第十四話 リーヴァの帰る場所
その報せは、朝早く届いた。
「ソルヴェイグさんが、町へ来るらしいよ」
ミルヤが息を切らして白夜亭に駆け込んできたとき、リーヴァは、ちょうどカウンターで鈴の紐を編んでいるところだった。朝の淡い光が差し込む店内で、彼女の手元だけが、規則正しく動いていた。その手が、ぴたりと止まった。
「……おばあちゃんが?」
「うん。冬支度市の様子を見に来るんだって」
リーヴァの顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが、わたしにもわかった。指先に持っていた紐が、力なく作業台の上に落ちる。
「リーヴァ、どうしたの」
「……別に」
そう答えたものの、リーヴァの手元では、鈴の紐がわずかに震えていた。窓から差し込む朝の光の中で、その震えだけが、やけにはっきりと目に映った。
その日の午後、わたしはリーヴァを湖畔に誘った。誰もいない岸辺に、二人並んで腰を下ろす。夏の終わりを告げる涼しい風が、湖面を静かに揺らしていた。二人きりで並んで座ると、リーヴァはようやく、抑えていた気持ちを少しずつ言葉にし始めた。
「怖い」
「え?」
「歌を忘れたこと。町に、まだ馴染めてないこと。……全部、おばあちゃんに、責められる気がする」
その声は、これまで聞いたことがないほど小さく、頼りなかった。膝の上で組んだ手が、湖面を見つめたまま、かすかに震えている。
「ソルヴェイグさん、そんな人なの?」
「厳しい人。多くを語らない。でも……」
リーヴァは、湖面を見つめながら、ぽつりぽつりと続けた。水面に映る白夜の淡い光が、彼女の横顔をぼんやりと照らしていた。
「昔から、私に期待してた。歌守りの孫として、ちゃんと歌を受け継ぐこと」
「うん」
「なのに、私、肝心なところを忘れてしまった。がっかりされる」
わたしは、隣に座るリーヴァの横顔を見つめた。凛としていて、いつも冷静に物事を見ているように見えるリーヴァが、今はまるで小さな子どものように不安げだった。その不安げな表情を見ていると、わたし自身の胸の奥にも、何かがきゅっと締め付けられるような感覚があった。
「わたしも、一緒に会う」
「え……」
「一人で抱え込まなくていいよ。おばあちゃんに会うとき、わたしも隣にいる」
リーヴァは、少し驚いたように瞬きをしたあと、小さく頷いた。湖面を渡る風が、彼女の前髪をわずかに揺らした。
「……ありがとう」
翌日の夕方、広場の向こうから鈴の音が近づいてきた。町の荷馬車より低く、澄んだ音だった。
やがて、二頭のトナカイが引く橇が坂を上ってくる。夏草の道に橇の跡はつかなかったけれど、その後ろを追うように、冷たい風が細く流れてきた。
色鮮やかな上着をまとった小柄な老女が橇を降りた拍子に、腰元の古いトナカイの鈴飾りが、低く澄んだ音を立てた。
リーヴァの背筋が目に見えて固くなった。
ソルヴェイグさんだった。その眼差しには、人をひるませるような強さがあった。銀灰色になった長い髪を背中で一つに束ね、皺の刻まれた顔の中で、深い緑の瞳だけがリーヴァとよく似ている。
身につけた上着は長い年月を経て色褪せていたが、飾り帯の刺繍は今も丁寧に手入れされていた。
その立ち姿には、雪原で幾度もの冬を越えてきた者だけが持つ、揺るぎない威厳があった。
「久しぶりだね、リーヴァ」
その声は、想像していたよりもずっと穏やかだった。けれど、リーヴァの体は、目に見えて硬くなっていた。まるで、その場に根が生えてしまったかのように、動きがぎこちない。
「おばあちゃん……」
白夜亭に案内すると、ソルヴェイグは店内をゆっくりと見回した。棚に並んだ毛糸玉、ベリージャムの瓶、木彫りの人形。その視線は、一つひとつの品に、確かめるように留まっていく。それから、ふと、カウンターに腰かけたわたしのほうへ目を向けた。
