10 ムーン探偵事務所へ
ヘンリーの甘いマスクが、とろけるように微笑んだ。
「君とこんなふうに街を歩ける日が来るなんて、夢みたいだ」
エマは答える代わりに、曖昧な笑顔で誤魔化した。
ヘンリーがエマに会いにやって来たのは、ちょうどムーンの事務所に行く支度を終えた頃だ。まさに、「さぁ出かけようか」というタイミング。
エマに会いに来たというヘンリーに、これからムーン探偵事務所に行く予定だからとエマは断った。だが、それを聞いたヘンリーが、それなら自分が送りたいと申し出たのだ。
ヘンリー・スペンサーは、スペンサー伯爵家の息子であり、エマの婚約者だ。身元もしっかりとしているうえ、立場を考えても無下には扱えない。
それで結局、送ってもらうことになったというわけだ。
「事務所まで送っていただき、ありがとうございます」
送ったら帰ってくださいという本音を忍ばせて言ったつもりだが、多分伝わってはいないだろう。
「それくらい、お安い御用さ。それにしても、すれ違いにならなくて良かった。危うく、こんなにも可愛らしい貴女をエスコートし損ねるところだったよ」
なんというか、『歯の浮くような台詞』というやつが次々と飛び出してくる。ムーンもエル・クラドールも、普通にキザな台詞回しをするし、そういう世界観なのだと分かってはいるけれど、いざ自分に真正面から向けられると、何とも反応に困る。
「ところで、どうして探偵事務所なんかに? 何か事件にでも巻き込まれているのかい?」
「いえ。昨夜、ちょっとご迷惑をおかけしたので、そのお礼に」
嘘ではない。カロンが用意してくれたお礼の焼き菓子も持っている。
「昨夜? 探偵が? 夜会で使用人でもしていたのかな?」
ムーンが爵位を持っていることは知らないのだろう。はなから参加者とは考えてもいないようだ。実はエマと一緒に来ていたと知ったら、どんな顔をするのだろう。
詳しく話すつもりはないけれど。
「それより、ねぇ、エマ。昔のことを覚えている? 今みたいに、よく二人で並んで、アーデンベイルの湖沿いを歩いたこと」
覚えていない……というわけには、いかないだろう。
「そうね。懐かしいわ」
当たり障りのない相槌を打つと、ヘンリーはエマの返事が嬉しかったようで、ニコリと笑って、想い出話を続けた。
「野花の咲く草原で、僕と君はいつも一緒だった。草むらに寝っ転がって空を見上げたり、時には、駆けっこもしたけれど…」
「いつも、私が負けて泣いた」
答えてから、ハッと口を抑えた。
不思議だ。知らないはずの状況なのに、するりと言葉が出てきた。
「そう。君は負けず嫌いだったものね」
遠い昔を見ているように、ヘンリーの目が細くなった。
「僕が8歳、君が5歳の時だっかな。僕が一人だけ馬に乗っていいと言われ、まだ幼くて一人では乗れない君は、ズルいズルいと泣いていたね。それで、君の泣き顔に参った僕は、結局、馬を降りて引いて歩いた」
そう言われると、そんなことがあった気がする。ワガママに付き合って困り顔をする少年のヘンリーを、自然と頭に思い浮かべることができた。
赤の他人の話を聞いているようには思えない。
ひょっとしたら、これは本物エマ・アーデンベイルの記憶なのかもしれない。身体に残る記憶。
自分の中に、エマ・アーデンベイルが存在しているような不思議な感覚に、エマはブルリと震えた。
エマが同調してくれたのが嬉しかったのか、ヘンリーは、次々と子どもの頃の話を取り留めもなく話してくる。
領地の大きな噴水に近づきすぎて二人でビショビショに濡れたこと、別邸から見た湖畔の景色が美しかったこと、皆に隠れて厩に忍び込んで馬を見に行ったこと。
他には、エマの知らない社交界の噂話なども、よく知っていて、それなりに有益でもあった。隙あらばエマを持ち上げ、口説くような甘い台詞が並べ立てられることを除いては、だけど。
それにしても、エマは彼のことをどう思っているのだろう。彼のことを好きならばいいのだけれど。恵麻の好みではないからそう思ってしまうのか、次々に連発される美辞麗句が正直、少々食傷気味に感じた。
これ以上、秋波をかわす笑顔も続かないなと思った頃、ようやくムーン探偵事務所に着いた。
煉瓦造の2階建ての建物で、入り口には黒に銀色の字で描かれた『ムーン探偵事務所』の銘板が飾ってある。
「良ければ、僕もムーン氏に挨拶させてくれないか?」
許可を求めるようでいて、何となく断りにくい圧を感じる笑顔だ。
諾否の返事も待たず、ヘンリーはドアに付いている金具をノックした。
すぐに、中から綺麗な顔をした金髪の少年が出てきた。助手のルシアン。
