第九話 初めての授業
小次郎は、あの自己紹介の授業を思い返していた。
あれは、かなりいいタイミングだった。
みんなの名前と顔を、しっかり見て、記憶と照らし合わせていく。
おかげで、朧げだった「本当に小学一年生だった頃」の記憶も、少しずつ蘇ってきている。
あの一日で、真弘とはずいぶん仲良くなれた。
そして優世は、なぜか矢彦とやけに距離が縮まっていた。
「矢彦ってすげんだぜ、あいつ、ほんとなんでも知ってるんだ」
優世は、昔から人の話を聞くのが上手いやつだった。きっと、優世にうまく乗せられて、矢彦もつい気持ちよく喋ってしまったんだろう。
得意げに語る優世。その隣で、ふんぞり返る矢彦のドヤ顔が、目に浮かぶようだ。
……ふん。どれほどのものか。今度、大人の知識でこっそり試してやろうじゃないか。
そうして数日が経つ頃には
オレと、真弘。もとからの幼なじみの優世。
優世と気の合う、矢彦。
この四人のグループが、いつのまにか、自然と出来上がっていた。
気づけば、あっという間に二週間が過ぎていた。
今日も、登校班で学校へ向かった。
先頭を歩く新田さんは、すっかり班長らしくなって、テキパキとみんなをまとめている。
最初は危なっかしく見えたが、子供の成長は早い。
そして、いつものように、教室に入る。
オレももう、すっかり小学生の生活に馴染んでいた。
そして今日から、本格的な授業が始まる。
一時間目は、国語。
何百万回と書いてきたであろう、ひらがなを、ひたすら書かされた。
「あ」「い」「う」……懐かしくはあるが、さすがに退屈だ。
とはいえ、あんまりスラスラ完璧に書くと浮くので、わざと少したどたどしく書く。
この匙加減が、地味に難しい。
二時間目は、算数。
国立大学を出たオレにとって、小学一年生の算数は
お遊戯にもならなかった。
1+1。3+5。……うん。考えるまでもない。
二時間目が終わり、中休みの時間になった。
オレは、優世に声をかけに行く。
優世は、矢彦と話していた。
「あんな問題、僕には簡単すぎたね」
矢彦が、得意顔で語っている。
……まあ、オレには簡単どころか、暇つぶしにもならなかったが。
ここは、アイツに合わせてやろう。
「矢彦、すげーな! オレ、あんまりよく分かんなかったよ」
「ふっ。当然だ」
そこへ、トイレから戻ってきた真弘が駆け寄ってきた。
「なになに、なにはなしてんの? おれもまぜて!」
「算数の話だよ。真弘には、まだ早い」
矢彦が、ぴしゃりと言い捨てる。真弘は、少しムッとして、
「おれ! わかるし! ひゃくたすひゃく、とかわかるもん!」
「じゃあ、言ってみろよ」
矢彦が、にやにやと真弘をからかう。
「えっと……ごじゅうななせんはっぴゃくじゅうなな!」
無茶苦茶じゃないか。
だが矢彦は、大真面目な顔で頷いた。
「さすが真弘だな。……たぶん、合ってる。確かめてやるから、もう一回言ってみろ」
「え! えっと……ひゃくまんはっせんにひゃくよんひゃく!」
百の位が、二つあったぞ。
オレは、思わず爆笑してしまった。
……やっぱり、こいつらはいいコンビだ。
まるでタイプの違う二人だが、そういえば、大人になっても、よく二人でじゃれあっていたっけ。
優世も、矢彦も、腹を抱えて笑っている。
ひとしきり笑ったあと、矢彦がふっと胸を張った。
「真弘くん。この僕が、教えてやろう。ひゃくたすひゃくは……二百だ」
完璧なドヤ顔だった。
すごいぞ矢彦、正解だ。
「やっぱ矢彦、すげーな! なんでそんなのわかるの?」
優世は、素直に驚いている。
真弘も驚く。
「矢彦すげー! おれ、いちたすいちもわかんなかった!」
