第十話 北灯文庫と、閉じた冬の記録
錆びついた鍵は、思いのほか重い音を立てて回った。
「開いた……」
わたしは扉に手をかけて、ゆっくりと押し開いた。蝶番が軋む音とともに、長い間閉ざされていた埃っぽい空気が、外へと流れ出てくる。かび臭さと、古い紙の匂いが混じった、時間の止まったような匂いだった。息を吸い込むと、喉の奥が少しつんとした。
文庫の中は、外の白夜の淡い光がかろうじて差し込む程度で、薄暗かった。壁一面に並んだ木製の棚には、古い書物や巻物、木箱がぎっしりと詰め込まれている。埃の粒が、差し込む光の筋の中で、ゆっくりと舞っているのが見えた。
「わ……すごい」
ミルヤが感嘆の声を漏らしながら、一番手前の棚に手を伸ばした。彼女の目は、初めて見る古い蔵書に好奇心をきらきらと輝かせている。
「触っても大丈夫かな」
「たぶん。でも、丁寧にね」
わたしたちは、それぞれ手分けをして棚の中身を確かめていった。古い祭りの記録が綴られた帳面、手仕事の図案が描かれた紙束、トナカイの移動記録が几帳面な字で書かれた台帳、冬の食料帳。ページをめくるたびに、指先に埃が付いて、乾いた紙の感触が伝わってくる。
「これ、見て」
リーヴァが一冊の古びたアルバムを手に取った。表紙をめくると、色褪せた写真が何枚も貼られている。若い頃のおばあちゃん――エルナと、もう一人、鮮やかなサーミの衣装を着た少女が、肩を並べて写っていた。
「これ、もしかして……」
「私のおばあちゃん」
リーヴァが写真をじっと見つめながら呟いた。二人の少女は、笑顔でトナカイの傍に立ち、雪原を背景に写っていた。写真の中のおばあちゃんは、わたしの知る穏やかな老婦人とは違う、いたずらっぽい笑顔を浮かべている。
「おばあちゃんたち、若い頃、仲良かったのかな」
「わからない。でも、なんだか……」
リーヴァは、その写真から目が離せない様子だった。指先が、写真の表面をそっとなぞる。まるで、その奥にある何かを読み取ろうとするように。
棚の奥へ進むと、他よりも古びた、大きな木箱が置かれていた。表面には、鹿の角を模した彫刻が施されている。彫り込まれた模様は、長い年月で角が丸くなっていて、指先で触れると、なめらかな摩耗の感触があった。
「これ、開けてみよう」
わたしが蓋に手をかけると、蝶番のない、ただ嵌め込まれただけの蓋が、思いのほか軽く外れた。中から分厚い羊皮紙の束が現れた。文字は掠れていて読みにくいけれど、丁寧に目を凝らすと、「冬守り」「歌守り」という言葉が、繰り返し記されているのがわかった。
「冬守りと、歌守り……」
「二つの役目があったんだね」
わたしは羊皮紙をそっと広げながら読み進めた。指先が触れるたびに、乾いた紙が、かすかな音を立てて震える。
「冬守りは、町の灯りと暮らしを守る役。歌守りは、雪原の歌と道を守る役……」
その先には、それぞれの役目を担った人々の名前が、代々書き連ねられていた。目を凝らすと、比較的新しいページに、二つの名前が並んでいるのを見つけた。
「エルナ・コルピ――冬守り」
そしてその隣、雪原の側の記録には、こう書かれていた。
「ソルヴェイグ――歌守り」
わたしとリーヴァは、思わず顔を見合わせた。薄暗い文庫の中で、リーヴァの緑色の瞳が、驚きに大きく見開かれているのがわかった。
「おばあちゃんが、冬守り……」
「私のおばあちゃんが、歌守り」
二人の祖母が、それぞれ別の役目を担っていたという事実が、ゆっくりと胸に染み込んでくる。これまで何気なく聞いていた祖母たちの過去が、急に、確かな重みを持って迫ってくるような感覚だった。
「じゃあ、わたしたちも……」
わたしが言いかけたところで、ニエルが棚の下から顔を出した。
