たまりに入っていた。手袋は手のひらまで濡れ、風に当たると指先から急速に冷えていく。
「そのままじゃ駄目」
「片方くらいなら平気だよ」
「魔法が使えなくなる」
リーヴァはきっぱり言うと、近くにあった古い放牧小屋を指した。
「少し休もう」
小屋の中には、乾いた薪と小さな炉が残っていた。リーヴァが火を起こし、わたしは持ってきた水に干しベリーと蜂蜜を入れる。
「……温かく、なりますように」
器の底に淡い光が宿り、やがて甘酸っぱい湯気が立ち始めた。
二つのカップに分けると、リーヴァは一口飲んで目を細めた。
「温かい」
「よかった」
外では風が壁を叩いていたけれど、小屋の中には火の音と、二人分の湯気がある。
リーヴァは荷物から、木の実と干しベリーを挟んだ薄いパンを取り出した。
「雪原の保存食。食べる?」
「リーヴァが作ったの?」
「祖母と一緒に」
一口かじると、素朴な甘さが広がった。
「町にいると、たまに食べたくなる」
「雪原へ帰りたくなる?」
リーヴァは少し考えてから答えた。
「帰りたいときもある。でも、町へ戻りたいと思うときもある」
「町に?」
「白夜亭があるから」
何でもないことのように言われたのに、胸の中へ小さな火が灯ったようだった。
「わたしも、リーヴァが来るようになってから、白夜亭が前よりあたたかくなった気がする」
「アイナの魔法?」
「そうじゃなくて……リーヴァがいるから」
言ってから恥ずかしくなり、わたしはカップへ視線を落とした。
しばらくして、リーヴァが言った。
「手、見せて」
濡れた手袋を外した右手を差し出すと、リーヴァが指先に触れた。
「まだ冷たい」
「もう平気だよ」
「平気じゃない」
リーヴァは自分の右手から、青い手袋を外した。赤と黄色の糸で、雪原の道しるべの模様が刺繍されている。
「これを使って」
「でも、リーヴァが寒くなるよ」
「私は左がある」
「わたしも左は乾いてるよ」
どちらも譲らないまま、わたしたちはしばらく見つめ合った。
そこで、わたしは自分の左手から、黄色い手袋を外した。おばあちゃんが編んでくれたもので、迷子にならないためのおまじないが縫い込まれている。
「じゃあ、交換しよう」
「交換?」
「リーヴァの手袋をわたしが借りて、わたしのをリーヴァに貸すの。それなら二人とも両手が温かい」
リーヴァは二つの手袋を見比べた。
「わたしのには、迷子にならないおまじないが入ってる。リーヴァの刺繍は、帰る方向を忘れないための印なんでしょう?」
「うん」
「片方ずつなら、二人とも迷わない」
リーヴァはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく頷いた。
「交換しよう」
リーヴァはわたしの黄色い手袋を右手にはめた。
わたしも、青い手袋へ右手を入れる。内側には、まだリーヴァの温かさが残っていた。
左右で色の違う手袋を並べてみる。
「変じゃない?」
「似合う」
リーヴァも自分の手を見つめた。
「アイナの魔法を持ってるみたい」
「わたしも、リーヴァの道しるべを持ってる」
「それなら、離れても分かる」
「何が?」
「アイナが、どっちにいるか」
リーヴァはそう言って立ち上がった。
それは道に迷わないための言葉のはずなのに、わたしには別の意味まで含まれているように聞こえた。離れていても、リーヴァがわたしを見つけてくれる。そう思うと、借りた手袋の中で、指先がまた少し熱くなった。
炉の火を消して外へ出ると、風は少し弱まっていた。雪原には、新しい蹄の跡が続いている。
「行ける?」
わたしは、借りた青い手袋の手を握った。
指先はもう冷たくない。
「うん。一緒なら迷わないよ」
リーヴァはわずかに目を細めた。
「一緒に行こう」
わたしたちは、片方ずつ違う手袋をはめたまま、蹄の跡を追って歩き出した。
「リーヴァ、ランプの灯り、動かしてみてもいい? 迷ってるものは、灯りに引き寄せられるかもしれない」
「……試してみて」
わたしはランプを高く掲げ、ゆっくりと弧を描くように動かしながら、小さく呪文を唱えた。冷たい風の中、指先の熱だけが、確かな存在感を持って灯っていた。
「……帰りたい場所に、届きますように」
灯りが橙色に揺れると、遠くから、かすかな鳴き声が返ってきた。
「こっち」
リーヴァの声が引き締まる。わたしたちはその方向へ、足を速めた。
岩の向こうから、もう一度、か細い鳴き声がした。
わたしたちは風に逆らって斜面を回り込んだ。灰色の岩肌のくぼみに、濡れた夏草が押し倒されている。その奥で、小さなトナカイが体を丸めていた。茶色い毛には泥がこびりつき、片方の前脚を地面につけずに震えている。
「いた」
リーヴァが駆け寄り、優しく声をかける。トナカイは足を痛めているのか、怯えた様子だったけれど、リーヴァの手つきに少しずつ落ち着きを取り戻した。
わたしはランプを近づけ、帰り道を照らす。橙色の光に、トナカイの怯えた瞳が、ゆっくりと落ち着いていくのが見えた。
「大丈夫、一緒に帰ろう」
リーヴァがトナカイの首元をそっと撫でながら囁くと、小さな鳴き声とともに、トナカイは立ち上がった。
町に戻ると、放牧地の家族が涙を浮かべて礼を言った。周りにいた子どもたちも駆け寄ってくる。
「リーヴァってすごい! さすが雪原の子だね」
無邪気なその言葉に、リーヴァの表情がわずかに硬くなるのを、わたしは見逃さなかった。歓声の中で彼女だけが、少し取り残されたような顔をしていた。
「うん。でも、リーヴァだけに任せたらだめだよ。みんなで、少しずつ覚えよう」
わたしがそう続けると、子どもたちはきょとんとした顔をしたけれど、やがて素直に頷いた。
「今度、僕たちにも足跡の読み方、教えてよ」
「わたしも、一緒に習いたいな」
「……いい」
リーヴァの声には、さっきまでとは違う、ほんの少しの軽やかさがあった。
白夜亭に戻る道すがら、リーヴァが小さく呟いた。
「今日、初めて、任されたんじゃなくて、一緒にやった気がする」
「うん。わたしも」
わたしがそう答えると、リーヴァは足を止めて、こちらを見た。
「アイナと組むと、雪原も、少し怖くない」
その言葉に、わたしの胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
「わたしも。リーヴァといると、知らない場所へ行ってみたくなる」
リーヴァは少し驚いたようにわたしを見たあと、ほんのわずかに口元を緩めた。
夕暮れとも呼べない白夜の光の中、二人並んで立つ影が地面に長く伸びていた。
カウンターの上で丸くなっていたニエルが、片目を開けて言った。
「む。今日は、二人ともいい顔をしておるな」
「なにニヤニヤしてるの」
「なんでもない。……ただ、雪原の道は、ひとりで覚えるものではないと、そなたたちが証明したまでだ」
ニエルは満足げにそう言うと、また丸くなって眠ってしまった。
窓の外では、白夜の淡い光の中、トナカイの鈴の音が遠くから響いていた。わたしはランプの灯りを見つめながら、今日という一日が、リーヴァとの距離をまた少しだけ縮めてくれたことを静かに感じていた。




