第四話 色を失った毛糸
白夜祭が終わった翌々日、わたしはリーヴァと並んで町の学校へ向かった。
ルミラヴィの学校は、時計塔の裏手にある青い屋根の小さな建物だ。夏の朝はまだ空が明るく、窓辺の花壇では黄色い花が風に揺れていた。
「リーヴァ、同じ教室だったんだね」
「うん」
「もっと早く気づけばよかった」
「アイナは、授業が終わるとすぐ店へ帰るから」
言われてみれば、その通りだった。おばあちゃんが町を離れてからは、授業が終わると白夜亭へ急いで戻り、店を開けることばかり考えていた。授業中も店のことばかり考えていた。
「リーヴァは、学校どう?」
「まだ、少し疲れる。みんな、話すのが速い」
「じゃあ、帰りも一緒に帰ろうか」
わたしがそう言うと、リーヴァは少しだけ目を丸くした。
「店に行ってもいい?」
「もちろん。むしろ、手伝ってくれると助かるかも」
「分かった」
短い返事だったけれど、リーヴァの歩幅が、ほんの少しだけわたしに近づいた。
☆
その日の授業を終え、リーヴァと一緒に白夜亭へ戻った。
白夜亭の棚には、毛糸の手袋や靴下が積まれている。冬支度市に向けた編みかけの品もあり、暇を見つけては、わたしが続きを編んでいた。
編み目はまだ、おばあちゃんほどきれいに揃わない。それでも、一段ずつ形になっていく感触は好きだった。
その日の夕方、そんな棚へ新しい毛糸の箱が届いた。
届けてくれたのは、隣町から荷馬車で来た顔なじみの商人だった。玄関先で木箱を下ろしながら、彼は少し得意げに言った。
「今年のは特に発色がいいよ。赤も青も、染めたてで鮮やかだ。冬支度市までしっかりしまっておいてくれ」
わたしは礼を言って箱を受け取り、カウンターの奥の棚にしまった。
この糸は、冬支度市に並べる手袋や帽子を編むために、毎年この時期に届けてもらっているものだった。
けれど、翌朝。わたしは木箱を開けて、思わず声を失った。
「……え?」
箱の中の毛糸は、赤も、青も、黄色も、緑も――すべてが真っ白になっていた。
染め直されたわけではない。糸そのものから色が抜け落ちてしまったような、奇妙な白さだった。指先で触れてみても、感触はいつもの毛糸と変わらない。ふわふわとして、あたたかい手触りはそのままだ。ただ、色だけが、そこにない。まるで、糸が長い眠りについてしまったかのようだった。
カウンターの奥から顔を出したニエルが、鼻をひくつかせて木箱を覗き込んだ。
「む。これは……」
「ニエル、これって」
「うむ。色を抜かれておる」
ニエルはめずらしく歯切れの悪い声で言った。
「誰かが抜いたの? それとも、勝手に抜けちゃったの?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。色というのは、ただの染料ではない。人々の暮らしや、思い出や、季節の積み重ねが、糸に染みついたものでもあるのだ。それが薄れれば、色そのものが静かに逃げていく」
わたしにはまだ、ぴんとこなかった。けれど、木箱いっぱいの白い毛糸を見ていると、何か大切なものが、目に見えないところで少しずつ失われていくような気がした。
わたしはしばらく白い毛糸を手のひらに乗せたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。
冬支度市は、町の人たちが一年でいちばん楽しみにしている行事のひとつだ。おばあちゃんが元気だった頃も、この時期になると、白夜亭の店先には色とりどりの毛糸や刺繍糸が並び、子どもたちが目を輝かせて選んでいたのを覚えている。
その光景が、今年は失われてしまうかもしれない。そう思うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられるようだった。
この知らせは、あっという間に町中に広まった。
「困ったねえ、冬支度市まであと少しだっていうのに」
「今年の手袋、明るい色で編む予定だったのに」
「白い毛糸ばかりじゃ、市も寂しくなっちまう」
広場に集まった大人たちは、口々にため息をついた。冬支度市では、色とりどりの飾り紐や手袋、帽子、鈴飾りが並ぶのが恒例だ。町の人たちの落胆した顔を見ていると、わたしまで胸が重くなった。
わたしは自分の魔法で、なんとか色を戻せないかと試してみた。糸の束を手のひらに乗せ、小さく息を吸う。
「……色よ、戻りますように」
できるだけ丁寧に呪文を唱えて糸に触れてみたけれど、白い毛糸はぴくりとも変わらなかった。もう一度、今度はもう少し力を込めて唱えてみる。それでも、糸は白いままだった。
もともと派手な魔法は使えない。それは分かっていたつもりだったけれど、こういうとき、自分の力の小ささを、いやというほど思い知らされる。何もできない自分が、少しだけ情けなかった。
肩を落として棚にもたれかかっていると、白夜亭の扉が開いて、リーヴァが入ってきた。
「聞いた。糸のこと」
「うん……わたしの魔法じゃ、どうにもならなくて」
