第十一話 夜霜の影と、言えなかったこと
夜霜の影は、それから数日のうちに、町のあちこちで目撃されるようになった。
広場の隅、湖畔の岸辺、放牧地の柵の陰。
影が石畳を横切ると、道端の花から色がすっと抜けた。さっきまで黄色かった花弁が、霜をかぶったような白へ変わる。近くに吊られていた鈴も、風に揺れているのに音を立てなかった。
青黒く滲んだその輪郭は、人に危害を加えることはなかった。けれど、触れたものから色や音を、少しずつ奪っていった。
それは音もなく現れ、まるで最初から影法師の一部だったかのように、日常の片隅へ溶け込んでいた。町の人が異変に気づくころには、花も、鈴も、すでに元の姿ではなくなっている。
影そのものより、その周りから暮らしの気配だけが消えていくことの方が、わたしには怖かった。
「うちのランタン、急に灯らなくなって」
「作った刺繍の模様、なんだか思い出せなくなっちゃったの」
そんな声が、あちこちで聞かれるようになった。買い物帰りの主婦たちが立ち話をする声にも、屋台の職人たちがぼやく声にも、以前にはなかった不安の色が滲んでいた。
白夜亭でも、異変は起きた。
ある朝、店の奥に置かれた棚のランプが、ふっと灯を失った。橙色に灯り続けていたはずのそのランプは、いくら火をつけようとしても、二度と光らなかった。
「なんで……」
わたしは何度もマッチを擦ったけれど、芯は湿ったように黒くくすぶるだけだった。指先に力を込めて、いつものように温めの魔法を試してみても、芯はぴくりとも反応しない。まるで、そこにあったはずの何かが、すっぽりと抜け落ちてしまったかのようだった。
同じ日、おばあちゃんのレシピ帳を開いたわたしは、いつも作っているスープの手順の一部が、頭からすっぽりと抜け落ちていることに気づいた。
「あれ……この後、何を入れるんだっけ」
何度もページをめくり直したけれど、思い出せない。長年、体で覚えていたはずの手順が、突然、真っ白な空白になってしまったようだった。指先が無意識に何度も同じ行をなぞる。けれど、そこにあるはずの記憶は、どうしても掘り起こせなかった。
「わたし……何かおかしい」
不安で胸がざわつく中、リーヴァがやって来た。彼女の表情も、いつになく硬かった。頬のあたりに、いつもの落ち着きとは違う、隠しきれない緊張が浮かんでいる。
「歌、また忘れそう」
「え……?」
「せっかく集めた断片。頭の中で、つなげようとすると、途中がぼやける」
リーヴァの声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。手に持った手帳を、ぎゅっと握りしめている。
「二人とも、同じことが起きてるんだね」
わたしがそう言うと、リーヴァは小さく頷いた。
「夜霜の影の、せいだと思う」
わたしは、消えたランプを見つめながら拳を握りしめた。窓の外に差し込む白夜の光は、いつもと変わらず淡く明るいのに、店の中だけが急に薄暗くなったように感じられた。
「わたしのせいかもしれない」
「アイナのせい?」
「わたしの魔法が、力不足だから。文庫の霜も、完全には溶かせなかったし……。もっとちゃんとできてたら、こんなことにならなかったかもしれない」
その言葉に、リーヴァは何か言いかけたけれど、すぐに口を閉ざした。その沈黙が、かえってわたしの不安を煽った。何か言ってほしいのに、リーヴァの目はわたしのほうを見ながらも、どこか別のことを考えているように見えた。
「リーヴァも、そう思う?」
「……ううん」
「でも」
「私は……」
リーヴァは視線を落として、ぽつりと言った。膝の上で組んだ手が、かすかに震えている。
「私が、歌を忘れたせいで、町に異変が起きてるんだと思ってた」
その言葉に、わたしは驚いて顔を上げた。
「そんなこと、ないよ」
「わからない。私は、歌守りの孫なのに。ちゃんと受け継げてない」
お互いに、自分を責める言葉ばかりが口をついて出た。二人の間に、これまでになかったような重い沈黙が横たわった。カウンターの上に置かれたランプの、光の失われた黒い硝子だけが、その沈黙をじっと見つめているようだった。
「今日は……もう、帰る」
リーヴァはそう言って足早に店を出ていった。
「リーヴァ……」
呼び止めようとしたけれど、声が出なかった。扉が閉まる音だけが、店の中に虚しく響いた。閉じられた扉の向こうに、リーヴァの背中が遠ざかっていくのを、わたしはただ見送ることしかできなかった。
カウンターの隅で、ずっと様子を見ていたニエルが珍しく神妙な声で言った。
「アイナ。おまえたち、少し離れすぎておる」
「わかってる、けど……」
「夜霜の影はな」
ニエルは、こちらを見上げて、穏やかな声で続けた。丸い目に、いつもの茶目っ気は見当たらなかった。
「忘れたものだけでなく、言えなかったことにも、寄ってくる」
「言えなかったこと?」
「うむ。抱え込んだ言葉、口にできなかった不安。そういうものが、隙間を作る。そこへ、影が入り込む」
その言葉が、胸の奥に重く落ちた。わたしとリーヴァは、それぞれ自分の弱さや不安を相手に見せないようにしてきたのかもしれない。これまで積み重ねてきたはずの信頼の中に、まだ言葉にできていない部分があったのだと、今さらながら気づかされた。
「わたし……ちゃんと話さなきゃ」
わたしはエプロンを外して店を飛び出した。
