9 首都・アーデンベイル邸
馬車が門の前に着くと、小柄な初老の男が出迎えた。首都の邸宅を管理している執事長のカロンだ。口と顎の周りに白いひげを蓄えていて、柔らかい目尻がいかにも好々爺といった相貌である。
気遣わしげな表情からすると、エマが夜会で襲われたことが伝わっているのかもしれない。
「カロンさん。ちょっと一悶着ありまして、エマ嬢は大変お疲れです。万事よろしくお願いします」
「えぇ、勿論でございます」
ムーンの言葉に、カロンが恭しく頷いた。
エマをエスコートしていた手が離れていく。
「ムーンさん。上着をお返し致します」
エマが借りていた上着を脱ごうとすると、ムーンは、「私はセレスティアン・コートには戻りませんから、どうぞ、そのまま」と断った。
「あの……私は、この後、どうすれば?」
エル・クラドールからの手紙に従い、セレスティアンコートに出向いた。そこで予定通り、エル・クラドールと邂逅した。
そして、次の展開はーーー
「もし元気があれば、明日、私の事務所を訪ねてください」
ムーンからの誘いに、疲労困憊していた心がぴょんと躍った。
「えっ、事務所?! ムーン探偵事務所に行ってよいのですか?」
そうだ。確かに事務所を訪れた。そういうシーンがあったことを覚えている。では、あのムーン探偵事務所に入れるということか。
「行きます! 絶対に行きます」
俄に活気づいたエマに、ムーンが苦笑して、念を押す。
「ちゃんと疲れがとれて、元気になったらですよ」
エマは「分かりました」と殊勝に頷いたが、心はすでに探偵事務所に飛んでいる。
ムーンが乗った馬車が走り去るのを見送ると、カロンととに屋敷に入った。
首都の邸宅も、湖水地方の屋敷ほどではないが、十分に広い。恵麻の実家の倍以上はありそうだ。
この家にやって来たは3日前。
ここの屋敷は長らく使用されていなかったそうで、エマの私室だと案内された部屋にも、調度品はほとんどなかった。ベッド、クローゼットとドレッサー程度のシンプルな部屋だ。
采配しているカロンは先代に仕えた古株の使用人だという。領地の別邸にいたメイド長のミセス・エバンズとは旧知の仲らしい。彼女からエマの滞在について連絡を受けると、カロンがすぐに屋敷を整えた。
ミセス・エバンズはエマを邸宅に送り届けると、とんぼ返りで領地に戻っていった。
その時に、ミセス・エバンズからカロンに厳重な引き継ぎがあったようで、厳しい顔でアレコレ言われていたカロンを遠目に見ていが、少し涙目になっていた。
エマはドレッサーの前に座ると、ネックレスを外した。エメラルドの付いたイヤリングは小函の中に入れて鍵をかける。
メイドの助けを借りて、湯あみをしたら、一気に疲れが押し寄せてきた。
慣れない夜会に、いつ襲われるか分からない緊張。自分のことを知っているのか、知らないのか分からない者たちに次々と話しかけられ、初めて会う婚約者と踊らされ……そして、エル・クラドールの襲来。
たった数時間の出来事だ。疲れて当然だろう。
ベッドに横になった途端、エマは酷い睡魔に襲われた。
*
ぐっすり眠ったせいか、翌朝は早くに目が覚めた。
窓を開けると、外には白の混じった群青の空が広がっていた。夜が明ける間際の空だ。深呼吸すると、ひんやりとした空気が肺に満ちる。
エマは窓から外を見下ろした。薄い霧に沈む街は、ロンドンによく似ている。
エマになって、もう1週間くらい経つだろうか。
エマ・アーデンベイルでいることにはだいぶ慣れてきたけれど、ふとした瞬間、佐伯恵麻に戻ることがある。
街を見ている今は、まさにその時だった。
今まで経験してきたことは全部夢で、実はロンドンに旅行に来ているだけなんじゃないかという錯覚がエマを襲う。
ホームシックに染まりそうな心を鎮めるために、思いっきり鼻から息を吸って、ゆっくりと吐き出した。深呼吸で、無理やり気持ちを切り替える。
「……屋敷の中でも、見てみようかしら」
この屋敷に着いてから、ほとんどの時間を私室で過ごした。衣装を合わせ、夜会の流れや振る舞いについて、カロンの教えを請ける。疲れたら、お茶を飲むか横になって休息を取るかの繰り返しで、あっという間に夜会の晩になってしまった。
