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11 グリムズ・キャット1


「もう、いないみたいだぜ?」


 ムーン探偵事務所の扉から、頭だけ出して辺りを確認していたルシアンが言った。


「あれだけハッキリ断っていたし、婚約者サンも流石に帰ったんじゃない?」


 ヘンリーが扉の前で待ち伏せを続けていないと分かり、安堵したエマとムーンも外に出た。


 行き道では、次々と話しかけて来るヘンリーを躱すのに必死で、あまり周囲を観察出来なかった。改めて、周囲の街並みをぐるりと眺めてみる。18世紀から19世紀前半頃のヨーロッパに似た雰囲気の建物と石畳の道はエマのイメージしていたとおりだ。


 さっきムーンが言っていたとおり、探偵事務所の隣はカフェだった。このカフェは記憶にないから、ストーリー上、関わることはなかったのだろう。


 中途半端な時間だからか、客は少ない。横目に見ながら通り過ぎようとすると、隣を歩いていたムーンが急に、スッと前に歩み出た。どうやら、向こうから歩いて来た大荷物を抱えた女性が、目の前で転びそうになっていたらしい。ムーンが袋に手を添えて支えていた。


「大丈夫ですか、エリスさん」


 ムーンが尋ねると、両手で抱えた紙袋の向こうから、ひょいと顔が覗いた。

 明るい茶色の髪を後ろで一つに留めた可愛らしい女性が、「ありがとうございます」とムーンに礼を言う。


「お持ちしましょう」


 エリスと呼ばれた女性は、ムーンの申し出を「大丈夫よ。もう目の前ですから」と朗らかに断った。


「でも、そうね。できたら、扉を開けてくださると助かります」

「お安い御用ですよ」


 ムーンがエリスの進度に合わせて、カフェの扉を押してやる。扉をくぐろうとしたエリスが、立ち止まってムーンを見上げた。


「そうそう、ムーンさん。先日は角砂糖を見つけてくださって、ありがとう。てっきり切らしてしまったと思っていたから、お客様をお待たせして買いに行くことにならずに済んで、助かったわ」

「どういたしまして。オーウェンの行動パターンを考えれば、難しくはありません。また、お困り事があれば、何なりとお申し付けくださいね」


 いつもの紳士然とした上品な態度に、エリスが「まぁ。頼りになるわ」と満面の笑みを浮かべる。

 その時、エリスは、エマがいることに初めて気がついたらしい。「あら?」とエマに視線を留めたエリスの眉間に、小さくシワが寄った。


「あの方は、どなたですか? 髪の長い……」

「あぁ、依頼人です」

「依頼人?」


 どこか不安げな顔でムーンを見つめる。


「とても大きなイヤリングね。まるで貴族のお嬢様のような方だけど、あのようなお方が、お一人で?」


 一応、守秘義務というのはあるらしい。ムーンは静かな笑みを浮かべるだけで、エマの素性については何も答えない。


「えぇ、依頼人です」


 繰り返される回答に、これ以上、聞いても答えるつもりはないのだと分かる。


「あ……申し訳ありません。余計なことを」


 エリスはさっと目を伏せて謝った。まつ毛が僅かに揺れている。


 憂うような表情の理由が、エマには分かった。

 多分、彼女はムーンが好きなのだ。ムーンは誰にでも紳士的で優しい。ルシアンとはタイプが違うが、端正な顔立ちだ。好きになるのも無理はない。


「あの…はじめまして、エリスさん。わけあって素性は控えさせていただきますが、ムーンさんにとある依頼をしております」


 膝を折って、挨拶をした。言い訳というわけではないが、誤解をさせるのは悪いと思った。


 突然、話しかけたから、エリスは驚いたようだ。やや、ぎこちない笑顔で「そうですか」と答えた。


「ムーンさんは名探偵ですから、きっとすぐに解決なさるわ」


 エリスは「では、また」とムーンやルシアンに別れを告げて、そそくさと店内に入って行った。


 バタンと閉まった扉を、ムーンがじっと見つめている。思い悩むような表情からすると、案外、エリスの恋が実る日も遠くないのかもしれない。


「ムーン先生?」

「……あぁ、すみません。さぁ、行きましょうか」


 ルシアンに呼ばれて振り返ったムーンの顔は、すでに、いつもの理知的な探偵だった。



 てっきりルシアンもグリムズ・キャットに行くのだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。他の調べ事をするからと、道中で別れ、エマはムーンの二人だけでグリムズ・キャットに向かう。


