第十九話 オーロラ祭りの準備
オーロラ祭りの当日が、とうとうやってきた。
けれど、その朝、空は重く垂れ込め、いつもの白夜の淡い明るさとは違う、どんよりとした灰色に覆われていた。夏だというのに、頬を撫でる風は冷たく、雪でもないのに、地面の所々に薄い霜が張りついている。窓の外を見上げても、いつもの淡い青は見当たらず、まるで大きな灰色の布が、町全体に覆いかぶさっているようだった。
「なんだか、嫌な感じ」
ミルヤが、店の窓から広場を見渡しながら呟いた。広場に張られたランプの灯りは、どれも心なしか弱々しく、風もないのに揺らめいていた。その揺らめきは、まるで何かにおびえているかのように、頼りなく感じられた。
「今日、本当に祭りができるのかな」
町の人々の間にも、不安の色が広がっていた。準備を進める大人たちの表情は硬く、子どもたちも、いつもの祭りの日ほど、はしゃいだ様子を見せていない。屋台の前を通り過ぎる人々の足取りも、心なしか重かった。
「祭り、中止したほうがいいんじゃないか」
「こんな空模様じゃ、オーロラなんて、望めないよ」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。その一つひとつが、まるで小さな棘のように、わたしの胸に刺さった。
わたしは、白夜亭のカウンターの前で、これまで集めてきた歌の断片が書かれた手帳を、じっと見つめていた。窓の外の重苦しい空気とは対照的に、店の中には、まだ小さなランプの灯りが、頼りなくも灯っていた。
「灯りを消さない。道を忘れない。分け合って食べる。帰る場所をなくさない」
四つの言葉は、確かにここにある。けれど、これらをどうつなげれば、完全な歌になるのか、まだわからないままだった。指先で、そのページを何度もなぞる。
「アイナ、大丈夫?」
リーヴァが、心配そうに声をかけてきた。
「うん……。でも、最後の一節、まだ見つからなくて」
「私も、まだわからない」
二人は、しばらく無言のまま、手帳の文字を見つめていた。窓の外の重い空模様が、なんだかそのまま、二人の胸の内を映しているように感じられた。
そのとき、店の扉が勢いよく開いて、ミルヤが息を切らして飛び込んできた。
「アイナ、リーヴァ! 大変! お母さんが、みんなを広場に集めてる!」
「え……」
わたしたちは、慌てて店を飛び出し、広場へと向かった。エプロンの紐を結び直す暇もなく、外の冷たい空気の中を駆けていく。
そこには、思っていたよりもずっと多くの人々が集まっていた。町長のヘンリカさんが、広場の中央で、力強い声を上げていた。灰色の空の下、彼女の姿だけが、なぜかくっきりと際立って見えた。
「今年のオーロラ祭り、予定どおり開こう」
その声に、集まった人々がざわめいた。
「でも、この空模様で……」
「オーロラが出なかったら、意味ないんじゃ……」
不安げな声が上がる中、ヘンリカ町長は、まっすぐに人々を見渡した。その視線には、揺るぎない決意が宿っていた。
「怖いから中止するんじゃない。灯りを増やすために、開くんだ」
その言葉に、わたしは、以前彼女が同じことを言っていたのを思い出した。あのとき、わたしとリーヴァが伝えた思いを、町長はずっと胸に留めてくれていたのだ。その事実に、胸の奥が、じんわりと熱くなった。
わたしは一歩、前に出た。心臓が激しく鳴っていたけれど、ここで黙っているわけにはいかないと思った。足の裏に感じる冷たい地面の感触が、なぜか自分を奮い立たせてくれるようだった。
「わたしは……」
声が震えたけれど、それでも続けた。
「大きな魔法は使えません。おばあちゃんみたいに、立派な冬守りにも、まだなれてません」
集まった人々の視線が、一斉にこちらを向く。緊張で足がすくみそうになったけれど、隣に立つリーヴァの気配が、支えのように感じられた。彼女の存在の重みが、まるで見えない支柱のように、わたしを支えていた。
「でも、白夜亭で作ってきたもの――スープも、ジャムも、手袋も、ランプも――全部、少しずつ、みんなの暮らしとつながってると思ってます。今日、もし前と同じようにオーロラが見えなくても、みんなで灯りを持ち寄れば、何かが変わる気がするんです」
わたしがそう言うと、リーヴァもゆっくりと一歩前に出た。彼女の横顔には、これまでのような不安の色ではなく、確かな覚悟が浮かんでいた。
「私も、まだ歌を完全には思い出せてません。でも、みんなが少しずつ覚えてる断片を集めれば、きっと、形になると思います」
二人の言葉に、集まった人々の間に、静かなざわめきが広がった。誰かがひそひそと隣の人と言葉を交わし、それが波紋のように、広場全体に広がっていく。
「そういえば、俺も、あの歌の一節、覚えてるかもしれない」
「私も、母から聞いた歌詞、あったかも」
これまで訪ね歩いて集めてきた歌の断片は、決して無駄ではなかったのだと、わたしはあらためて実感した。積み重ねてきた小さな行動の一つひとつが、今、確かに実を結び始めている。
ヘンリカ町長が、大きく頷いた。