短い髪はくるくるとクセッ毛になっているし、まつ毛は相変わらず長いけれど、それでも昨日と同じ人物とは思えない。夜会にいたヘンリーも『宮廷の白薔薇』を知っているはずだけど、何の反応も示さなかった。
目の前の彼は、まぎれもなく男の子。ただでさえ整っているのに、とんでもなく化粧映えする顔らしい。
「やぁ、はじめまして。エマ嬢の婚約者のヘンリー・スペンサーです」
「………はぁ、どうも?」
綺麗な顔の眉間にシワが寄る。ヘンリーもそれなりに整った顔立ちだが、それでもルシアンの並ぶと敵わない。
「君が名探偵ムーン氏かな?」
「……違いますけど」
ルシアンは不審者をみるように、警戒した様子で答えた。一方のヘンリーは、一応の口調こそ丁寧だが、ルシアンを使いの子どもだと思って接している。
「では、ムーンさんにご挨拶をしたいんだけど、いいかな?」
「今は外出しているので、不在です」
「外出? そうか、じゃあ残念だったね。エマ」
ヘンリーが「帰ろうか」とエスコートの手を差し出した。
「あ、アーデンベイルのお嬢サマは、中で待ってていいですよ。ムーン先生から聞いています」
「それなら僕も一緒に……」
「知らない人は入れちゃダメって、先生に言われてるんで」
ルシアンはバッサリと断ると、エマの手をグイッと引いた。あっという間に中に引き入れられたかと思うと、扉がバタンと閉まる。
ヘンリーの呆気に取られたような顔が、扉の向こうに消えた。
「あの、ルシアン? ヘンリーは……」
「放っときゃ、そのうち帰るでしょ」
昨日も思ったが、まぁまぁ口が悪い。
年の頃は13、4歳。小生意気な中学生男子と言ったところだろうか。
エマを応接用のソファに「座れば?」と言うと、ルシアンは「ちょっと先生呼んでくる」と、部屋を出ていった。
「え? ムーンさん、いるんですか?」
ついさっき不在と言っていたはずのムーンは、確かにルシアンに連れられてやって来た。
「やぁ、エマ嬢。体調はどうだい?」
白いシャツとベストをラフに着こなしたムーンは、エマの顔を見るなり、真っ先に気遣った。
「ムーンさん、中にいらしたんですか?」
「ん? 僕はずっと奥の部屋にいましたけど?」
エマの戸惑いで、ムーンは事態を察したらしい。渋い顔でルシアンを睨んだ。
「ルシアン。ひょっとして、君はまた客人を追い返したね?」
また、というからには始めてではないのだろう。
ルシアンは悪びれもせず、反論した。
「追い返すのは、明らかな冷やかしの人間だけです。ついでに、今日追い返したのは客人ですら、ありません」
エマが、自分の婚約者だったと説明すると、ムーンは「ふむ」と頷いた。
「あの男は、いろいろと首を突っ込んできてめんどくさいことを仕出かしそうな雰囲気がプンプンしてたんです。事務所には立ち入らせない方がいいと判断しました」
ルシアンが、あくまでも自分は悪くないのだと主張する。
「そういうことですか」
叱るのかと思いきや、ムーンは納得顔で頷いた。「確かに意外といいことをしたかもしれませんね」と、ルシアンの言い分を認める。
「どうやらエマ嬢も、婚約者の方とあまり深く関わりたくないようですから、適当に追っ払ってくれたと前向きに考えましょう」
ムーンの指摘に、エマはギクリとした。当たっている。
ムーンがクスリと笑った。
「エマ嬢は、なんでもかんでも顔に出てわかり易すいてすね。ランドールと一緒です。素直なのは素敵ですが、少し気をつけたほうがいい」
「……はい」
いつの間に準備したのか、ルシアンが手際よく、二人の前に紅茶を出してくれた。持ってきた手土産の菓子も皿に乗っている。
飲めとばかりに顎をしゃくったので、「いただきます」と一口含んだ。
「美味しい」
意外なことに、ルシアンの淹れてくれた紅茶は、とても美味しい。ミセス・エバンズにも劣らぬほどだ。
「ここの隣にカフェがあったでしょう? ルシアンは、そこの店主に認められる程の腕前なのですよ」
思わず驚いたエマに、ムーンが嬉しそうに言う。自分の助手が褒められるのを喜んでいるみたいだ。
「さて。それでは、これから先のことについて、改めて相談しましょうか」
ムーンは紅茶のカップを置くと、話を本題に移した。
「ムーンさん。まずは昨日の出来事について教えていただけませんか? 私と別行動になった後、どこで何をして、隣の部屋に現れたのですか?」
エマの質問に、ムーンがエマと離れてからの出来事を教えてくれた。
会場内でエマと別れたムーンは、場内に紛れ込んでいるであろうエル・クラドールを探したらしい。聞き込みや各部屋の調査。ゲームではプレイヤーはムーンを動かすから、だいたい知っている通りだ。ただ、合間毎に何かと挟まるパズルや謎解きがないだけで。