「うむ。おまえたちは、それぞれ、その役目を受け継ぐ立場にある。もっとも、まだ半人前ではあるがな」
「半人前は余計だよ」
わたしがそう言い返すと、ニエルはふん、と鼻を鳴らした。埃っぽい空気の中で、その仕草が、少しだけ場を和ませてくれた。
その先のページを読み進めようとしたところで、リーヴァが手を止めた。
「アイナ、見て。ここから先、読めない」
羊皮紙の一部が、薄い霜に覆われていた。文字が透けて見えるものの、細かい部分までは判別できない。夏だというのに、その部分だけが、まるで真冬の窓ガラスのように白く曇っている。
「わたしの魔法で溶かせるか、試してみる」
わたしは霜の張った部分に手をかざし、いつものように小さく息を吹きかけた。冷めたスープを温めるのと同じ要領で、指先に意識を集中させる。手のひらに、ほんのりとした熱を感じた。
けれど、霜はほんの少し薄くなっただけで、完全には溶けなかった。
「だめ……力が足りない」
わたしは悔しさに唇を噛んだ。ここまで来て、肝心なところが読めないなんて。指先が、まだ冷たい霜の感触を覚えたまま、震えていた。
「リーヴァ、何か方法ないかな」
リーヴァは少し考えてから、静かに口を開いた。
「歌、歌ってみる」
「歌?」
「途中までしか覚えてないけど。試してみる」
リーヴァは羊皮紙の前に膝をつき、これまで集めてきた歌の断片を、順番につなげるように歌い始めた。低く、穏やかな声が、埃っぽい文庫の空気を震わせる。その声は、これまで聞いたどの歌声とも違う、真剣な響きをまとっていた。
歌が響くにつれて、羊皮紙を覆っていた霜が、ほんの少しずつ輪郭を緩めていった。
「あ……」
わたしは思わず声を上げた。歌に合わせるように、霜の下の文字がうっすらと浮かび上がってくる。
「もう少し」
リーヴァの歌声に合わせて、わたしも小さな魔法を重ねた。冷たいものをほんの少し温める、その延長で、霜そのものをやわらげるようなイメージを込める。手のひらの熱と、リーヴァの声が、まるで呼応するように羊皮紙の上で溶け合っていくのを感じた。
歌と魔法が重なり合うと、羊皮紙の文字が、はっきりと読み取れるようになった。
わたしたちは、息を止めるようにして、そこに書かれた文章を読んだ。
「北風の鹿は、町の人々の『冬を迎える約束』によって、目覚め続ける」
リーヴァが続きを読み上げる。
「約束が忘れられると、鹿は眠り、オーロラも弱る」
二人は、しばらく無言でその文字を見つめていた。文庫の中の静けさが、いっそう重く感じられた。
「これが、原因……」
わたしが呟くと、リーヴァが頷いた。
「うん。ずっと感じてた違和感が、これで、はっきりした」
わたしはこれまでの出来事を頭の中で並べ直した。ほどけた飾り紐、色を失った毛糸、眠れない子どもたち、季節外れのオーロラ、迷子になったトナカイ、寂しがるサウナ小屋の湯気の精、怒っていたベリー妖精。それらはすべて、町の人々が少しずつ手放してしまった、暮らしの約束の欠片だったのだ。ばらばらだったピースが、頭の中で音を立てて組み合わさっていくような感覚があった。
「じゃあ、鹿を目覚めさせるには……」
「町の人たちが、もう一度、その約束を思い出す必要がある、ってこと」
ニエルが穏やかな声で付け加えた。
「ふむ。おまえたちが、これまでやってきたことは、決して無駄ではない。ひとつひとつ、忘れられかけていたものを、少しずつ取り戻してきたのだからな」
その言葉に、わたしとリーヴァは、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。けれど、まだすべてが解決したわけではない。
「歌の、最後の一節は……」