「あなたが、アイナだね」
「は、はい」
わたしは緊張しながら頭を下げた。ソルヴェイグの目力は、確かにミルヤが言っていた通り、強かった。けれど、その奥には、意外なほど柔らかな光も見え隠れしていた。
「エルナの孫にしては、線が細い顔をしている。だが」
ソルヴェイグは、少し口元を緩めた。
「なるほど。あの子の声が、前よりやわらかくなったわけだ」
その言葉に、リーヴァがはっとした顔を上げた。
「……声?」
「以前は、もっと硬かった。まるで、いつも身構えているような声だった」
ソルヴェイグは、椅子に腰かけながら、穏やかに続けた。窓から差し込む光が、彼女の白い衣装の縁を淡く縁取っている。
「今のリーヴァは、少し違う。……ここに来てから、笑うようになったのだろう」
リーヴァは、何も言えずに俯いた。わたしはそんなリーヴァの隣で、ずっと見てきた変化を思い出していた。最初は無口で、どこか距離を置いていたリーヴァが、店番をしたり、ベリーを摘んだり、トナカイを探したりするうちに、少しずつ表情がやわらかくなっていったこと。その一つひとつの瞬間が、頭の中にまるで写真のように浮かんでは消えていった。
「おばあちゃん、私……」
リーヴァが、ようやく口を開いた。膝の上の手が、白くなるほど強く握られている。
「歌のこと、最後の一節、まだ思い出せない。町に、まだ馴染めてない。がっかりしてる、よね」
ソルヴェイグは、しばらくリーヴァを見つめてから、静かに首を振った。
「がっかりなど、していない」
「でも」
「歌は、一人で背負うものではない」
その声には、揺るぎない確信があった。店内の空気が、その一言で、静かに引き締まったように感じられた。
「私が、多くを語らずにいたのは、リーヴァが、自分で自分の居場所を選べるようにするためだ。押し付けるつもりは、なかった」
リーヴァは、驚いたように顔を上げた。
「押し付けて、なかった……?」
「厳しく見えたかもしれない。だが、それは、おまえを試すためではない。おまえ自身の答えを、見つけてほしかったからだ」
その言葉に、リーヴァの目に、うっすらと涙が滲んだ。長年、胸の奥に押し込めていた誤解が、ゆっくりとほどけていくような表情だった。
「私……ずっと、雪原の集落では『歌守りの孫』として期待されて。町では『雪原から来た珍しい子』として見られて。どちらにも、居場所があるようで、どちらにも、ちゃんと馴染めてないと思ってた」
その言葉は、わたしが初めて聞く、リーヴァの本音だった。これまで隠していたものを今、ようやく吐き出しているような、そんな響きがあった。
「アイナに会うまで、私、自分の居場所なんて、どこにもないと思ってた」
わたしは、隣に座るリーヴァの手にそっと自分の手を重ねた。その手は、思いのほか冷たく、けれど確かに、震えが少しずつ静まっていくのがわかった。
ソルヴェイグは、二人の様子をじっと見つめてから、ふと視線を落とした。
「歌のことだが」
その声に、部屋の空気が少し張り詰めた。
「北風の鹿の歌、最後の一節――じつは、私にも、思い出せなくなっている」
「え……」
その告白に、わたしとリーヴァは、思わず息を呑んだ。歌守りであるソルヴェイグですら、忘れてしまっているというのか。窓の外に差し込む白夜の光が、急に色を失ったように感じられた。
「夜霜の影が、歌守りの記憶にも触れているのだろう。私も老いた分、記憶が薄れやすくなっているのかもしれん」
ソルヴェイグの声には、隠しきれない不安が滲んでいた。長年、揺るぎない存在だと思っていた歌守りの姿にも、確かな綻びが生じているのだと、わたしは初めて実感した。