ちゃんと見たのは、この部屋の他には食事を摂ったダイニングと、カロンの講義を受けたリビングルームくらいだ。
せっかくの機会なのだから、屋敷の中を探検してみるのも悪くないだろう。
エマは音を立てないように、そっと扉を開けた。
静かに動いたつもりなのに、部屋の外に出た途端に、カロンがやって来た。
「お嬢さま。お目覚めでしたら、呼んでくだされば……」
「いえ、その……ちょっと家の中を見て回りたいと思うのですが、かまいませんか?」
カロンは目をパチパチとかせてから、すぐに「勿論です」と大きく頷いた。
「もし入っては行けない部屋や場所があるようでしたら教えてください」
真面目に尋ねたつもりなのに、カロンはフフと穏やかに笑う。肩の力が抜けたような笑みだった。不思議と嬉しそううな表情にもみえる。
「あなたの家です。入っていけないところなど、あるはずございません」
朝食を用意するので、何あればすぐに呼んでくださいと言い置いて、カロンは去っていった。
エマは早速、隣の部屋を覗いてみた。
ここはエマの部屋と似ている。家具はほとんどなく、人の使っている気配のない部屋だった。
次いで、向かいの部屋の扉を開けた。
こちらは、寝室ではないらしい。大きな本棚の広い机がある。列になった本棚には、本が沢山並んでいて、埃っぽい紙とインクの匂いがした。昔、祖父に連れられて、商店街の小さな古本屋に入った時の匂いに似ていた。
多分、ここは書斎なのだろう。
エマは中に入り、本棚から一冊の本を手に取った。
中身は、この国の地理に関する本のようだ。イギリスに似た瓢箪のような形の島国で、南西に首都がある。
そこから北東に馬車で半日ほどの距離のところに、湖と山に囲まれたアーデンベイル領。その領地のさらに東に接しているのが今は亡き公国だ。
この地図は、公式のファンブックで見たことがある。
他に何かないかと、別の本を出して開く。
古い言い伝えや怪異について書いてある本のようだ。古い道具には時として、人の想いが宿り、不思議な力を得ることがあるーーー日本で言うところの付喪神のような設定が、この世界にもあった。そのことは、エマも承知している。
だが、あくまで、ゲームとしてはミステリーRPGだ。そういう魔法のような力は、ストーリーの味付けに使われることはあっても、それ自体が謎解きの答えやオチとなることはない。クリアするためには、論理的に推理して謎を解かなくてはならない。
ペラペラと目を通して戻そうとすると、下の段の分厚い本が目にとまった。上等な革張りがされている。真四角で重いそれは、抜いてみると、どうやら本ではないようだ。
立派な二つ折りの台紙を開くと、右側の頁が肖像画になっている。
両親と幼い娘の3人が描かれた肖像画だ。
母親らしき女性が真ん中に腰掛け、その隣に立派な身なりの男性が立っている。3歳くらいの娘はワンピースを着ていて、両親のちょうど真ん中に立っている。
母と娘の髪の色は、2人とも同じミルクティーブラウン。母親の方が少し色味が薄い。娘はエマと同じ髪色だ。
エマ・アーデンベイルとアーデンベイル伯爵夫妻ーーーエマの家族の肖像に違いない。
母は娘の後ろで優しく微笑み、父は母の肩に手を添える。写真館によく飾ってある、家族の記念写真のような構図。
見開きの左側には、女性の文字で「私たちの愛する娘、エマ 3歳」と書いてある。
3人とも表情は穏やかで、温かい。幸せそうな家族にみえる。
今、彼らは……エマの両親は、どこにいるのだろう。
エマが目覚めた領地の別邸にはいなかった。この首都の邸宅にもいない。
領地には、本邸があるはずだから、そこにいるのか。それとも全く別のどこかにいるのか。
ミセス・エバンズやカロンに尋ねてみることも考えた。
でも、ストーリーから外れたことに首を突っ込むことに、躊躇われた。深く知る必要があるとは思えない。エマ・アーデンベイルの人生に深く関わることで、後戻り出来なくなるのが怖かった。
『私たちの愛する娘』
これを書いた人は、エマのことを愛していたのだ。
私が身体を返せば、エマと彼女は会えるのだろうか。いつまでも会えないままでいては、きっと心配するだろう。
恵麻の両親も……ーーー
