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白夜の町で、雪色のきみと暮らす~北極圏の小さな雑貨喫茶とオーロラの魔法~  作者: 明石竜


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第十三話 冬支度市のはじまり

 夏の終わりが近づくと、ルミラヴィの町は少しずつ違う顔を見せ始めた。

 白夜の名残はまだ空に残っていたけれど、朝晩の風には、かすかな冷たさが混じるようになった。丘の斜面に生い茂っていた夏草も、先端がわずかに色褪せ始めている。広場では大人たちが忙しなく立ち働き、保存食の樽や薪の束が積み上げられていく。木槌を打つ音、荷車の軋む音、遠くで誰かを呼ぶ声。夏の賑わいとはまた違う、どこか引き締まったような活気が、町全体に満ちていた。

「冬支度市、そろそろ始めようか」

 ヘンリカ町長の声が、広場に響いた。北極圏の暮らしでは、冬はまだ遠くても、備えは早いに越したことがない。保存食、薪、毛糸、ランプ、トナカイの鈴――それぞれの家が、来る冬に向けて少しずつ準備を進めていく。

「白夜亭も、今年は何を出そうかな」

 わたしは店の棚を眺めながら考えた。染め直した毛糸で編んだ手袋、保存用のベリージャム、乾燥ハーブ、ランプ飾り。どれも、リーヴァが来てからの日々に積み重ねてきたものたちだった。棚に並んだそれぞれの品を見ていると、その一つ一つに重なる出来事が、指先の記憶として蘇ってくるようだった。

「私も、手伝う」

 リーヴァが店の裏口から顔を出した。

「トナカイの鈴作りと、雪道のしるし紐、手伝ってくれるって、村の人に言われて」

「わあ、いいね」

 二人で店の作業台に向かい合い、それぞれの手仕事を始めた。わたしは瓶にジャムを詰め、ラベルを書く。文字を丁寧に整えながら、瓶の中で揺れる赤い色を見つめる。リーヴァは、小さな鈴を紐に結びつけながら、慣れた手つきで作業を進めていく。

「その鈴、鳴らしてみて」

 わたしが頼むと、リーヴァは鈴を軽く振った。けれど――澄んだ音が鳴るはずのそれは、こもったような、くぐもった音しか出さなかった。

「あれ……」

 リーヴァの眉間に、かすかな皺が寄った。作業台の上に置かれた別の鈴も、次々と手に取って振ってみるけれど、どれも同じように鈍い音しか返してこない。

「おかしい。ちゃんと作ったのに」

 もう一度振っても、同じだった。まるで、鈴の中身が湿った布にくるまれているかのような、鈍い響きだった。その音を聞くたびに、わたしの胸の奥にも小さな不安がじわりと広がっていく。

「夜霜の影の、せい?」

 わたしがそう呟くと、リーヴァは唇を引き結んだ。

「たぶん」

 その日の夕方、店に届いたばかりの乾燥ハーブの束から、いつもの香りが感じられないことにも気づいた。手に取って鼻を近づけても、ほとんど無臭に近い。以前なら、店中に広がるはずの爽やかな香りが、今はどこか遠くに追いやられてしまったかのようだった。

「これも……」

 わたしは棚に並べた木の看板を見上げた。「白夜亭」と書かれた文字が、以前よりも心なしか薄く、滲んで見える気がした。じっと目を凝らしても、輪郭がぼやけたまま、はっきりとは戻ってこない。

「看板の文字まで……」

 小さな異変が、また少しずつ増え始めている。けれど、以前のように怯えて立ち止まるのではなく、わたしとリーヴァは顔を見合わせて頷き合った。これまでの日々を経て、二人とも、不安をただ抱え込むのではなく、次に何をすべきかを考えられるようになっていた。

「今は、市の準備を進めよう」

「うん。できることを、ひとつずつ」

 わたしは町の人々のもとを訪ね歩きながら、市の準備を手伝う傍らで、これまで集めてきた歌の断片の続きを探し始めた。

「あの歌の、続き、思い出せたことありますか?」

 尋ねるたびに、少しずつ、新しい欠片が集まっていく。羊毛を紡ぐ老婆が口ずさむ一節、木工職人が仕事中に無意識に歌う旋律、子どもたちが遊びの中で歌う謎の節回し。訪ね歩く先々で、思いがけない場所から、思いがけない旋律が飛び出してくるのが、なんだか不思議な発見のように感じられた。

「これも、書き留めておくね」

 リーヴァは、持ち歩いている小さな手帳に、集めた断片をひとつひとつ書き留めていった。几帳面な文字で並べられていく歌詞の欠片は、まだ完全な形にはほど遠かったけれど、確実に増えていった。手帳のページが埋まっていくのを見るたび、わたしたちの間には、小さな希望のようなものが灯っていった。


           ☆


「アイナ、これ見て」

 ある日の夕方、リーヴァがわたしのもとへ駆けてきた。頬が上気していて、いつになく声が弾んでいる。

「湖畔の老人が歌ってくれた部分と、職人さんが歌ってくれた部分、つなげてみたら、ちゃんと続きになってる」

 手帳に並んだ文字を確かめると、確かに、旋律の切れ目がなめらかにつながっていた。まるで、別々の場所で見つけた糸が、いつのまにか一本につながっていたかのようだった。

「すごい、リーヴァ」

「アイナが、みんなに聞いて回ってくれたから」

 わたしたちは、少しずつ形になっていく歌に、小さな手応えを感じ始めていた。

 市場の準備は、日ごとに賑やかさを増していった。広場には保存食の瓶が整然と並べられ、薪の香りが漂い、色とりどりの毛糸小物が屋台を彩る。カラフルな町並みに冬支度の活気が重なって、いつもとは違う、どこか懐かしいような賑わいが生まれていた。屋台の間を駆け回る子どもたちの声、樽を積み上げる大人たちの掛け声、遠くから漂ってくる焼き菓子の匂い――それらすべてが混じり合って、町全体が、これから来る冬を静かに迎え入れる準備をしているようだった。