 グリムズ・キャットは繁華街の路地を奥に入ったところにある。いわゆる裏通りだ。街路灯の多い表通りに比べて、道は狭く、汚い。


 流石に午前中だからか、人も少ない。どこかの小間使らしき少年が路上を掃除している。その横では、宵越しの酔っ払いが、樽を枕に眠っていた。


 抜けきらない酒の匂いと気だるげな空気は、恵麻が学生時代に徹夜で遊んだ後の早朝の繁華街を思い起こさせる。

 銀灰色した毛並みの猫が一匹、エマの足元をすり抜けていった。


「あっ、あそこですね」


 ムーンが少し先にある店を指さした。路地に向かって吊り下がっている黒い看板は、マッチのロゴと同じだ。


「何か分かるといいですね」


 気合を入れた、そのとき。後ろでバンッと大きな音がした。

 振り返れば、さっきそこを掃除をしていた男の子が、道に積まれた木箱の上に尻もちをついている。転んだにしても派手な尻もちだ。

 少年は、「んぐ……」と痛そうに呻いている。


「大丈夫?」


 エマは駆け寄よろうとしたが、先に別の男が少年に近づいた。筋骨隆々とした大男だ。肩や首回りなど、少年の倍以上あるのではないか。

 その男に、木箱に乗ったままの少年が威勢良く叫んだ。


「さっさと去れよ! アンタは出禁だろ」

「ふざけんなよ。あのアマ、俺を舐めやがって!」


 激昂した男が、少年の腕を掴む。少年は、振り解こうと必死に抵抗しながら、言い返した。


「うるさい。グリムさんに迷惑かけやがって! どっか行きやがれ。二度と近づくな!!」


 少年の罵倒に、男の顔がみるみる赤くなった。分厚い手のひらを高く持ち上げる。叩くつもりだ。


「危ない!!」


 あんな大きな手で打たれたら、少年の小さな身体はひとたまりもない。


 エマは、少年の前に飛び出した。彼を守るように胸に抱く。


 ビュンと風を切る音。張り倒される……と覚悟したが、衝撃は来なかった。


 腕をほどいて見上げると、ムーンがこちらに背を向けて立っていた。チャコールグレーのインバネスコートがフワリと翻る。


 彼の細いステッキは、振り下ろされる男の腕を止めていた。

 ムーンがステッキを強く押し返し、腕を振り払った。


「なんだ、てめぇ?」


 突然現れたムーンとエマに、男は苛ついていた。ムーンが冷静に言い返す。


「義がどちらにあるかは分かりませんが、自分よりも一回りも二回りも小さい子どもに手を挙げるのは看過できませんね」

「看過できないから、なんだってんだ? 関係ない奴は引っ込んでろ」


 男は、今度はムーンに狙いを定めて、掴みかかろうとした。ムーンはそれをステッキで叩くと、ひらりと交わした。再び掴みかかろうとしたが、同じように、軽くあしらう。


 まともに相手をする気のないようなムーンの動きに、男の怒りに火がついた。


 酔いが回っているのか、怒りのせいか、フーフーと鼻息が荒い。ブンブンとやみくもに振り回す腕がビュンと宙を切った。


 迎え撃つムーンがステッキを構えた。仕込み杖の中には本物の刃が入っている。


 抜くかもしれない、と思った、そのとき。


「やめないか!」


 制止する鋭い声が飛んだ。

 現れたのは、栗色の巻き毛の大型犬のような容貌の男。


「ピアス警部補?!」


 グライトン市警のランドール・ピアス警部補が二人を制止した。


「警部補だってぇ? テメェがか?」


 酔っ払いは酒で据わった目で、ランドールを睨んでいる。見るからに人が良さそうなランドールには、あまり脅威を感じないのだろう。明らかに軽視している。


 ランドールは懐から黒いパスケースのようなものを取り出した。おそらく警察手帳だ。


「グライトン市警のランドール・ピアスだ。疑うというなら、今すぐ貴方を署まで、しょっぴいてやりましょうか?」