力なく答えるわたしを見て、リーヴァはしばらく白い毛糸を手に取り、指先で確かめるように撫でた。糸の質感を確かめるような、真剣な手つきだった。
「これは、無理に戻すものじゃない」
「え?」
「色には、意味がある。サーミの衣装の色は、ただの飾りじゃない」
リーヴァは自分の上着の袖に指を這わせながら、穏やかに続けた。
「青は空と水。赤は火と命。黄色は太陽。緑は森。祖母は、色を選ぶときも、意味を選んでいると言っていた。意味のない色は、糸に長く留まらない」
わたしはその話に、思わず聞き入った。おばあちゃんのレシピ帳にも、色についての記述はあったけれど、そこまで深い意味までは書かれていなかった。
「じゃあ、その意味から、もう一度、色を作り直せばいいのかな」
「……たぶん」
リーヴァは少しだけ考えるように黙ってから、小さく頷いた。
「町と、雪原にあるものから、色を集める。染料ではなく、意味のある色を」
その提案は、わたしにとって新鮮だった。魔法で無理やり戻すのではなく、自然のものから色を取り戻す。それなら、わたしにもできることがあるかもしれない。
わたしたちは、さっそく町の外へ出かけることにした。
ニエルは最初、寒いだの面倒だのとぶつぶつ言っていたけれど、結局、わたしのフードの中に潜り込んで一緒についてきた。
「む。我は案内役として同行してやるのだ。感謝するがいい」
「案内も何も、ただ寝てるだけじゃない」
「うるさい。寝ているのではない。集中しているのだ」
「集中して何を?」
「……昼寝の続きだ」
あきれるわたしの横で、リーヴァがめずらしく声を出さずに笑ったのが分かった。
湖のほとりでは、赤紫色のベリーを摘んだ。潰すと、鮮やかな赤に近い色が滲み出る。
「これは、命の色」
リーヴァがそう言いながら、潰したベリーを布に包んで絞ると、鮮やかな赤い汁が器の底へ落ちていった。指先が赤く染まっていくのを見て、わたしは自分の手も汚れないように、少し離れて摘み方を真似た。
「アイナ、そんなに遠慮しなくていい。汚れても、また洗える」
「あ、うん……そうだよね」
言われてみれば当たり前のことだったけれど、なぜか安心して、わたしも思い切りベリーを潰した。手のひらが真っ赤になって、二人で顔を見合わせて少し笑った。
森の奥では、青みがかった苔を集めた。
「これは、水の色に近い」
湖畔の石を拾い、砕いて粉にすると、灰色がかった青が取れた。花の蜜からは淡い黄色が、木の樹皮を煮出すと、深い緑がにじみ出た。ひとつひとつ集めるたびに、リーヴァはその色の意味を教えてくれた。青は迷わないための色、緑は森への感謝の色、黄色は帰りを待つ色。
「たくさん意味があるんだね」
「うん。町の人は、意味を忘れて、綺麗さだけで色を選ぶことが多い。でも、意味を知っていれば、色は長く残る」
その言葉には、リーヴァが自分の育った暮らしを大切にしていることが、はっきりと表れていた。わたしは、そんなリーヴァの横顔を見ながら、白夜亭の暮らしにも、きっと同じような意味が積み重なっているのだろうと思った。
どれも、派手な色ではなかった。けれど、自然そのものから生まれた色には、店で買う染料にはない、静かな深みがあった。
町へ戻る途中、木工細工の店先にいたオスカリが、こちらに気づいて手を振った。くせのある赤毛には細かな木屑がつき、革の作業前掛けからは、小さな彫刻刀の柄が覗いている。
「アイナ、リーヴァ、何してるの、こんなところで」
「毛糸の色が抜けちゃって。町の外で、色を集めてるの」
「ああ、その話、聞いたよ。うちの看板の塗料も、なんだか薄くなってきてる気がするんだ」
オスカリはそう言って、少し困ったように頭をかいた。
「手伝おうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう、オスカリ」
「そう? じゃあ、何かあったら言ってよ。看板の修理はお手のものだからさ」
軽い調子でそう言うと、オスカリは屋台の方へ戻っていった。ニエルがフードの中からぼそりと呟く。
「木くずの少年は、相変わらず暢気だな」
「暢気なんじゃなくて、優しいんだよ」
わたしがそう言い返すと、ニエルはふん、と鼻を鳴らしただけだった。
白夜亭へ戻ると、ニエルはわたしのフードから抜け出し、カウンターの上へ飛び移った。
わたしは集めた色を鍋で煮出し、白い毛糸を一本ずつ浸していった。
「……染まりますように」
小さな呪文をかけながら糸を浸すと、色は思ったよりずっと自然に、糸の芯まで染み込んでいくのがわかった。ただ色をつけるだけでなく、色が糸に「定着する」ようにする。それが、わたしにできる小さな手伝いだった。
「アイナの呪文、また少し変わった」
「え、そうかな」
「うん。前より、糸に馴染むのが早い」
リーヴァのその言葉に、わたしは少しだけ胸があたたかくなった。おばあちゃんのように大きな魔法は使えなくても、こうして少しずつ、自分のやり方が育っているのかもしれない。