「今夜、広場に集まろう。それぞれの灯りと、覚えている歌を持って」
その日の午後、白夜亭には、これまで関わってきた町の人々が次々と集まってきた。狭い店の中が、いつのまにか人々の熱気と灯りの光で満たされていく。
「アイナちゃん、覚えてる? 眠れなかった夜、ハーブミルクをもらった子」
母親に手を引かれた小さな女の子が、はにかみながら小さなランプを差し出した。あの白夜祭の夜、ちらちらと青い光に悩まされていた子だと、すぐに思い出した。
「これ、私が作ったの。持っていってもいい?」
「もちろん」
毛糸を染め直してくれた職人たちも、色とりどりの手袋や飾り紐を手に、店にやってきた。あの日、みんなで自然の色を集めて染め直した記憶が、鮮やかに蘇る。
「あの銀青色の糸、覚えてるか? あれも、一緒に持っていこう」
トナカイを一緒に探した家族も、鈴を鳴らしながら広場へ向かう準備をしていた。鈴の澄んだ音が、店の中に響く。
「今年は、あの鈴、みんなで鳴らそう」
サウナ小屋を直した町の人々も、湯気の精への感謝を込めて、小さな灯りを手にしていた。
「あの子、寂しがってたもんな。今夜は、賑やかにしてやろう」
ベリー妖精へのお礼を覚えた子どもたちも、ジャムの瓶を大切そうに抱えてやってきた。瓶の中で、あの淡い緑がかった光が、まだ静かに揺れているのが見えた。
「森へのお礼、忘れてないよ」
一人ひとりが持ち寄る小さな灯りや手仕事、食べ物を見つめながら、わたしは胸の奥が熱くなるのを感じた。狭い店の中が、これまで積み重ねてきた出来事の証のようなもので、いっぱいに満たされていく。
「わたしの魔法は、一人で奇跡を起こす力じゃない」
わたしは、思わず声に出して呟いた。
「人の暮らしを、つなぐ力なんだ」
その気づきは、これまでずっと感じていた劣等感を、少しずつ溶かしていくようだった。おばあちゃんのような、大きな奇跡を起こす魔女にはなれない。けれど、こうして、誰かの小さな思いを受け取り、つなげていくことこそが、自分にできる確かな役割なのだと、はっきりと感じられた。胸の奥にあった重い石が、少しずつ軽くなっていくような感覚があった。
リーヴァは、祭りで歌う決意を固めていた。
「今夜、私が歌う」
「まだ、最後の一節、見つかってないのに?」
「うん。でも、みんなの力を借りれば、きっと」
その表情には、以前のような不安げな色は、ほとんど残っていなかった。凛とした佇まいの奥に、これまでにない静かな強さが宿っているように見えた。
ミルヤは町の子どもたちを集めて、広場の飾りつけを取り仕切っていた。
「みんな、灯りを忘れずに持ってきてね! 今夜は、いつもより大きなお祭りにしよう!」
明るい声が、灰色の空の下でも、変わらず賑やかに響いていた。
オスカリは広場中のランプを一つひとつ確かめながら、修理に走り回っていた。
「これで、あとは本番だけだ」
彼の額には、うっすらと汗が滲んでいた。それでも、その表情には、疲れよりも達成感のほうが色濃く浮かんでいた。
ニエルは、小さな体で広場を駆け回り、あちこちに指示を出したり、逆に子どもたちに追いかけられたりしながら、忙しなく働いていた。
「む、そこの子ども、我を追い回すでない!」
「ニエル、可愛い!」
その掛け合いに、張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐのを感じた。灰色の空の下でも、こういう小さな笑いが確かに町のあちこちで生まれていた。
夕方が近づくと、白夜亭の前にリーヴァが立っていた。夕暮れとも呼べない淡い光の中、その姿は、いつもより少しだけ緊張して見えた。
わたしは以前、雪原で交換したリーヴァの青い手袋をはめていた。
リーヴァも、わたしの黄色い手袋を右手にはめている。
「今日も、迷わないように」
「うん。二人とも」
わたしの手袋に縫い込んだおまじないと、リーヴァの手袋に刺繍された道しるべの印が、静かに重なり合う。
二つの印が、まるでひとつになったかのような、不思議な温かさが手のひらに広がった。
「似合う?」
わたしが尋ねると、リーヴァはわずかに頬を緩めた。
「うん。……アイナも」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
片方だけ色の違う手袋を見つめる。これから訪れる夜を思えば、もちろん不安はある。それでも今は、不安と同じくらい確かな期待が、胸の中に灯っていた。
夕暮れとも呼べない、けれどいつもより暗く沈んだ空の下、町の人々は、それぞれの灯りと歌の断片を手に、広場へと集まり始めていた。人々の足音、話し声、鈴の音が、少しずつ重なり合って、広場全体に確かな熱気を生み出していく。
わたしは、片方だけリーヴァの手袋をはめた手を見つめながら、これから迎える夜への、静かな覚悟を固めていた。
この祭りの夜が、これまで積み重ねてきたすべての出来事の、答えを出す夜になる。そんな予感が、胸の奥で確かに脈打っていた。