「アイナちゃん、白夜亭のジャム、今年もお願いね」

「はい、頑張ります」

 わたしは瓶に詰めたベリージャムを丁寧に並べながら、少しずつ自分の役割が板についてきているのを感じていた。以前のような、自信のなさからくる緊張とは違う、確かな充実感が胸の奥にあった。

 オスカリも、市に出す木工細工の仕上げに忙しくしていた。

「白夜亭の看板、少し補修しておいたよ。文字が薄くなってたから」

 オスカリが、看板の縁を軽く撫でながら言った。その手つきには、木を扱い慣れた者だけが持つ、確かな安心感があった。

「え、そうだったの? ありがとう」

「気づいたことは、直しておくのが職人だから」

 その言葉に、わたしはなんだかほっとした。町の異変は、決して一人で抱えるものではなく、こうして、気づいた人がそれぞれの形で手を差し伸べてくれるのだと、あらためて実感した。

 ミルヤは町の子どもたちを集めて、市の飾りつけを取り仕切っていた。

「みんな、こっちの旗、もう少し高く張ろう!」

 明るい声が、広場に響き渡る。子どもたちは笑いながら、その指示に従って旗の紐を引いている。

「ミルヤ、そっちは任せたよ」

 広場の反対側から、ヘンリカ町長が声をかけた。

「うん、お母さん。こっちは大丈夫!」

 ミルヤは振り返りもせず、大きく片手を上げた。

その様子を眺めながら、リーヴァがぽつりと言った。

「ミルヤ、こういうこと、得意だね」

「うん。人をまとめるの、上手だよね」

「私には、できないこと」

 その声には、以前のような卑下の響きはなく、ただ純粋に、ミルヤの得意なことを認めるような、穏やかな口調だった。

「リーヴァには、リーヴァにしかできないことがあるよ」

 わたしがそう言うと、リーヴァは少し照れくさそうに視線を逸らした。その仕草が、以前よりもずっと自然に見えて、わたしは密かに嬉しくなった。

 市の準備が進む一方で、夜霜の影による小さな異変は、じわじわと町中に広がっていた。作ったはずの鈴が鳴らない。干したハーブの香りが消える。看板の文字が薄くなる。それぞれは些細なことだったけれど、積み重なると、町全体に、どこか落ち着かない空気を漂わせていた。夕暮れとも呼べない薄暗さの中、広場を歩く人々の顔にも、隠しきれない不安の影が差していた。

「大丈夫かな、今年の祭り」

 誰かが、ぽつりとそんな不安を口にするのが聞こえた。その声は、風に乗って、思いのほか遠くまで届いているように感じられた。


 その夜、市の準備を終えたわたしたちは、広場の一角で、ヘンリカ町長に呼び止められた。

「アイナちゃん、リーヴァちゃん」

 町長は、いつもより真剣な表情をしていた。豪快で明るい普段の様子とは違う、どこか思い詰めたような、真剣な眼差しだった。

「今年のオーロラ祭りのこと、どう思う?」

「え……」

「町の中には、こんな年に祭りをするなんて、って声もある。異変続きで、みんな、少し不安になってるから」

 わたしとリーヴァは顔を見合わせた。町長の言葉には、これまでの積み重ねてきたものへの、静かな重みがあった。

「わたしは……」

 わたしはこれまでのことを思い返しながら、慎重に言葉を選んだ。ほどけた飾り紐を結び直したこと。眠れない子どもたちに歌を届けたこと。色を失った毛糸を、みんなで染め直したこと。それらの記憶が、次々と頭の中を巡っていく。

「怖いから中止するんじゃなくて、続けたほうがいいと思います。みんなで灯りを灯すことが、きっと、何かの答えになる気がして」

 リーヴァも、ゆっくりと頷いた。

「歌も、少しずつ集まってきてます。まだ完全じゃないけど」

 ヘンリカ町長は、しばらく二人の顔を見つめていたけれど、やがて力強く笑った。その表情には、これまで抱えていた迷いを振り払うような、確かな決意が浮かんでいた。

「今年のオーロラ祭り、予定どおり開こう」

 その声には、いつもの豪快さが戻っていた。

「怖いからやめるんじゃなくて、灯りを増やすために」

 その言葉に、わたしは胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。

「はい。白夜亭も、精一杯、準備します」

 わたしがそう答えると、リーヴァも隣で小さく頷いた。

 広場を後にしながら、わたしは夜空を見上げた。まだ完全には暗くならない、白夜の名残を残す空。星ひとつ見えないその薄明るさの向こうに、いつか本物のオーロラが戻ってくることを、わたしは信じ始めていた。

「アイナ、私たちにできること、ちゃんとやろう」

「うん。歌も、灯りも、少しずつ、集めていこう」

 わたしたちは、市の準備で賑わう広場を振り返った。隣に立つリーヴァも、きっと同じものを守ろうとしている。そんな気がした。

屋台の灯りが夕暮れの薄闇の中で、ぽつぽつとともり始めている。その一つひとつの光を見つめながら、わたしはこの小さな灯りたちを、決して消させはしないと静かに心に誓っていた。 


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