「あの部屋を彼が抑えていることに気づき、隣の部屋に忍び込みました。貴女に接触した怪盗は、窓から逃げると踏んでいたので」
エマが想定していたストーリーと少し違う。本来ならルシアンではなく、ムーン本人がエマを助けに来たはずだ。エマの動きが違うから、展開に修正がかかったのかもしれない。
「窓から飛び降りたあとは、どうなったんですか? 剣を打ち合うような音がしていましたが……」
「えぇ、少々干戈を交えました。彼もなかなか手練のようで、残念ながら逃げられましたが」
「先生から逃げられるなんて、少々じゃなくて、相当の手練です。だいたい、あのワンコロ野郎が頼りないせいで……」
「ランドールは、悪くない動きをしていましたよ。ただ、クラドールが上手だっただけで」
ルシアンは自分が失敗したみたいに悔しそうだ。
「あの……エル・クラドールはエドマンド・ディスポアではないのですか? 確かに顔をみたのですが」
エマを襲った男は、エドマンドだった。そして、彼が目の前でエル・クラドールに変身するのを見た。
「残念ながら、違います。ディスポア准男爵の子息、エドマンド・ディスポア氏は、随分前に家を飛び出してから行方知れずなんです。それが、数日前に突然戻ってきたと、ディスポア氏は喜んでいたそうですが……」
その息子は偽物だったということだろう。エル・クラドールの変装だったのだ。
期待はしていなかったが、やはりエドマンドからエル・クラドールを追うのは難しそうだ。
「それでは、手詰まりと言うことですか? またエル・クラドールからの接触を待つしかないのでしょうか?」
この後、どうなっただろうか。ゲームだから、何かしら次へと繋がる展開があったはずだ。
エマがアレを思い出すのと、ムーンが言及するとは、ほぼ同時だった。
「いえ、彼は手がかりを残していきました」
ムーンはポケットからマッチ箱を取り出した。エマの記憶にあるものと同じだ。青い箱で、おしゃれなロゴがデザインされている。
「グリムズ・キャット…」
帝都の繁華街の裏通りにあるバーの店のロゴだ。エル・クラドールはそのバーの2階にあるホステルに滞在している。
「ここに、調べに行くんですね?」
「えぇ、これから、私とルシアンで。エマ嬢は一旦屋敷に戻るか、こちらで待つか……」
「ついて行ってもいいですか?」
エマの頼みに、ムーンは難色を示した。
「バーというのは、あまり治安の良い場所ではありません。伯爵令嬢をお連れするのは、できればやめておきたい」
ムーンの言うことももっともだ。
実際、ゲームでもエマは、バーにはついていかない。
だけど、この先の展開を、恵麻はある程度知っている。自分が行くことで役に立てる部分もあるだろう。
それに、セレスティアン・コートでのことを鑑みると、多少、自分が行動を変えたとしても、ストーリーの流れは変わらないと分かった。おそらく何らかの制約や修正がかかるはず。
それなら、ただ漫然と待っているよりも、知っていることをフル動員して、少しでも話を進めたい。
「何か事情があるんですか?」
「それは……」
ムーンの深く、静かに探るような瞳がこちらを見ている。でも、責めているわけではない。
適当な理由を探して頭を巡らせるエマに、ルシアンが面倒くさそうに口を挟んだ。
「そもそも、お嬢サマが早く着きすぎなんだよ。まさか朝イチで来ると思わなかったし。本当はアンタが来る前に、ムーン先生と俺で行くはずだったんだ」
口調が、やや乱暴で苛ついている。大人しくムーン先生の言うことに従えと、全身から不機嫌なオーラを発していた。
だが、ここで折れるつもりはない。
「ここにいても、アーデンベイル邸に戻っても、またヘンリーが来るかもしれません。ちょっと事情があって、彼には……その、あまり関わりたくないのです」
ヘンリーの婚約者はエマであって、恵麻ではない。よく分からないまま距離を詰めるわけにも、無下にするわけにもいかないから、できるだけ関わりを避けておきたい。
思いつきで述べた理由だが、嘘ではない。それはムーンにも伝わったのだろう。
「なるほど、そうですか。3人で向かうとなると少し多いですね……分かりました」
ムーンは静かに言うと、インバネスコートとステッキを手に取った。
「エマ嬢も一緒に行きましょう。ただし、くれぐれも私から離れないでください」
ムーンが決断を下すと、さっきまで文句を並べ立てていたルシアンは黙ってハンチング帽を被った。不機嫌なオーラは完全に消えている。
「ルシアン、エマ嬢。では、出掛けましょうか」
「はい、先生」
「お願いします」
エマとムーン、ルシアンの3人は、次なる情報を求めて、エル・クラドールのいるバー『グリムズ・キャット』へと向かうことになった。