「じゃあ、最後の一節は、どこにも……」
「まだ、わからない。だが、必ず、どこかに残っているはずだ。歌は、簡単には消えない」
その言葉には、長年歌を守り続けてきた者の、確かな信念があった。ソルヴェイグの声の奥に微かな不安と、それでも揺るがない信頼の両方が、同居しているように感じられた。
夕暮れとも呼べない白夜の光が、窓から店の中に差し込んでいた。ソルヴェイグは、しばらく店の中を眺めていたけれど、やがて立ち上がり、リーヴァの肩にそっと手を置いた。
「リーヴァ。おまえは、ちゃんと役目を果たしている。焦る必要はない」
「おばあちゃん……」
「歌を渡す相手は、まだ他にもいる。ゆっくりでいい」
その言葉を残して、ソルヴェイグは町長の家へと向かった。市の様子を見て回るのだという。その後ろ姿は、来たときと変わらず、堂々としていた。
店に静けさが戻ると、リーヴァは大きく息を吐いた。肩の力が、目に見えて抜けていくのがわかった。
「……よかった」
「うん」
「怒られると思ってた」
「わたしも、少し緊張した」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。けれど、その笑顔の奥には、まだ拭いきれない不安が残っているのがわたしにも感じられた。窓の外では白夜の淡い光が、変わらず店の中に差し込んでいる。
「私、ここにいてもいいのかな」
リーヴァが、ぽつりと呟いた。その声には、これまでのどんな言葉よりも、深い不安が滲んでいた。
「雪原の集落でも、歌守りの孫として、ちゃんとできてるとは言えない。町でも、まだ馴染めてない。……どこにも、ちゃんと居場所がないみたい」
その言葉には、これまで積み重ねてきた孤独が静かに滲んでいた。わたしはその言葉を聞いて、胸の奥が締め付けられるような気がした。これまで、リーヴァがどれほどの孤独を一人で抱え込んできたのか、今さらながら思い知らされる気がした。
「いてほしい」
わたしは思わず、まっすぐにそう言っていた。心臓が、痛いくらいに鳴っていた。
「白夜亭にも、町にも」
リーヴァが驚いたように顔を上げた。
「……わたしのそばにも」
その一言を口にした瞬間、頬が熱くなるのを感じた。けれど、もう止まらなかった。これまで積み重ねてきた時間の中で、少しずつ育っていった気持ちを今、初めてはっきりと言葉にしていた。店の中の静けさが、その言葉をいっそう際立たせているようだった。
リーヴァは、しばらく言葉を失ったようにわたしを見つめていた。緑色の瞳が、かすかに潤んでいるのが見えた。
「……うん」
小さな返事だったけれど、そこには、これまでのどんな言葉よりも、確かな重みがあった。
「私も、ここにいたい」
リーヴァは少し迷ってから、もう一度言った。
「アイナのそばに」
重ねたままの手に、少しだけ力が込められた。
二人はしばらく無言のまま、店の灯りの下で隣り合って座っていた。
窓の外では、白夜の淡い光が変わらず町を照らしている。けれど、その光の下で交わされた言葉は、これまでとは違う確かな絆を、そっと結び始めていた。
二人の間に流れる沈黙は、これまでのどんな会話よりも雄弁なもののように感じられた。
カウンターの隅で、ずっと様子を見ていたニエルが、めずらしく茶化すこともなく、ただ静かに二人を見守っていた。その丸い目には、いつもの悪戯っぽさではなく、どこか安堵したような穏やかな色が浮かんでいた。
その夜、白夜亭の灯りは、いつもより少しだけあたたかく灯っていたように、わたしには思えた。窓の外を見上げると、白夜の空の向こうにほんのかすかな星のような光が揺れているような気がした。




