第十七話 北風の鹿が眠る丘
ランプが灯った翌朝、ニエルは珍しく、自分から店の外へ出ようと言い出した。
「アイナ、リーヴァ。今日、我についてこい」
「どこへ?」
わたしは、店の掃除をする手を止めて、カウンターの上のニエルを見つめた。その声には、いつもの食い意地からくる要求とは違う、確かな重みがあった。
「鹿眠りの丘、というところがある」
その名前を聞いて、わたしとリーヴァは、思わず顔を見合わせた。
「北風の鹿の……」
「うむ。町の外れにある場所だ。夏でも霜が残り、夜になると、オーロラのかけらが地面に落ちる」
ニエルの声には、これまでにない真剣さがあった。丸い目が、いつもの茶目っ気を潜め、どこか遠くを見据えているようだった。
「北風の鹿に、直接触れられるかもしれぬ場所だ」
わたしたちは、その日の午後、支度を整えてニエルの案内で町を出た。放牧地を抜け、雪原地帯をさらに奥へと進むと、周囲の景色は次第に変わっていった。夏の緑が薄れ、代わりに、白く霜の残る岩肌が目立つようになる。歩くたびに、足元から吐く息のように、うっすらとした冷気が立ち上ってくる気がした。
「ここが、鹿眠りの丘」
ニエルが立ち止まったのは、なだらかな丘の頂だった。夏だというのに、丘の表面には薄い霜が張りつき、足元がしんと冷たい。空を見上げると、他の場所よりも、なぜか薄暗く感じられた。この場所だけ、季節から取り残されているような、そんな錯覚を覚えた。
「不思議な場所」
リーヴァが、辺りを見回しながら呟いた。その声にも、緊張の色が滲んでいる。
「夜になると、この地面に、オーロラのかけらが落ちるという」
ニエルは、丘の中央に近づき、ちょこんと座り込んだ。小さな体が、霜の張った地面に馴染むようにぴたりと落ち着く。
「今は、まだ昼だ。だが、ここは特別な場所ゆえ、少し違う時間が流れておる」
その言葉通り、丘の上の空気は、次第に薄暗さを増していった。まるで、周囲だけが夜へと向かっているかのように。空の色が、青から深い藍色へと、ゆっくりと沈んでいく。
「アイナ、リーヴァ。手をつなげ」
「え?」
「北風の鹿の夢を、共に見るためだ」
わたしとリーヴァは、少し戸惑いながらも互いの手を握った。手袋越しでも、リーヴァの手の温かさが、はっきりと伝わってくる。以前交換した手袋の片方が、それぞれの手に馴染んでいるのを、ふと意識した。
「目を閉じよ」
ニエルの声に従って、わたしは目を閉じた。
風が止んだ。
それまで足元で擦れ合っていた霜の音も、遠くの鳥の声も、一度に消えた。地面に落ちた青白い光が、糸のように伸びて、わたしとリーヴァの靴の周りをゆっくりと囲んでいく。
隣にいるはずのリーヴァの手だけが、急に遠く感じられた。慌てて握り直した瞬間、丘も空も、白い光の中へ溶けていった。
次に目を開けると、わたしたちは見たこともない広大な雪原に立っていた。
地平線まで続く雪は青白く輝き、風もないのに、細かな雪の粒だけが空中をゆっくり漂っていた。
「ここは……」
リーヴァの声が、遠くから響くように聞こえた。
目の前には、巨大な白い鹿が、静かに横たわっていた。角には、うっすらとオーロラの光が絡みつき、瞼を閉じたまま、規則正しく呼吸をしている。その大きさは、想像していたよりもずっと壮大で、まるで丘そのものが生き物になったかのようだった。呼吸のたびに、鹿の体の周りの空気がかすかに揺らめいている。
「これが……北風の鹿」
わたしは、思わず息を呑んだ。全身が、ただその存在感に圧倒されていた。
鹿の周りには、無数の小さな光の粒が、雪の結晶のように漂っていた。近づいてよく見ると、それぞれの粒には、かすかな声や、記憶の断片のようなものが宿っているのがわかった。
「これは……」
「町の人々が、忘れた約束、歌、手仕事、言葉」
ニエルの声が、どこからともなく響いた。
「一つひとつが、鹿を目覚めさせる糧となるはずのものだ。だが、忘れられ、宙に浮いたまま、鹿に届いておらぬ」
わたしは、漂う光の粒に、そっと手を伸ばした。触れると、かすかな声が耳元で聞こえた。指先に触れた瞬間、まるで小さな鈴が鳴るように、その声が胸の奥にまで届いてくる。
「――冬の道を、忘れないように」
「――分け合って、食べよう」
それぞれの粒に、町の誰かの、かつての言葉が宿っているようだった。声は、ときに幼く、ときに老いて掠れていて、それぞれの人生の一部を、確かに宿しているように感じられた。
「アイナ、見て」
リーヴァが、少し離れた場所を指さした。そこには、雪原に立つ、二人の若い女性の姿があった。
一人は、若い頃のエルナ――わたしのおばあちゃんだった。もう一人は、鮮やかなサーミ風の衣装を纏った、若きソルヴェイグだった。
「おばあちゃん……」
「おばあちゃんも……」
二人の若い姿は、寄り添うように並んで立ち、雪原を見つめていた。声は聞こえなかったけれど、その佇まいからは、長い年月を共に歩いてきた者同士の、深い信頼が感じられた。若きエルナの表情には、今のおばあちゃんからは想像もできないような、屈託のない明るさがあった。
