第一話 煙突から落ちてきたオーロラ毛玉
夜なのに、空はまだ青かった。
ルミラヴィの町では、夏のあいだ太陽がなかなか沈まない。赤や黄色、淡い青や緑に塗られた家々が、夕方の光を薄く引きのばしたような明るさの中に並んでいる。時計塔の針は九時を指しているのに、空の色はまだ夕方のままだ。
その町の真ん中に、おばあちゃんの店がある。
雑貨喫茶、白夜亭。
今は、わたしもそこで暮らしている。
わたし、アイナ・コルピは、店先の古いランプを見上げて、小さく息を吐いた。風に乱れた、肩までの淡い金茶色の髪を耳へかけ、エプロンの紐を結び直す。
「……今日から、本当にひとりなんだ」
おばあちゃん――エルナ・コルピは五日前、療養のため南の町へ発った。
「アイナ、店のことは頼んだよ。無理はしなくていい。できることを、できるだけでいいから」
出発の日、おばあちゃんはそう言って、わたしの手を握った。
やさしい言葉だった。けれど、わたしには励ましよりも重荷のように響いてしまった。
おばあちゃんは、この町で「冬守り」と呼ばれている。厳しい冬のあいだ、町の灯りや食料、人々の暮らしを守る魔法使いだ。
凍った川に橋をかけたり、吹雪の中で迷った旅人を導いたりする。
それに比べて、わたしにできるのは、冷めかけたスープを少し温めたり、手袋に迷子にならないおまじないを縫い込んだりすることくらいだった。
十五歳のわたしには、店を一人で預かるというだけでも、じゅうぶんすぎるほど大きな役目に思える。
だから、おばあちゃんの代わりに店を任されても、胸を張ることができない。
その日の午後、白夜亭には白夜祭の支度をする客が次々と訪れた。
「アイナちゃん、いつものベリージャムひとつ」
「毛糸、今年もこの色、置いてある?」
わたしは笑顔を作って応じたけれど、代金を間違えそうになったり、品物の場所を思い出せずに立ち尽くしたりした。
「エルナさんの代わり、頑張ってるね」
そう声をかけてもらうたび、その優しさが、かえって少しだけ重かった。
夕方近く、最後のお客さんが帰ると、わたしはようやく店の奥で息をついた。
鍋にかけていたベリースープを器によそい、小さく呪文を唱える。
「……冷めにくく、なりますように」
スープの表面が、ほんの一瞬だけ淡く光った。
こんな小さな魔法でも、誰かの役に立つのだろうか。
そう考えながらランプの芯を整えていた、そのときだった。
頭の上で、ごとん、と音がした。
煙突だ。
まさか、と思う間もなく、白い塊が煙突から転がり落ち、暖炉の前の敷物へ、どすん、と着地した。
「……えっ」
白い毛玉は、しばらくもぞもぞと動いたあと、むくりと起き上がった。
オコジョにもフェレットにも似た、小さな生き物だった。丸い耳、短い足、ふわふわの尻尾。背中には、淡く光るオーロラのような模様が浮かんでいる。
その生き物は、すすで汚れた顔をぶるぶると振って、こちらをじろりと見た。
「む。ひどい降り方をした」
しゃべった。
わたしは思わずあとずさった。カウンターに背中がぶつかって、瓶がカタカタと音を立てる。
「し、しゃべった……?」
「当然だ。我は偉大なる北の使いである」
毛玉は短い前足を組んで、いばった様子で胸を張った。すすで汚れていなければ、もう少し威厳があったかもしれない。
「北の、使い……?」
「左様。そなたは、この店の主か?」
「主というか……その、見習いです。おばあちゃんの代わりに、しばらく店を預かっているだけで」
「ふむ。祖母は、先代の冬守りだな」
毛玉は鼻をひくつかせ、店の中をぐるりと見回した。ベリージャムの棚、毛糸の籠、レシピ帳。それから、わたしの顔をじっと見上げた。
「そなたに、伝えねばならぬことがある」
毛玉の声が、少しだけ低くなった。
「この町のオーロラが、少しずつ眠りかけている」
わたしはすぐには意味がわからなくて、何度かまばたきをした。
「眠りかけてる……って、どういうこと?」
「言葉のとおりだ。ルミラヴィの空に現れるオーロラは、町の者たちの暮らし、歌、手仕事、約束、思い出によって輝いている。だが近ごろ、その輝きが弱まっている」
「でも、夏はもともとオーロラなんて出ないよ。白夜だもの」
「愚か者め。表には出ずとも、光は眠っているだけだ。眠りが深くなれば、いずれ冬にも目覚めぬようになる」
毛玉は偉そうに言い切ったあと、急に周りをきょろきょろと見回して、それから、すん、と鼻を鳴らした。
「……それより、何か食うものはないのか。長旅で腹が減った」
毛玉の視線の先には、カウンター奥の棚があった。赤や紫、少し黒っぽい深緑のベリージャムが、瓶いっぱいに並んでいる。どれも、おばあちゃんが去年の夏に仕込んだものだ。