染め上がった糸を、リーヴァは丁寧に手に取り、模様を編み込んでいく。
「この模様は、道しるべ。これは、家族の印。これは、無事を祈る印」
一本一本の模様に意味があることを、リーヴァは丁寧に教えてくれた。わたしは編みながら、それを覚えていく。町の手仕事とはまた違う、雪原の知恵だった。指先が何度もつまずいて、同じ模様をやり直すたびに、リーヴァは急かすことなく、根気強く見てくれた。
「不器用だね、わたし」
「……大丈夫。私も、最初は何度もやり直した」
その一言に、わたしは少しほっとした。
作業の途中、リーヴァはわたしの肩にかかっていたショールに気づいた。
「アイナ、そのショール」
「うん? おばあちゃんが編んでくれたやつ」
「飾り紐が、ほどけかけてる」
リーヴァはそう言うと、染めたばかりの糸を手に取り、わたしのショールの端に結び始めた。
「動かないで。結び目がずれる」
「う、うん」
結び目を確かめるリーヴァの指先が、肩にかかったわたしの金茶色の髪をそっとよけた。近い距離に、わたしは少しだけ息を止めた。慣れた手つきで結び目を作っていくリーヴァの横顔は、いつもより真剣で、少しだけ子どもっぽく見えた。低い位置で結んだ濃い茶色の髪が肩からこぼれ、白夜の光が長い睫毛の先へやわらかく落ちている。
しばらくして、リーヴァは手を止め、結び終えた飾り紐を見つめた。
「……似合う」
短い一言だったけれど、わたしの頬は勝手に熱くなった。
「あ、ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
ニエルがカウンターの上から、じとりとした目でこちらを見た。
「む。二人とも、赤くなっておるぞ」
「な、なってない」
「なってる。雪原の娘も、店主見習いも」
「毛玉は黙ってて」
からかうようなニエルの声に、わたしとリーヴァは思わず顔を見合わせ、それからそれぞれ違う方向を向いた。カウンターの奥で、ニエルの尻尾が棚板をぱたぱたと叩く音だけが響いていた。
夕方近く、集めた糸はすべて染め終わった。赤、青、黄色、緑。以前と同じように、いや、以前よりもどこか温かみのある色が、木箱いっぱいに戻っていた。
町の人たちに糸を届けると、みな安堵の声を上げた。
「これなら、冬支度市も安心だね」
「ありがとう、アイナちゃん、リーヴァちゃん」
「わあ、この色、去年よりきれいかも」
お礼を言われるたび、わたしはくすぐったいような、それでいて誇らしいような気持ちになった。派手な魔法ではなかったけれど、リーヴァと一緒に集めて、染めて、結んだ色は、たしかにこの町の役に立っていた。
片付けをしていたとき、木箱の底に、見たことのない一本の糸が混じっているのに気づいた。
「これ……何色って言うんだろう」
銀色にも、淡い青にも見える、不思議な光を帯びた糸だった。手に取ると、指先がひやりとする。
ニエルがその糸を見た瞬間、体を強張らせた。
「……これは」
「ニエル?」
「北風の鹿の、角の色だ」
ニエルの声は、いつもの偉そうな調子ではなく、どこか緊張を孕んでいた。
「なぜ、こんなところに混じっている……」
リーヴァも糸を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「祖母の歌にも、銀青色の糸のことが出てくる」
「歌に?」
「うん。……でも、それがどんな意味を持つのかまでは、思い出せない」
リーヴァの表情にはまた、あの欠けた歌の一節を思うときと同じ、かすかな苛立ちが滲んでいた。
わたしはその糸を、そっと手のひらに乗せた。冷たいはずなのに、じっと見つめていると、どこか懐かしいような遠い記憶を呼び起こすような感覚があった。
「とりあえず、大事にしまっておこう。何かの意味があるなら、きっとそのうちわかるよ」
「……そうだね」
リーヴァは小さく頷いた。
白夜亭に戻る道すがら、窓辺には染め上がった色とりどりの糸が並び、夕方とはいえまだ明るい光の中で、穏やかに輝いていた。銀青色の糸だけは、木箱の奥にしまわれ、他の色とは少し違う静けさをたたえている。
ニエルはカウンターの上で丸くなりながら、ぼそりと呟いた。
「色は戻った。だが、まだ足りぬものがある」
「足りないものって?」
「……歌だ。色が戻っても、歌が欠けたままでは、鹿は目覚めぬ」
その言葉に、わたしとリーヴァは顔を見合わせた。
窓の外では、白夜の淡い光の中、色を取り戻した糸が風にそよいでいる。けれど、その奥に潜む銀青色の糸だけが、まだ何かを問いかけるように静かに光を帯びていた。
わたしはその光をしばらく見つめながら、今日一日で結んだ小さな距離のことを思った。糸を染めたのも、模様を教わったのも、飾り紐を結んでもらったのも、きっとどれもいつか歌が戻るための小さな一節になっていくのかもしれない。
そんなことを考えながら、わたしはそっとショールの飾り紐に触れた。