恵麻は、大学進学とともに家を出た。そのまま東京で就職してから、ずっと一人暮らしだ。
社会人になってから、帰省はめっきり減ってしまって、盆と年末年始くらいしか帰っていない。忙しければスマホに届くメッセージだって、既読スルーをしてしまうこともあった。
ちょっと連絡が疎かになるのは、忙しいから。腰が重くなっているのは、その気になれば、いつでも連絡をとることだって、帰ることだって出来ると思っていたから。
当たり前のように、そう思っていたから。
「身体に気をけなさいよ」、「元気なら、ちゃんと返事を返しなさい」、「次はいつ帰ってくるの?」
ちょっとお節介で小うるさいと思っていた母の言葉と呆れたようような白髪交じりの丸顔が、隣に並んだ無口な父の顔が、次々と頭に浮かんで、さっき無理やり蓋をした感情が溢れ出す。
窓の外の朝靄のかかる空を見て、起こした錯覚が、また恵麻の感情に呼びかける。
ここはロンドンで、この空は日本に続いているのだという錯覚。
あぁ、もし本当にそうなら、もし、ここがロンドンだったなら……飛行機に乗れば、すぐにでも家に帰れるのに。
それなら……ーーー
「今すぐ、帰りたい」
口に出した途端、どうしょうもない郷愁の念が心の底から溢れてくる。押し込めたはずの蓋を吹き飛ばして、流れ出してくる。
帰りたい。
広い部屋より、高級そうなふかふかベッドより、小さな自分の部屋の量販店のカバーに包まれた、ちょっとゴワゴワとした布団にくるまりたい。
丁重に傅いてくれるメイド長や執事よりも、バカみたいな話や愚痴を言い合える家族や友だちに会いたい。
鼻の奥がツンと痛くなった。
どうして、こんなことになってしまったのか。いつになったら戻れるのだろう。
涙が頬を一筋伝うと、もう止めることは出来なかった。次から次へと零れていく。
どれくらい、泣いていたのだろう。
トントンと扉をノックする音で、正気に戻った。扉越しに、エマを呼ぶカロンの声がしている。
泣いていても仕方がない。
ともかくこの道を突き進むしかないのだと、改めて自分に言い聞かせた。
「しっかりしなきゃ。今日はムーンの事務所に行くんだもの」
涙を指で拭って部屋の外に出た。目が合ったカロンが、僅かに目を瞠る。泣いていたことに気付かれたのだろう。少し気まずい。
だが、カロンから何か聞かれることはなかった。
階下のダイニングに行き、椅子に腰掛けると、すぐに温かいタオルが出てきた。見上げると、カロンがちょいと自らの目元を指した。エマの目が赤いから、持ってきてくれたものらしい。
温タオルがじんわりと瞼の上を覆い、ホッとした。それだけで気持ちが鎮まっていく。
タオルを離すと目の前に、サラダと紅茶、そしてクロックムッシュが並んでいた。カロンが「どうぞ」とばかりに微笑む。温かい朝食だ。
「カロン。食べ終えたら、ムーン探偵事務所に行こうと思うのだけど、いいかしら? お借りしていたものも返さなくてはなりませんし」
「構いませんが、上着は昨夜のうちにムーンさまが取りにみえましたよ」
「あら、そうなんですか? いつの間にいらしたのかしら」
「お嬢さまは疲れて寝てらしたので、お声がけしませんでした」
カロンといい、ミセス・エバンズといい、アーデンベイル家の使用人は卒がない。
「ムーン探偵事務所まで、私がお送りしましょうか? それとも、あちらの方に、お迎えを頼みますか?」
迎えを頼めば、来るのはルシアンだろうか。昨夜のように、ブツブツ言われたら面倒だ。
「一人で歩いて行ってはいけないかしら?」
そのほうが気楽だ。歩いているうちに、だいたいのマップも思い出せるだろう。確かめながら歩いておきたい。
しかし、カロンは「昨日の今日でございますからね……」と、難色を示した。
「お嬢様に何かあっては大変ですから、どなたか付き添いの方は必要でしょう」
カロンの心配はもっともだ。言葉は柔らかいが、一人歩きは認めてはくれないだろう。
「……では、カロンにお願いします」
「かしこまりました」
朝食後、エマが身支度を整えたら、カロンと二人で歩いてゆくことに決まった。
けれど、結局、エマがカロンに送ってもらうことは、なかった。
朝食後に訪れた、予定外の来客のせいだった。




