第三話 白夜祭と、眠れない子どもたち
白夜祭の朝は、いつもより町全体がざわめいていた。
広場にはカラフルな旗が張られ、手作りのランプが軒先に並び、ベリー菓子の甘い匂いが風に乗って漂ってくる。木工細工の屋台では、顔見知りの赤毛の少年が、木彫りの人形を並べているのが見えた。子どもたちは朝からはしゃぎ回り、大人たちは屋台の飾りつけに忙しそうだった。旗の色とりどりの布が、風にはためくたび、乾いた音を立てて広場に響いていた。
白夜亭も、今日ばかりは出店を任されている。わたしは朝から、ベリージャムの小瓶と、毛糸の小物を籠に詰めて、広場へ運んだ。おばあちゃんが毎年出していた出店を、今年はわたしひとりで切り盛りしなければならない。それを考えると、朝から少し胃のあたりが重かった。籠の持ち手を握る手のひらに、じんわりと汗が滲んでいた。
「アイナちゃん、今年もよろしくね」
「はい、頑張ります」
顔見知りの人たちに挨拶をしながら、わたしは出店の準備を整えていく。祭りの空気は好きだけれど、大勢の人前に立つのは、やっぱり少し緊張した。看板を立てる手が、ほんの少し震えていた気がする。看板に書かれた『白夜亭』の文字を見つめながら、わたしは深く息を吸い込んだ。
準備を終えたころ、リーヴァがやってきた。今日は普段より一段と華やかな刺繍の入った上着を着ていて、祭りに合わせて選んだのだろうと分かった。朝の光の中で、その刺繍の色が、いつもより鮮やかに映えて見えた。
「手伝う」
「あ、ありがとう。じゃあ、こっちの籠を並べるの、お願いしてもいい?」
「わかった」
リーヴァは簡潔にそう言うと、手際よく籠を並べていく。その隣で作業をしていると、昨日よりも自然に言葉が交わせる気がした。
「昨日はありがとう、飾り紐のこと」
「別に。私が好きでやったこと」
素っ気ない言い方だったけれど、リーヴァの口調には、拒絶するような響きはなかった。むしろ、少しだけ照れているようにも見えた。頬のあたりが、ほんのりと赤らんでいる気がしたけれど、確かめる勇気はなかった。
出店は昼過ぎから賑わい始めた。町の子どもたちがベリー菓子を求めて群がり、大人たちは毛糸の手袋を品定めしている。忙しく立ち回るうちに、わたしはふと、いつもより体が軽く感じることに気づいた。ひとりで店番をしていたときとは、明らかに何かが違う。隣にリーヴァがいるというだけで、これほど心強く感じるものなのかと、わたし自身、少し驚いていた。
幼なじみのミルヤが途中で顔を出し、いつの間にか隣の出店の子と話し込んでいた。ヘンリカ町長の娘で、母親に似て、子どもの頃から人の輪の中心にいるのが得意だった。
「あの子、いつもあんな感じ?」
リーヴァが少し困った顔をした。
「うん、ミルヤは誰とでもすぐ仲良くなるの」
「……羨ましい」
小さな声で呟かれたその言葉に、わたしは何と返せばいいかわからず、ただ隣で作業を続けた。その一言の奥にある、リーヴァの孤独の輪郭を、なんとなく感じ取っていた。
日が傾き始めても空はまだ明るく、広場の賑わいは続いていた。屋台の合間を縫って走り回る子どもたちの声、トナカイの鈴の音、遠くから聞こえる誰かの歌声。夏の白夜祭は、いつもこうして、明るさに包まれたまま夜を迎える。
屋台のランプの灯りが、まだ暮れきらない空の下で、ぽつぽつと点り始めていた。
夕方近く、わたしは町の広場の隅で、しゃがみ込んでいる子どもたちに気づいた。
「どうしたの?」
声をかけると、小さな女の子が目をこすりながら答えた。
「眠れないの……夜になっても、目を閉じると青い光がちらちらするの」
そばにいた別の子も頷いた。
「ぼくも。影が薄くならないし、なんだか変な感じがする」
よく見ると、子どもたちの足元の影が、白夜の明るさに似合わないほど、はっきりと濃く伸びていた。まるで、そこだけ夜が居座っているかのように。日が傾ききらないはずの空の下で、その影だけが、不自然なほどくっきりとした輪郭を保っていた。
白夜のせいで眠りにくいのはよくあることだけれど、これはそれとは違う様子だった。わたしはリーヴァと顔を見合わせた。
「これも、飾り紐と同じ?」
「わからない。でも、普通じゃない」
リーヴァの声に、わずかな緊張が滲んでいた。
わたしたちは子どもたちを連れて白夜亭へ戻り、どうすれば眠れるようになるか考えることにした。
その夜、ニエルが真剣な顔で言った。カウンターの上に座り込んだその小さな体は、いつもよりどこか頼りなく見えた。
「オーロラの夢が、こぼれておるのやもしれぬ」
「オーロラの、夢?」
「うむ。眠りかけたオーロラが見る夢が、行き場をなくして、子どもたちの眠りに紛れ込んでおるのだろう。……もっとも、我にも詳しいことはわからぬが」
