第二話 雪原の娘と、冷めないスープ
「あ……うん。開いてるよ。どうぞ」
我に返り、わたしは慌てて脇へどいた。
少女は小さく頷き、店の中へ入ってきた。歩くたび、飾り帯についた銀色の鈴が、ちりん、と控えめな音を立てる。
カウンターの向こうでは、ニエルがすすで汚れた鼻をひくつかせながら、少女をじっと見ていた。
「雪原から来たの?」
わたしが尋ねると、少女は足を止めた。
「分かる?」
「わたしじゃなくて、ニエルが」
振り返ると、ニエルは得意げに胸を張った。
「我の鼻を侮るでない」
少女はニエルを見て、わずかに目を細めた。驚いてはいるようだったけれど、声を上げるほどではないらしい。
町の子たちが着る素朴な毛織りの服とは違い、上着にも飾り帯にも、細かな模様がいくつも縫い込まれている。けれど派手というより、その姿には雪原の風景をそのまままとっているような落ち着きがあった。
少女は店内をゆっくり見回した。
広い店ではない。けれど、棚に並ぶジャムの瓶や毛糸の籠、壁に掛けられた古い道具が、小さな店内を不思議とあたたかく見せていた。
「ここ、落ち着く」
突然そう言われ、わたしは少し驚いた。
「そうかな」
「うん。雪の日に戻ってきたくなる感じがする」
少女はカウンター前の丸椅子に腰を下ろした。
「ベリージャム、瓶がたくさん」
「あ、うん。おばあちゃんが去年仕込んだの。よかったら味見……あ、その、注文なら」
しどろもどろになるわたしを、少女は不思議そうに見た。
「私はリーヴァ。雪原の集落から来た。数日前からルミラヴィの学校に通っている。しばらく、この町にいる」
聞けば、リーヴァもわたしと同じ十五歳だった。
リーヴァは少しだけ視線を落とした。
「町の子たちとは、あまりうまく話せない。私の言葉は短すぎるらしい」
その言い方には、諦めのようなものが滲んでいた。わたしは何と言えばいいかわからず、ただ黙って聞いていた。
「わたしはアイナ。この店の見習いというか……その、店番」
名乗り合ってから、少し気まずい沈黙が流れた。リーヴァは口数が少ないタイプらしい。わたしはわたしで、初めて会う人と話すのがあまり得意ではなかった。
沈黙をごまかすように、わたしはカウンターの奥へ引っ込んで、鍋の火を確かめた。
「よかったら、スープでもどう? ベリー入りの、あたたかいの」
「……お願いします」
器によそったスープを、リーヴァの前に置く。湯気が立ちのぼり、ベリーの甘い匂いが漂った。
リーヴァはスプーンを手に取り、一口すすった。表情はあまり変わらなかったけれど、少しだけ目を細めたのがわかった。
「おいしい」
「よかった」
わたしはほっとして、頬がゆるむのを感じた。おばあちゃんのレシピどおりに作ったスープが、初めて会う子にも喜んでもらえたことが、思ったより嬉しかった。
雪原から来たというリーヴァのことを、わたしはまだ何も知らなかった。
けれど、その穏やかな横顔を見ていると、もう少し話してみたいと思った。
リーヴァはしばらく黙ってスープを飲んでいたけれど、ふと手を止めて、器に触れた。
「……これ、おかしい」
「え?」
「火から下ろして、もうずいぶん経つはずなのに。まだ、ちゃんと温かい」
わたしは心臓が跳ねるのを感じた。器を火にかけっぱなしにしていたわけではない。わたしがかけた、小さな呪文のせいだ。
「た、たいしたことない魔法だよ。ちょっと冷めにくくなるだけの」
ごまかすように早口で言うと、リーヴァはスプーンを置いて、まっすぐわたしを見た。
「たいしたことない、とは思わない」
穏やかな声だった。
「寒い土地では、温かいものは大事。あたたかいスープがあるだけで、家まで帰る足が軽くなる」
その言葉は、まるでリーヴァ自身の経験から出てきたもののように聞こえた。わたしは何も言えず、ただ小さく頷いた。
カウンターの端で、ニエルがジャムの瓶を舐めながら、横目でこちらを見ていた。
「む。雪原の娘は、なかなか良いことを言う」
「あなたは黙ってジャム食べてて」
わたしがそう言うと、リーヴァは初めて、ほんの少しだけ口元をゆるめた。笑ったというより、笑いかけたくらいの、かすかな変化だった。それでも、その一瞬の表情が、わたしの中に小さく残った。
「その毛玉、しゃべるのか?」
「しゃべる。それも、やたら偉そうに」
「聞こえておるぞ」
ニエルが不満げに鼻を鳴らすのを見て、リーヴァはもう一度、同じくらいかすかに笑った。わたしはその表情を、少しだけ長く覚えておきたい気がした。
そのとき、外から慌ただしい足音と、子どもの声が聞こえてきた。
「大変、大変! 広場の飾り紐が、全部ほどけちゃった!」
白夜亭の扉が開いて、顔見知りの男の子が飛び込んでくる。
「白夜祭の飾り紐、明日には結び終わってるはずだったのに、さっき見たら全部ほどけて、地面に落ちてて……」
わたしとリーヴァは顔を見合わせた。
「行ってみよう」
リーヴァが先に立ち上がる。わたしも慌ててあとを追った。ニエルは名残惜しそうにジャムの瓶を見たけれど、結局、飛べない体でトコトコと後ろをついてきた。