「え、あ、ジャムなら」
わたしが棚からベリージャムの小瓶を出すと、毛玉は目を輝かせて飛びついた。パンもないままスプーンでジャムをすくって食べる姿は、偉大な北の使いというより、ただの食いしん坊にしか見えなかった。
「む。うまい。もう一個よこせ」
「まだ一個も食べ終わってないよ」
「食べ終わる前に、次を頼むのが賢いやり方だ」
毛玉は真顔でそう言い切って、また瓶に顔を突っ込んだ。半分呆れながらも、わたしは少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
「じゃあ、聞くけど……そのオーロラが眠りかけてるって、どうしてわかるの?」
わたしがそう尋ねると、毛玉は瓶から顔を上げ、心外だと言わんばかりに胸を張った。
「我が主、北風の鹿にお仕えする者だからだ。鹿の力が弱まれば、我の力も弱まる。証拠に、我はもう空を飛べぬ。以前ならば、この程度の煙突など、羽ばたいて優雅に降りてこられたものを」
「それで、煙突から落ちてきたわけね……」
「うるさい。落ちたのではない、着地に失敗しただけだ」
どう見ても落ちていたけれど、わたしは黙っておくことにした。
「あなた、名前はあるの?」
「ニエルだ。覚えておくがいい」
「ニエル……よろしく。わたしはアイナ」
「知っている。祖母から聞いておった。もっとも、当の本人がこれほど頼りなさそうだとは思わなかったが」
「そ、それは失礼じゃない?」
ムッとして言い返すと、ニエルはふん、と鼻を鳴らしただけだった。
この毛玉が本当に北の使いなのか、それとも単なる迷い込んだ小動物なのか、わたしにはまだよくわからない。
でも、ニエルが言ったことは、頭の隅に小さな棘のように残った。
わたしはニエルの隣にしゃがみ込み、その小さな体をまじまじと見た。すすで汚れた白い毛並みの下、たしかに背中には淡い光の模様が浮かんでいる。まるで、小さな夜空を一枚、そこに縫いつけたみたいだった。
「その模様、きれい」
「当然だ。北風の鹿の眷属たる証よ」
偉そうな口調とは裏腹に、ニエルは少しだけ得意げに尻尾を持ち上げた。存外、単純な生き物なのかもしれない。
わたしがこっそり笑いをこらえた、そのとき、カウンターの上のランプがふっと青白く揺れた。
「……?」
わたしはランプに顔を近づける。炎はいつもどおり橙色だ。気のせいだったのかもしれない。
でも、開いたままのレシピ帳の隅に、見覚えのない、細く白い文字が浮かんでいるのに気づいた。
インクではない。紙の繊維そのものが、うっすらと光を帯びているような文字だった。読み取ろうとした瞬間、文字はすっと薄れて消えてしまう。
「今の、見た?」
振り返ると、ニエルはジャムの瓶に顔を突っ込んだまま、聞いていなかったらしい。
「む? 何か言ったか」
「ううん……なんでもない」
わたしはレシピ帳をそっと閉じた。
信じきれない。でも、見なかったことにもできない。
胸の奥に、小さな不安が芽生えるのを感じながら、わたしはランプの灯りをもう一度見上げた。
ニエルはジャムの瓶を空にすると、暖炉の前でくるりと丸くなり、こちらを見上げて言った。
「今夜はここに泊めてもらうぞ。飛べぬ身では、雪原まで帰れぬ」
「勝手に決めないでよ……」
そう言いながらも、わたしは追い出す気にはなれなかった。ひとりだった店の中に、もうひとつ息づかいが増えたことが、思ったより心強かったのだと思う。
外はまだ明るい。
広場のほうから槌を打つ音や、誰かの笑い声が聞こえてくる。白夜祭の準備をしている町の人たちだろう。木材を運ぶ荷車の音、子どもたちのはしゃぐ声、遠くでトナカイの鈴が鳴る音。すべてがいつもどおりに聞こえるのに、わたしの胸には小さなざらつきが残っていた。
わたしは店の扉に近づき、ランプに触れて、灯りが消えていないことを確かめた。橙色の光は変わらず、ひっそりとそこにある。
「大丈夫。まだ、ちゃんと灯ってる」
自分に言い聞かせるようにつぶやいたとき、扉の外に、誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。
わたしは少し身構えて、扉を開けた。
白夜の明るい空を背にして、見覚えのない少女が立っていた。
鮮やかな青と赤の上着に、細やかな刺繍の入った飾り帯。黒に近い濃い茶色の髪を、低い位置でひとつに結んでいる。深い緑の瞳が、まっすぐわたしを見ていた。
「ここ、まだ開いてる?」
穏やかだけれど、よく通る声だった。
わたしは返事をしようとして、なぜか一瞬、言葉に詰まった。
背後で、ニエルが顔を上げる気配がした。
「……雪原の匂いがする」
小さな呟きが、白夜亭の中へ落ちた。