珍しく歯切れの悪いニエルの言葉に、わたしは不安を覚えた。いつもなら偉そうに断定するはずなのに、今は言葉を選ぶように、慎重な口ぶりだった。
「ニエル、大丈夫? なんだか元気ない」
「む……我が本調子でないのは、鹿の力が弱まっているせいだ。心配するな。そなたの店の蜂蜜さえあれば、我はいつでも本調子だ」
強がるようにそう言うニエルを見て、わたしは少しだけ胸が痛くなった。この小さな体で、いったいどれだけのことを背負っているのだろう。
わたしは、カウンターの上に置かれたおばあちゃんの古いレシピ帳を開いた。革張りの表紙には焦げ跡や染みが残り、何度も使われたページの端はやわらかく丸まっている。
冷めないスープ。灯りをやわらかくするランプ油。言いそびれた言葉を聞き取りやすくするお茶。泣いている子の気持ちを少し軽くする蜂蜜。
どれも派手な奇跡ではない。けれど、暮らしの中で誰かを助けるために、おばあちゃんが少しずつ集めてきた魔法だった。
ページをめくる指先が、いつもより慎重になっているのを感じた。
「眠る前に飲むハーブミルク、あった」
蜂蜜と、乾燥させたラベンダーに似た花を煮出して作る、心を落ち着けるための飲み物。おばあちゃんが、眠れない夜に飲んでいたものだ。ページの端には、小さな字で「怖い夢を見た夜にも」と書き添えられている。その字を見つめていると、おばあちゃんの声が、耳の奥で聞こえてくるような気がした。
「私、雪原の子守歌なら知ってる」
リーヴァがそう言った。
「祖母から教わった、古い歌。眠れない夜に、子どもに歌う歌」
「じゃあ、二人でやってみようか」
わたしがそう言うと、リーヴァは小さく頷いた。二人で何かに取り組むのは、飾り紐を結び直したとき以来だった。
白夜亭に子どもたちを招き入れ、わたしはハーブミルクを温める。鍋の中へ小さな呪文を落とし込みながら、蜂蜜が溶けていくのを見守った。
鍋の中で乳白色の液体がゆっくりと渦を巻く。おばあちゃんのレシピ帳には「不安な夜には、まず温かいものを」と書き添えてあった。派手な魔法ではないけれど、こういうときこそ、自分にできることをやるしかない。指先に集中を込めるたび、鍋から立ち上る湯気が、いつもより優しく感じられた。
「あったかい……」
子どもたちがミルクを飲むあいだ、リーヴァは穏やかな声で歌い始めた。
その歌は、聞いたことのない言葉だったけれど、不思議と耳に心地よく響いた。低く、ゆったりとした旋律が、店の中にやわらかく満ちていく。まるで、雪原に吹く風の音を、そのまま歌にしたような響きだった。
窓の外の白夜の光までもが、その歌声に合わせて、ほんの少し、色を和らげたように感じられた。
わたしのかけた小さな魔法と、リーヴァの歌が、まるで重なり合うように響いた瞬間、子どもたちの瞼が、ゆっくりと重くなっていくのがわかった。
カウンターの隅で、ニエルも珍しく静かに耳を傾けていた。ふだんの偉そうな態度が嘘のように、その小さな体をじっと丸めて。
しばらくして、子どもたちは安らかな寝息を立て始めた。
「よかった……」
わたしはほっと息をついた。リーヴァも、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。子どもたちの寝顔は穏やかで、ついさっきまでの不安げな表情が嘘のようだった。
けれど、歌い終えたリーヴァの表情には、どこか引っかかるものがあった。
「どうかした?」
「……最後の一節が、出てこなかった」
リーヴァは眉を寄せて言った。
「おばあちゃんから教わったはずなのに。何度歌っても、そこだけ、抜け落ちてる」
その言葉には、わたしには計り知れない重さがあるように感じた。リーヴァにとって、その歌は単なる子守歌ではなく、大切な誰かから受け継いだものなのだろう。
「大丈夫、きっと思い出せるよ」
わたしがそう言うと、リーヴァは小さく頷いたけれど、あまり納得していないようだった。
「祖母は、歌は逃げないと言っていた。でも、忘れれば遠くなるとも言っていた」
その言葉を口にするリーヴァの声は、いつもよりずっと小さかった。
「私は、歌守りの孫として育った。歌を継ぐのが、当然のことだと思っていた」
「じゃあ、余計に不安になるよね……」
「うん」
短い返事だったけれど、リーヴァがそれだけ素直に頷いたことに、わたしは少し驚いた。今までのリーヴァなら、こういう弱さはあまり見せなかった気がする。
「一緒に思い出そう。わたしにできることは少ないけど、聞くことくらいはできるから」
「……ありがとう」
リーヴァの表情は変わらなかったけれど、声にわずかな柔らかさが混じった気がした。
子どもたちが眠りについたあと、わたしたちは店の外に出た。
夜風が、火照った頬を心地よく冷ましてくれる。
