第十八話 最後の一節を探して
丘から戻った翌日から、わたしたちは、北風の鹿の歌の最後の一節を探す旅を本格的に始めた。
夏の終わりを告げる冷たい朝の光が、白夜亭の窓から差し込んでいた。作業台には、これまで集めてきた歌の断片を書き留めた手帳が、大切そうに広げられている。
「候補は、三つある」
白夜亭の作業台に、リーヴァが手帳を広げながら言った。几帳面な文字が並ぶページを、指先でとんとんと叩く。
「一つ目は、エルナさんのレシピ帳。二つ目は、おばあちゃんの古い飾り帯の刺繍。三つ目は、白夜亭の看板ランプの内側に刻まれた文字」
わたしは、思わず店の奥にある棚を振り返った。長年見慣れてきたはずの品々が、急にまだ知らない何かを隠しているように思えてくる。
「レシピ帳なら、いつも見てるけど……」
「でも、まだ気づいてない部分があるかもしれない」
リーヴァの言葉に、わたしは頷いた。改めて、おばあちゃんのレシピ帳を手に取り、隅から隅まで丁寧にめくり直すことにした。表紙の擦り切れた感触が、指先に伝わってくる。
いつものスープの作り方、ハーブミルクの配合、手袋のおまじないの縫い方。見慣れたページの合間に、これまで見過ごしていた小さな書き込みがあることに気づいた。目を凝らさなければ気づかないほどの、小さな文字だった。
「あ……ここ」
ページの端に、小さな文字で、こう書かれていた。
「灯りを消さない――冬を越すための、最初の約束」
「これ、歌の一節じゃないかな」
わたしがそう言うと、リーヴァが覗き込んできた。彼女の肩が、わたしの肩にわずかに触れる。
「うん。たぶん、そう」
レシピ帳を調べ終えるころには、窓から差す光が少し傾いていた。
その日の午後、わたしたちはソルヴェイグの滞在先を訪ねた。彼女は、まだ町に留まって、冬支度市の様子を見守っていた。市場の喧騒からわずかに離れた宿の一室で、ソルヴェイグは静かに繕い物をしていた。
「おばあちゃん、この飾り帯、見せてもらえる?」
リーヴァが尋ねると、ソルヴェイグは、少し驚いた顔をしたものの、丁寧に飾り帯を差し出してくれた。色鮮やかな刺繍が、光の加減で複雑な陰影を見せている。
「これは、私が若い頃から使っているもの。何か気になることでも?」
「刺繍の中に、何か言葉が隠れてないか、確かめたくて」
わたしたちは、飾り帯の刺繍を、目を凝らして観察した。複雑に絡み合った模様の中に、これまで気づかなかった小さな文字のような形が、糸の織り目に紛れて浮かび上がっているのが見えた。窓からの光が角度を変えるたびに、その文字は見え隠れした。
「これ……」
リーヴァが、指先でそっとなぞりながら、声に出して読み上げた。
「道を忘れない――迷わぬための、歌の約束」
「もう一つ、見つかった」
わたしは、興奮を抑えきれずに言った。
ソルヴェイグは、二人の様子を静かに見守っていたけれど、やがて、感慨深そうに呟いた。皺の刻まれた指先が、飾り帯の刺繍を懐かしむようになぞる。
「その飾り帯に、そんな意味が織り込まれていたとはね。私自身も、忘れていたよ」
白夜亭へ戻ったころ、時計塔は九時を告げていた。
わたしたちは看板ランプを丁寧に取り外し、内側を確かめることにした。
ランプを外しているあいだ、店の入口は灯りを失い、ぽっかりと暗くなった。空はまだ明るかったけれど、いつもより少し寂しく見えた。
「オスカリ、手伝ってもらえる?」
「もちろん」
オスカリが道具を使って、慎重にランプの内側を開けてくれた。長年の煤で黒ずんだ金属の裏側に、細かく刻まれた文字が見えた。作業台の上に置かれたランプが、これまで何十年も、この店をそっと見守ってきたのだと思うと、なんだか胸が熱くなった。
「あった」
わたしは布で汚れを拭いながら、その文字を読み上げた。指先に残る煤の匂いが、なんだか懐かしいもののように感じられた。
「分け合って食べる――冬を越すための、分かち合いの約束」
三つの断片が揃うと、わたしたちはそれらを並べて眺めた。作業台に並んだ三つの言葉は、それぞれ違う場所から見つかったものなのに、不思議なほど自然に寄り添って見えた。
灯りを消さない。
道を忘れない。
分け合って食べる。
「まだ、何か足りない気がする」
リーヴァが、手帳に書き並べた言葉を見つめながら呟いた。眉間に、かすかな皺が寄っている。
「うん。三つだけじゃ、歌としてまとまらない感じがする」
その夜、わたしは店の片付けをしながら、なぜかふと、おばあちゃんがよく口にしていた言葉を思い出した。棚を拭く手を止めて、その言葉を、口の中でもう一度確かめるように呟く。
「冬を守るというのは、雪に勝つことではないよ。寒い日にも帰る場所をなくさないことだよ」
その言葉が、頭の中で、これまで集めた三つの断片と重なるように響いた。まるで、点と点が線でつながっていくような、そんな感覚だった。
「リーヴァ、これも、もしかして……」
わたしがその言葉を伝えると、リーヴァは、はっとした表情を浮かべた。
「帰る場所をなくさない」
リーヴァは、手帳にその言葉を書き加えた。ペン先が紙の上を滑る音が、店の静けさの中に響いた。
灯りを消さない。