「ふっ。ならば、教えてやろう。真弘、優世……小次郎」
……オレも入っているらしい。
「真弘。指を、一本立ててみろ」
「うん!」
真弘が、人差し指をピンと立てる。
「では、反対の手も、同じように」
「わかった!」
「今、指は何本立っている?」
「2ほん!」
「それが、いちたすいちだ」
おおーっ、と歓声が上がる。
「おれすげー! おれすげー!」
真弘は、跳ねて喜んでいる。
……いや、すごいのはお前じゃない。おバカな真弘に、スムーズに答えまで辿り着かせた、矢彦のほうだ。
さて、今日いちばんのドヤ顔でも披露されるかと思っていたら。
「ああ。真弘、すげーぞお前!」
矢彦は、いつもの得意顔ではなく、真弘の頭をぽんと、誇らしげに讃えてやっていた。
……まったく。
矢彦は、一癖も二癖もあるやつだが。
それでも本当に、根はいいやつだ。
チャイムがなった。
中休みの終わりの合図だった。
名残惜しいながらも、二人に別れを告げ、オレは真弘と自席に戻った。
三時間目は、また国語だった。小学一年生の時間割、国語が多すぎないか?
そしてまた、ひたすらに、ひらがなを書かされる。
さすがに退屈してきたオレは、プリントの端っこに、こっそり落書きをしてやった。神山さんの絵だ。あの、オレが小学生になる前の夜に現れた、あの姿を思い出して描いてみる。
……うん。我ながら、下手くそな絵だ。
絵の腕前に関しては、まわりの本物の小学一年生と、まったく遜色ないかもしれない。
四時間目は、音楽。
音楽の先生は、明るくよく通る声で、校歌を歌って聞かせてくれた。そして、一フレーズずつ復唱するように、みんなで歌っていく。
……これが、とても楽しかった。
入学式で独唱(という名の事故)を披露したオレも、今度はみんなと一緒に歌える。なんてことのない時間だが、こういうのが、いいんだよな。
ひととおり校歌を歌ったあと、先生が言った。
「じゃあ、教科書に載ってるお歌の中で、先生が大好きなお歌を歌いまーす! 歌える人は、一緒に歌おうね!」
先生が弾き始めたのは、オレが子供の頃、テレビやドラマで見ない日はなかった、国民的アイドルグループ、SPAPの『宇宙に一つだけの花』だった。
子供も、大人も、お年寄りも。誰もが口ずさめる、あの一曲。
子供の頃は、軽く聞き流していた。だが、大人になってから改めて聴いたあの歌詞は、不思議と、胸に沁みるものがあった。
ナンバーワンより、オンリーワン。すり減って、誰かと比べてばかりいた自分には、今こそ刺さる言葉だった。
そういえば。優世も、この曲が好きだったな。
こいつは確か、中学に上がる頃には、グループのセンターだった、キムタケに憧れていた。あの頃の優世が「将来はキムタケみたいになる」と本気で語っていたのを思い出して、つい、ひとり笑ってしまう。
ふと見ると、優世は、それは嬉しそうに歌っていた。真弘も、矢彦も、みんな歌っている。
さすが、教科書に載るだけのことはある。教室全体に、ぽかぽかと平和な空気が流れていた。
「みんなも先生みたいに、大切なお歌を、いつか見つけてみてね!」
そんな言葉で先生が締めくくり、音楽の授業が終わった。
さて。
ここからが本番だ。
オレが、今日この時を、いや、入学してから今日までの二週間を、ずっと待ちわびていた時間がやってくる。
そのために、オレは今朝、母に無理を言って朝食を抜いてきた。
「育ち盛りなんだから食べなさい」と渋る母を、なんとか説き伏せて。
腹は、さっきからぐうぐうと鳴りっぱなしだ。
万全の態勢。準備は整った。
そう、待ちに待った、給食の時間である。
中身は三十歳。されど、この胸の高鳴りは、まぎれもなく六歳のそれだった。