広場に着くと、たしかに赤と黄色の飾り紐が、あちこちにほどけて垂れ下がっていた。風もないのに、まるで誰かがわざと結び目をほどいたかのように。
「これは、ただの風のせいじゃない」
ニエルがぼそりと言う。
「オーロラが眠りかけている、その余波かもしれぬ」
町の人たちは困惑した様子で、飾り紐を結び直そうとしていたけれど、なかなかうまくいかない。結んでもすぐにほどけてしまうのだ。
子どもたちは半分泣きそうな顔で、大人たちは困ったように顔を見合わせている。白夜祭は町にとって、一年でいちばん大切な行事のひとつだ。その飾りが台無しになるのは、誰にとっても他人事ではなかった。
リーヴァはしゃがみ込んで、垂れ下がった紐を手に取った。
「この結び方、古いやり方じゃない。だから、ほどけやすい」
そう言うと、慣れた手つきで紐を編み直していく。指の動きは早く、迷いがなかった。トナカイの手綱や、飾り帯を編み慣れているのだろう。
「わたしも、何かできることないかな」
わたしはそう言いながら、自分の魔法を思い出していた。派手なことはできない。でも。
「糸に、ほどけにくいおまじない……縫い込めるかも」
試しに、リーヴァが編んだ結び目に指を添えて、小さく呪文を唱えてみる。
「……ほどけません、ように」
結び目が、ほんの一瞬だけ、淡く光った気がした。
二人で手分けして、広場の飾り紐を一本ずつ結び直していく。リーヴァが結び、わたしがおまじないを添える。そのやり方は、思いのほか息が合っていた。
「アイナ、そこ持ってて」
「う、うん」
言われるままに紐の端を押さえると、リーヴァはあっという間に複雑な結び目を仕上げてしまう。指先は雪原の寒さに慣れているのか、冷たい風の中でも迷いがなかった。
「すごい、きれい」
「……当然」
短くそう言ったリーヴァの耳が、少しだけ赤くなっていた気がしたけれど、気のせいかもしれない。
作業を続けるうちに、わたしはふと気づいた。リーヴァは町の子どもたちが遠巻きに見ているのに、あまり気にしていないように振る舞っている。けれど、その手つきは、見られていることを意識しているかのように、いつもより少しだけ丁寧だった。
「リーヴァ、結び方、教えてもらってもいい? 来年もこの飾り紐、作るだろうから」
「……いい」
短い返事だったけれど、リーヴァの口元がまた、ほんの少しだけゆるんだ。
夕暮れとはいえ空はまだ明るく、広場の飾り紐は、前よりもずっと丈夫に、そして美しく仕上がった。町の人たちも安心した様子で、口々にお礼を言ってくれる。
「アイナちゃんたち、ありがとう。助かったよ」
「いえ、リーヴァのおかげです」
わたしがそう言うと、リーヴァは少し驚いたような顔をした。誰かに手柄を譲られることに、あまり慣れていないのかもしれない。
作業を終えて、白夜亭まで戻る道すがら、わたしたちはあまり言葉を交わさなかった。それでも、隣を歩くリーヴァの気配は、不思議と居心地が悪くなかった。
途中、湖のほうから吹いてくる風が、少しだけ冷たく感じられた。夏だというのに、北極圏の風は、いつも少しだけ冬の匂いを含んでいる。
「寒くない?」
わたしがそう尋ねると、リーヴァは首を横に振った。
「これくらい、平気。雪原はもっと寒い」
「そうなんだ……。わたし、雪原って行ったことないから、想像もつかないや」
「今度、案内する」
さらりと言われた言葉に、わたしは少し驚いて、それから嬉しくなった。
「うん、楽しみにしてる」
そう答えながら、わたしは自分でも驚くくらい素直にその言葉を口にしていた。雪原も、リーヴァの暮らしも、わたしにはまだ何も知らないことばかりなのに、それを知りたいと思う気持ちは、思っていたよりずっと自然に湧いてきた。
店の前まで来ると、リーヴァは足を止めた。
「アイナ」
「うん?」
「また来てもいい?」
その問いかけは、わたしが思っていたよりもずっと真剣な響きを持っていた。まるで、答え次第で何かが変わってしまうかのように。
「うん。もちろん」
わたしがそう答えると、リーヴァはほんの少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「じゃあ、また」
短くそう言って、リーヴァは白夜の明るい町並みの中へ歩いていく。その背中を見送りながら、わたしは自分の胸の中に、今までなかった小さな灯りが一つ増えたような気がしていた。
カウンターの奥で、ニエルがジャムの瓶を舐めながら、にやりと笑った。
「む。良い夜だったな」
「なにニヤニヤしてるの」
「なんでもない。ただ、雪原の娘は、そなたが思っているよりずっと、この店を気に入ったようだぞ」
「そ、そうかな」
わたしは急に落ち着かない気持ちになって、ランプの芯をいじった。
「む。分かりやすい奴らだ」
ニエルは呆れたように呟いて、また瓶に顔を突っ込んだ。
白夜亭のランプが、いつもより少しだけ、あたたかく灯っているように見えた。
窓の外はまだ明るく、遠くで誰かの笑い声が響いている。今日という一日は、昨日までとは、ほんの少しだけ違うものになった気がした。