「昔、二人は、冬守りと歌守りとして、一緒に町を守っていた」
ニエルの声が、穏やかに響いた。
「共に手を取り合い、それぞれの役目を果たしながら、この町を支えていたのだ」
わたしとリーヴァは、その光景を、しばらく無言のまま見つめていた。若きエルナとソルヴェイグの姿は、まるで、今のわたしたちの姿と、どこか重なるようだった。雪原に並んで立つ二つの影が、少しずつ、わたしとリーヴァの姿と重なっていくような、そんな錯覚さえ覚えた。
「わたしたちも……こんな風になれるかな」
わたしがそう呟くと、リーヴァは、少し考えるように黙り込んでから答えた。
「役目を分け合う、っていうのは、いいと思う」
「役目だけじゃなくて」
「……うん。わかってる」
その声には、これまでの迷いを乗り越えたような、確かな落ち着きがあった。
二人の若い女性の姿は、やがて光の粒のひとつひとつに溶け込むように、静かに消えていった。まるで、その記憶が、また眠りにつくかのように。
「北風の鹿を目覚めさせるには」
ニエルが、改めて話し始めた。
「オーロラ祭りの夜に、町中の灯りと歌を、ひとつに戻す必要がある」
「でも……」
リーヴァが、不安そうに口を開いた。
「最後の一節が、まだ見つかってない」
「うむ。それが、最大の障害だ」
ニエルの声には、重い響きがあった。
わたしたちは、眠り続ける北風の鹿を、しばらく見つめていた。その巨体は穏やかに、けれど確かに、生命の気配を保っていた。ただ、その眠りは思っていた以上に深いもののように感じられた。規則正しい呼吸の音だけが、この夢のような場所に静かに響いている。
「わたしたちに、何ができるかな」
わたしが呟くと、鹿の角の先が、かすかに光を放った。それは、これまで見てきたどの光とも違う、深く澄んだ銀青色の輝きだった。
「あの色……」
リーヴァが、はっとした表情を浮かべた。
「毛糸のときに見た色と、同じ」
わたしも、思い出した。染め物の中に混じっていた、あの見慣れない銀青色の糸。あのとき感じた、名状しがたい神秘的な感触が、今、目の前の光と重なった。
鹿の角から、一枚の細い糸のようなものが剥がれ落ちた。それは風もないのに、ゆっくりと空中を漂いながら、わたしたちのほうへと近づいてくる。
「受け取れ」
ニエルの声に促されて、わたしはその糸にそっと手を伸ばした。指先に触れた瞬間、糸は淡く光り、まるで溶けるように、わたしの手のひらの中へと吸い込まれていった。
「今の……」
自分の中に、何かが灯ったような、不思議な感覚があった。冷たいはずのその感触は、決して不快なものではなかった。むしろ、これまで探し続けてきた何かの答えの一部が、そっと手渡されたような、そんな確かな重みがあった。
「北風の鹿が、少しだけ、力を分け与えてくれたのかもしれぬ」
ニエルが穏やかな声で言った。
「まだ、目覚めるには足りぬ。だが、これは、確かな一歩だ」
わたしは、自分の手のひらを見つめながら、小さく頷いた。
「わたしたち、まだできることがある」
「うん」
リーヴァも、力強く頷いた。緑色の瞳に、これまでにない確信の光が宿っていた。
その瞬間、周囲の光景が、ゆっくりと薄れていった。雪原の景色、眠る北風の鹿、漂う光の粒――すべてが、まるで夢から覚めるように、少しずつ遠ざかっていく。
気づくと、わたしとリーヴァは、丘の上に並んで立っていた。手は、まだしっかりと繋がれたままだった。
「戻ってきた……」
空は、いつもの白夜の明るさに戻っていた。足元の霜も、心なしか、先ほどよりわずかに薄くなっているように見えた。
「今の夢、本当だったのかな」
わたしが呟くと、ニエルがゆっくりと頷いた。
「うむ。北風の鹿の夢は、ただの夢ではない。あれは、鹿自身の記憶と、我々への呼びかけだ」
わたしは隣にあるリーヴァの手を、そっと見つめた。
もう、手をつないでいる必要はないはずだった。
けれど、リーヴァも離そうとしなかった。わたしもそのことには触れず、手袋越しの温もりを確かめるように、指を重ねたままでいた。
「エルナさんとソルヴェイグさんみたいに、わたしたちも、それぞれの役目を持ってる」
「うん。歌守りと、冬守り」
リーヴァが、穏やかに続けた。
「二人で、力を合わせれば……」
「最後の一節、見つけられるかもしれない」
わたしたちは、互いに顔を見合わせて、小さく頷き合った。丘を吹き抜ける風は、これまでよりも、ほんの少しだけ穏やかに感じられた。
「さあ、戻ろう」
ニエルの声に促されて、わたしたちは丘を下り始めた。手のひらに残る、あの銀青色の光の余韻を感じながら。
振り返ると、鹿眠りの丘は変わらずひっそりとそこに佇んでいた。夕暮れとも呼べない淡い光の中、その輪郭が、いつまでもわたしたちの背中を見守っているように感じられた。けれど、その奥に眠る北風の鹿は、確かにわたしたちの呼びかけに、わずかながら応え始めているのだと、わたしは信じ始めていた。