道を忘れない。
分け合って食べる。
帰る場所をなくさない。
四つの言葉が並ぶと、わたしたちは、しばらく無言でそれを見つめていた。ランプの灯りが、四つの言葉が並んだページを、静かに照らしていた。
「これで、全部かな」
「わからない。でも、何か、まだ足りない気がする」
リーヴァが、言葉を選びながら言った。
「これ、ただの言葉の羅列に見える。歌としての、まとまりがない」
わたしも、同じことを感じていた。四つの断片は、それぞれ大切な意味を持っているはずなのに、まだ、ひとつの歌としては、つながりきっていなかった。バラバラな石を並べただけで、まだ道になっていないような、そんなもどかしさがあった。
「歌の意味……本当の意味って、何だろう」
わたしは、集めた言葉を、もう一度、順番に読み上げてみた。声に出すたびに、その言葉の重みを、あらためて噛みしめるようだった。
「灯りを消さない。道を忘れない。分け合って食べる。帰る場所をなくさない」
その瞬間、リーヴァが、何かに気づいたように顔を上げた。
「アイナ、これ」
「うん?」
「これ、命令じゃない」
「え?」
「北風の鹿に、何かをさせるための、命令の言葉じゃない」
リーヴァは、興奮した様子で続けた。緑色の瞳が、いつになく強い光を宿していた。
「これは、町の人たちが、自分たちに向けて誓う約束の言葉。鹿を目覚めさせるための呪文じゃなくて」
その言葉に、わたしははっとした。
「町が、冬を受け入れるための約束……」
「うん。北風の鹿は、命令されて目覚めるんじゃない。町の人たちが、その約束を、ちゃんと守ろうとする気持ちに応えて、目覚めるんだと思う」
その考えは、これまでの謎をすっと解きほぐすような感覚があった。ただの呪文や魔法の言葉ではなく、町の人々の暮らしそのものに根ざした、生きた約束の言葉。それこそが、北風の鹿の歌の本質だったのだ。胸の奥に、ようやく霧が晴れていくような、そんな明るさが広がった。
「でも、完全な形には、まだ届いてない」
リーヴァが、冷静に指摘した。
「うん。この四つの言葉を、どうつなげれば、歌になるのか……」
わたしたちは、手帳を前にしばらく考え込んだ。言葉の順番を変えたり、旋律をつけてみたりしたけれど、どうしても、完全な形にはたどり着けなかった。ランプの灯りが、少しずつ夜の深まりを映しながら、静かに揺れていた。
「今夜は、ここまでにしよう」
わたしがそう言うと、リーヴァも頷いた。
「うん。でも、確実に、近づいてる」
その夜、わたしは店の窓辺で、集めた歌の断片をもう一度、読み返していた。窓の外は白夜の名残を残しながらも、以前よりも少しずつ、夜らしい暗さを帯び始めている。
「灯りを消さない。道を忘れない。分け合って食べる。帰る場所をなくさない」
それぞれの言葉が、これまで町で経験してきた出来事と、静かに重なっていく。ほどけた飾り紐を結び直したこと。眠れない子どもたちに歌を届けたこと。色を失った毛糸を、みんなで染め直したこと。迷子のトナカイを、みんなで探したこと。寂しがるサウナ小屋の精を、慰めたこと。怒っていたベリー妖精と、約束を交わしたこと。そして、消えかけたランプを、みんなでともし直したこと。
これまでの一つひとつの出来事が、この歌の言葉と、確かにつながっていた。まるで、リーヴァがここに来てからの日々そのものが、ひとつの長い歌になっているかのようだった。
窓の外を見ると、空には白夜の淡い光の中に、うっすらとした緑がかった筋が、また浮かんでいるのが見えた。以前見たものよりも、ほんの少しだけ色濃く感じられる。
「オーロラ……」
わたしは、その光をじっと見つめながら、これから訪れるだろうオーロラ祭りのことを思った。あと少しで、祭りの夜がやってくる。それまでに、最後の一節を、なんとしても見つけ出さなければならない。窓ガラスに映る自分の顔が、これまでよりも少しだけ、引き締まって見えた。
その日の深夜、店の外で、微かな気配を感じた。窓の外を見ると、青黒く滲んだ影が、広場のほうから静かに近づいてくるのが見えた。
「夜霜の影……」
わたしは、思わず身構えた。影は広場のランプに触れると、その灯りを、ふっと弱めていく。人々の記憶や思いを、また少しずつ奪おうとしているのだ。冷たい何かが、町の隅々にじわじわと染み込んでいくような、そんな不穏さがあった。
「まだ、諦めてないんだ」
わたしは、拳を握りしめた。オーロラ祭りの夜まで、あと数日。その間に、夜霜の影は、さらに勢いを増していくかもしれない。
翌朝、わたしはリーヴァに、昨夜見た影のことを伝えた。朝食のスープを温めながら、昨夜の緊張を思い出すと、自然と声が硬くなった。
「祭りの夜、きっと、一番大きな山場になる」
リーヴァは、真剣な表情で頷いた。
「歌の最後の一節、絶対に見つけないと」
「うん。町のみんなの力も、借りなきゃ」
わたしたちは、集めた四つの断片を手帳に大切にしまいながら、これから迎える祭りの夜への準備を着実に進めていった。
窓の外には、まだ完全には晴れない、けれど確かにそこにある、うっすらとしたオーロラの光が静かに揺れていた。