 フフと笑う。大型犬の素直なランドールからは意外なほど、凄味のある笑顔だ。若くして警部補になったのは、やはり伊達ではないようだ。

 その横では、ムーンがステッキを構えている。


 酔っ払いは分が悪いと悟ったのか、「チッ」と舌打ちした。少年が睨むと、ぺっと唾を吐きかけた。狙いが当たって少年の頬に唾がびしゃっとかかると、多少満足したらしい。


「何がグリムだ。あんな不味い酒、頼まれたって、金輪際飲む気ねぇよ」


 捨て台詞を勝ち誇ったように言って、千鳥足で去っていった。


「大丈夫?」


 エマはハンカチを取って、少年の頬を拭いてやる。拭ったハンカチが酒臭さに、思わず顔を顰める。

 普段から繁華街にいるから慣れているのか、少年は手の甲で、乱暴に頬を拭うだけで、あまり気にしている様子はない。


 ランドールが少年の手を取り、起こしてやる。


「二人とも、ケガはありませんか?」

「ランドールさん。助けていただき、ありがとうございます」


 立ち上がって頭を下げると、ランドールが「いえ、私は大したことしていません」と照れ笑いをした。


「それより、エマさん。昨晩は大丈夫でしたか? 例の怪盗に襲われたと聞きました。お怪我などはされていませんか?」

「えぇ。幸いすぐにムーンさんの助手のルシアンが助けに来てくれましたので」


 ルシアンの名に、ランドールが「あぁ、彼ですね」と苦笑した。

 ルシアンはランドールのことを「ワンコロ警察」と言って、散々悪態をついていた。思うところがあるのだろう。


「貴女をお守りできず、申し訳ありませんでした。指一本さえも触れさせないつもりだったのですが……」


 しゅんと悄気ているランドールには、さっき男を睨んだときのような凄味は全くない。やっぱり犬みたいだ。


「それよりランディ、どうして君がここに?」


 ムーンの質問に、ランドールは、「ちょっと事件の調査で」と、声を潜めた。エマとムーンには聞こえるが、少年にはギリギリ聞こえないくらいのヒソヒソ声だ。


「実は、エル・クラドールがこの辺に出没したらしいという情報を掴んだんです」

「それって、もしかして……グリムズ・キャットですか?」


 警察の捜査網にもひかかっているのだろう。


「私たち、これからグリムズ・キャット向かうのですが、ランドールさんもご一緒しますか?」


 エマの誘いに、ランドールは渋い顔で「グリムズ・キャットですか……」と唸った。


「あの、何か問題が?」

「あそこの店は、『グリム』という名の女店主が切り盛りしていましてね、別件でも何度か聞き込みで言ったことがあるんです。裏通りで店を構えているだけあって、気風のいい女ではありますが、何というか、私は少し苦手で……」


 グリムというキャラクターのことは、エマも知っている。

 サバサバとした性格で、見た目は華奢だが、海千山千のゴロツキたちを相手にしてきた女店主だ。肝の据わり方が、そんじょそこらの者ではない。

 一筋縄ではいかない性格は、いかにも素直なランドールにとって相性が悪いタイプかもしれない。


「私はこの辺りで、もう少し聞き込みを続けますから、グリムズ・キャットへは、どうぞ、お二人で行ってきてください」


『グリムズ・キャット』という店名が、少年にも聞こえたのだろう。


「グリムズ・キャットへ行くんですか? それなら、俺もこれから戻るところだ」

 

 ランドールとは、何か分かったら互いに持ち寄ることを約束し、エマとムーンは少年とともに『グリムズ・キャット』へと向かった。


サブタイトルに反して、まだ店に着かず、です。。。

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