わたしが尋ねると、リーヴァは首を振った。
「まだ、書いてない。この記録にも、載ってない」
二人で羊皮紙の続きを探したけれど、その先のページは、文庫の奥深くにしまわれた別の巻物に続いているらしく、今この場では見つからなかった。棚の奥は光が届かず、暗闇に沈んだままだった。
「もっと、調べないと」
リーヴァの言葉に、わたしは頷いた。
「うん」
文庫の中を見渡すと、他にも霜に覆われたままの書物がいくつか残っていた。すべてを一度に解読するのは難しそうだった。
「今日は、ここまでにしよう。日を改めて、また来よう」
わたしがそう提案すると、リーヴァもミルヤも頷いた。
文庫を出る準備をしていると、窓の外に、ふと青黒い影のようなものが見えた。
「……?」
わたしは窓に近づいて外を確かめた。夕暮れとも呼べない白夜の淡い光の中、何か、黒く滲んだような靄が、文庫の周りをゆらゆらと漂っている。心臓が、どくりと大きく鳴った。
「あれ、何?」
ミルヤが不安そうにわたしの腕を掴んだ。その手が、かすかに震えているのがわかった。
その影は、湖畔で見た青白い湯気の精とは、まるで違う気配をまとっていた。あの時感じた、寂しさを孕んだ穏やかさではなく、もっと重く冷たいものが、じわりと滲み出てくるような感覚だった。見ているだけで、指先の感覚が失われていくような、そんな不気味さがあった。
「これは……北風の鹿ではないな」
ニエルが警戒するように毛を逆立てた。
「じゃあ、何なの?」
「わからぬ。だが、良くない気配だ」
リーヴァも窓の外を見つめながら、緊張した面持ちで言った。
「あの影、なんだか、記録の霜に似てる」
その言葉に、わたしははっとした。羊皮紙を覆っていた、あの冷たい霜。それが、窓の外を漂う影と、どこかつながっているような気がした。
「忘れられた冬の記憶が、固まったもの……とか?」
わたしが呟くと、ニエルが小さく唸った。
「うむ。おそらく、それが近い」
影は、しばらく文庫の周りを漂ったあと、まるで様子をうかがうように、窓のすぐそばまで近づいてきた。ガラス越しに見るその輪郭は、ぼんやりとしていて、けれど確かに、何かを訴えかけているようにも見えた。わたしは思わず、あとずさりしそうになるのをこらえた。
「夜霜の影、とでも呼ぶべきか」
ニエルがぽつりと名付けた。
「これから、この影が、町のあちこちに現れるようになるかもしれぬ」
その言葉に、わたしとリーヴァは思わず顔を見合わせた。これまで解決してきた小さな異変とは、また違う何かが、今まさに動き出そうとしている。そんな予感が、胸の奥に重く残った。
わたしたちは急いで木箱と羊皮紙を丁寧に片付け、文庫の扉に鍵をかけて、帰り道を急いだ。夜霜の影は追ってくることはなかったけれど、振り返るたびに、その青黒い輪郭が、まだそこに佇んでいるような気がしてならなかった。足早に歩く道すがら、いつもは気にならない自分たちの足音だけが、やけに大きく響いているように感じられた。
白夜亭に戻ると、店の灯りがいつもより弱く揺れているように見えた。
「気のせい、だといいけど」
わたしがそう呟くと、リーヴァは何も言わず、ただ静かに店の灯りを見つめていた。その横顔には、まだ拭いきれない緊張が残っていた。
その夜、わたしは眠りにつく前、おばあちゃんのレシピ帳をもう一度開いてみた。ページの隅に浮かんでいたはずの、見知らぬ文字は、今夜はもう見えなかった。けれど、代わりに、何かがそっと近づいてくるような、そんな気配だけが部屋の中に残っていた。窓の外では、白夜の淡い光が、変わらず町を照らしている。その静けさの奥に潜む何かを思うと、わたしはなかなか眠りにつくことができなかった。