空を見上げると、夏の白夜には見えないはずのものが、そこにあった。
薄い、けれど確かにオーロラとわかる筋が、青白く空に浮かんでいる。
「……夏なのに」
わたしが呟くと、ニエルが珍しく真顔になって言った。
「眠りかけているだけではない。何かが、忘れられている」
その言葉が、静かな白夜の空気の中に、重く沈んでいった。
リーヴァはオーロラの筋をじっと見つめたまま、何も言わなかった。わたしはその横顔を見て、彼女がまだ言葉にしていない何かを抱えていることに、なんとなく気づいていた。
しばらくして、リーヴァがぽつりと言った。
「祖母の歌には、いくつか節がある。季節ごとの節、祈りの節、そして最後の節。最後の節だけは、特別なときにしか使わないと言われていた」
「特別なとき、って?」
「……わからない。祖母も、はっきりとは教えてくれなかった」
リーヴァは少しだけ苛立ったように眉を寄せたけれど、それ以上は何も言わなかった。わたしも、無理に聞き出そうとは思わなかった。ただ、隣に並んで、同じ空を見上げているだけで、何かが少しずつ近づいていくような気がした。
リーヴァを見送ったあと、自分の部屋に戻っても、わたしはなかなか眠れなかった。
子どもたちの不眠、色を失いかけた空、そしてリーヴァの歌の欠けた一節。それぞれは別々の出来事のようでいて、どこかで繋がっているような気がしてならなかった。
ベッドに横になりながら、わたしは天井を見つめて考えた。おばあちゃんなら、こういうときどうするだろう。派手な魔法で、一気に解決してしまうのだろうか。それとも、もっと地道に、ひとつずつ確かめていくのだろうか。
どちらにしても、今のわたしにできるのは、後者のやり方だけだった。
ベッドの足元で丸くなったニエルが、寝言のように呟いた。
「む……蜂蜜……もう一個……」
その呑気な寝言に、わたしは思わず小さく笑ってしまった。不安な気持ちの中にも、こうして笑える瞬間があることが、少しだけ救いだった。
窓の外では、薄いオーロラの筋が、まだ静かに揺れていた。
明日もまた、リーヴァに会えるだろうか。そんなことを考えながら、わたしはようやく瞼を閉じた。夢の中でも、あの静かな緑の瞳がずっとこちらを見ていたような気がした。
☆
翌朝、広場へ行くと、祭りのあとの旗や空箱が、まだあちこちに残っていた。
わたしは白夜亭の出店で使った籠を抱え、敷物を畳もうとする。
「そっち、持つ」
声に振り向くと、リーヴァが立っていた。
「どうしてここに?」
「片づけ。アイナも来ると思ったから」
足元には、すでに巻き直された飾り紐が並んでいる。
「雪原では、祭りは片づけまでが祭りだから」
「片づけまで?」
「去年のものを片づけないと、次の祭りを迎えられないって言われてる」
二人で敷物を畳み、空瓶を籠へ戻していく。昨日も一緒に作業をしたばかりなのに、向かいにリーヴァがいることが、もう少しだけ自然に感じられた。
籠の底から、小さな紙が出てきた。
広げると、白夜亭の前に、わたしとリーヴァが並んでいる絵だった。足元には、実物よりずっと大きなニエルが描かれている。端には、少し歪んだ字で「ありがとう」とあった。
「ニエル、大きすぎるね」
「偉そうだから、大きく見えたんだと思う」
真顔で言われて、わたしは笑った。
けれどリーヴァは、絵の中の自分をしばらく見つめていた。
「どうしたの?」
「私が、アイナの隣にいる」
「昨日はずっと隣にいてくれたから」
「……うん」
リーヴァは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
最後に残った長い飾り紐を、二人で巻き直す。
「これは来年も使うんだ」
「同じ結び方でいい?」
「たぶん。でも、わたし一人だと、まだうまくできないかも」
「教える」
「来年も?」
聞いてから、少し早まった気がした。
けれど、リーヴァは不思議そうに首を傾けただけだった。
「呼んでくれるなら」
「呼ぶよ。来年も、一緒にやりたい」
「わかった」
短い返事なのに、その一言が、遠い来年まで続いているように感じられた。
白夜亭へ戻ると、ニエルがカウンターの上で待っていた。
「遅いぞ。我を空腹のまま放置するとは」
「昨日のジャムが残ってるでしょ」
「朝のジャムは、昨日のジャムとは別物だ」
「同じ瓶だよ」
言い合うわたしたちを見て、リーヴァが小さく笑った。
わたしは昨日の残りのスープを温め、二人分の器を用意した。
「来年の前にも、また来てね」
リーヴァは少しだけ目を丸くした。
「来年まで来ないつもりはない」
「そ、そうだよね」
「今日も、まだ帰らない」
その言葉に、胸の中へ新しい灯りが一つ増えた。
昨日の祭りは終わった。
けれど、わたしたちのあいだでは、何かが始まったばかりだった。