外は、白夜の淡い光が町を包んでいた。けれど、その明るさが今のわたしにはどこか冷たく感じられた。息を切らしながら町を駆け抜け、リーヴァを探して歩き回った。広場にも、放牧地の近くにも、その姿は見当たらなかった。
ようやく見つけたのは、湖畔のサウナ小屋の前だった。修理を終えたばかりの小屋の入り口に、リーヴァがぽつんと座り込んでいた。夕暮れとも呼べない光の中、その小さな背中がいつもより頼りなく見えた。
「リーヴァ」
声をかけると、リーヴァは驚いたように顔を上げた。
「アイナ……」
「話したいこと、ある」
わたしは隣に腰を下ろした。小屋の中からは、修理したランプの淡い灯りが漏れている。湖面が風もないのに、かすかに波打っているのが見えた。
しばらく、どちらも言葉を発しなかった。けれど、その静けさはこれまでの気まずい沈黙とは、少し違うもののように感じられた。互いに何かを言おうとして、言葉を探しているような、そんな静けさだった。
「わたし、ずっと思ってたことがある」
わたしは覚悟を決めて口を開いた。心臓が、痛いくらいに鳴っていた。
「リーヴァはすごいのに、わたしは何もできない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に押し込めていた何かが、すっとほどけるような感覚があった。
「雪原のことも、歌のことも、リーヴァは何でも知ってて。わたしの魔法なんて、スープを少し温めるくらいしかできなくて。おばあちゃんみたいには、絶対なれないって、ずっと思ってた」
リーヴァは、じっとわたしの話を聞いていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「私は、町でどう話せばいいかも、わからない」
「え……」
「みんな、私のこと、雪原の子だって思ってる。頼りにされることはあっても、ただのリーヴァとして見てくれる人、少ない」
リーヴァの声は、いつもより小さく震えていた。いつもはまっすぐ前を見ている緑色の瞳も、今は湖面へ伏せられていた。頬にかかった濃い茶色の髪も直さず、リーヴァは膝の上で両手を強く組んでいる。
「アイナは、簡単そうに町の人と話す。私には、それができない」
「簡単じゃないよ。わたしだって、いつも緊張してる」
「でも、アイナの店に来ると」
リーヴァは少し言葉を切ってから、続けた。
「息が、しやすい」
その一言に、わたしの胸がじんわりと熱くなった。
「わたしも」
わたしは隣に座るリーヴァの横顔を見つめながら、正直な気持ちを口にした。
「リーヴァがいると、外へ出られる気がする。雪原のことも、知らないことばかりだけど、リーヴァと一緒なら、怖くない」
リーヴァはしばらく黙っていた。
「こんなこと、誰かに話したの、初めて」
「そうなの?」
「アイナには、話してもいいと思った」
胸の奥に、小さな灯りがともったような気がした。それは嬉しいという言葉だけでは、少し足りなかった。
わたしたちは初めて、お互いの弱さをそのまま言葉にして交わしていた。これまで隠していた不安や、劣等感や、寂しさ。それらを口にすることで、かえって少しずつ肩の力が抜けていくようだった。湖を渡る風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
「私、歌のこと、一人で背負おうとしすぎてた」
リーヴァが穏やかな声で言った。
「アイナの言う通り、みんなで集めればいい。それを、忘れてた」
「わたしも、自分の魔法のこと、もっと信じてみようと思う。小さくても、意味があるって、リーヴァが教えてくれたから」
二人はしばらく無言のまま、湖面に映る白夜の淡い光を眺めていた。さっきまでの重苦しい沈黙とは違う、穏やかな静けさが、二人の間に流れていた。遠くで水鳥の羽ばたく音が、かすかに響いた。
「アイナ」
「うん?」
「ありがとう。話しに来てくれて」
「ううん。わたしのほうこそ」
二人はそっと立ち上がり、白夜亭へ戻る道を歩き始めた。並んで歩く距離は、来たときよりもほんの少しだけ近くなっていた。夜霜の影の気配は、まだどこかに潜んでいたけれど、隣を歩くリーヴァの存在が、それを追い払ってくれるような気がした。
店に着くと、わたしは真っ先に消えたランプを確かめに行った。恐る恐る火を近づけると――ふっと、小さな橙色の光が灯った。
「あ……!」
完全に元通りというわけではなかった。以前よりも、ほんの少し弱々しい光だったけれど、確かにランプは再び灯っていた。その小さな灯りを見つめながら、わたしは思わず胸に手を当てた。
「戻った」
リーヴァも、ほっとした表情を浮かべた。
「不安が減った分、影の力も、少し弱まったのかもしれない」
ニエルが、カウンターの上からそう言った。
「言えなかったことを、言葉にしたからだろうな」
わたしとリーヴァは顔を見合わせて、小さく笑った。
消えかけたランプの灯りは、まだ完全ではない。町を覆う夜霜の影も、消えたわけではない。けれど二人の間にあった、目に見えない隔たりは、今夜、確かに少しだけ埋まった気がした。
窓の外では、白夜の空がまだ明るいまま、静かに町を照らしていた。
小さな灯りがともる店の中で、わたしはリーヴァの隣に座りながら、これまで感じたことのない静かな安心感に包まれていた。




