5 エマの知らない事件
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エマとムーンがアーデンベイル家の別邸に戻ったのは、湖面が茜色に染まりかけた頃だった。
「おかえりなさいませ」
出迎えのミセス・エバンズの顔が、出掛けた時よりも険しい。それも当然だ。エマとムーンが出かけている間に、アーデンベイル邸では事件が起こっているはず。
「遅くなって、ごめんなさい」
つい心は身構えてしまうのだけど、それをなるべく表に出さないように努めて振る舞う。
「ミセス・エバンズ。私たちの留守中に、何かありましたか?」
エマではなく、ムーンが尋ねた。
質問する声が何となく固く、鋭い。ミセス・エバンズのポーカーフェイスを見破っているのなら、さすがの洞察力だ。
ミセス・エバンズはいつもより一層、厳しい顔つきで、僅かに顎を引いた。
「お部屋でお話いたしましょう」
エマとムーンが応接間のソファに腰を落ち着けると、ミセス・エバンズがその出来事について話し始めた。
「実は二人がお出かけの間に、厩を管理しているジョンが、何者かに襲われました」
「え……?」
驚愕が口から漏れた。
演技でない。心底驚いていた。
「気を失って倒れていたところを屋敷の者が見つけました。先程、お医者様には診ていただきましたが、まだ意識が戻っておりません」
「あの……襲われた、んですか? その…どなたが?」
「厩の管理人のジョン・ベイリーです、お嬢様」
エマとムーンが外出するとき、通りがかりに見かけた厩のことだろうか。バケツを持った男性の後ろ姿が遠くに見えていた。
あの人がジョン・ベイリーかもしれない。
その『ジョン』が襲われた。一体、誰に? どうして? そんな展開、エマは知らない。
それは、エマが想定していた事件ではない。
「大丈夫ですか?」
こちらを窺うムーンの眉間に、ギュッと深い皺が寄っている。
「え?」
「顔色がかなり悪い」
ハッと頬に手を当てた。
「いえ、あの……」
「ジョンは古くからの使用人です。お嬢様が幼い頃、とても可愛がっていたのです」
「そうですか。それは心中お察しします。動揺するのも無理はありません」
ムーンが痛ましそうに言った。
エマの肩が震えていたからだろう。ミセス・エバンズが、すぐに薄いショールを持ってきて、かけてくれた。
「お嬢様。よろしければ、後でジョンを見舞ってやってください。お嬢様がお声をかければ、目を覚ますかもしれません」
「え……えぇ、是非そうしたいわ」
エマの顔色が悪かったのは、馴染みの使用人が襲われたからではない。もちろん、ショッキングな出来事ではあった。
けれども、エマが動転しているのは、自分の知っているストーリーにはない事件が起こったからだ。
「ジョンさんの意識が戻っていないということは、襲われた状況や犯人については何も分からないのですか?」
動揺しているエマに代わって、ムーンが状況の確認を始めた。
「お医者様によると、後頭部に怪我があるので、背後から頭を打たれて気絶したようだと。ただ、意識が戻っても、その時のことを覚えているかどうかは……」
「背後から…ということだと、犯人の顔を見ていないかもしれませんね」
ミセス・エバンズが悩ましげに眉を顰めた。
「実は……問題は、それだけではないのです」
「と、おっしゃいますと?」
「ジョンのこととは別に、王妃のティアラが納められた宝石箱を開ける鍵のうち、一つが盗まれました」
エマは息を呑んだ。
今度は、知っている事件だ。
エマとムーンが出かけている間に、アーデンベイル邸に、エル・クラドールが盗みに入る。それがゲームのストーリー。
ということは、本筋の話もシナリオ通りに進行しているということだ。
「鍵の1つということは、すぐにティアラそのものが盗まれるという状況ではないのですね?」
「最前、エマお嬢様がお話したように、公妃のティアラを納めている宝石箱を開けるには、4つの鍵が必要です。その4つが揃わなければ箱は開きません。今回、盗まれたのは、そのうち一つだけです」
「盗まれたの鍵というのは、どこにしまってあったのですか?」
「主寝室の奥のドレスルームです。鍵のかかる金庫に入れてありました」
「見せていただくことはできますか?」
ムーンがエマに許可を求めた。使用人のミセス・エバンズでは許可を出せないからだ。
「構いませんが、私もご一緒してもよろしいですか?」
「勿論です。エマ嬢の立ち会いのもと、現場を拝見いたしましょう」
ミセス・エバンズが、「併せて、こちらを」と盆に乗った白い封筒をムーンに差し出した。
「その主寝室の机の上に置いてございました」
封筒には、黒色蝋の刻印。開封済だから蝋が割れているが、刻印の意匠は、鍵を咥えた狼。最初の封筒についていたものと同じだ。
特徴的な図案に、ムーンはすぐに差出人の名を呟いた。
「エル・クラドールですね」
盗まれた時点で、彼の仕業であることは分かっている。
ムーンは封筒を手に取って、目を通した。
サッと読み終え、ミセス・エバンズに目配せした。この手紙をどう扱うべきか、視線で相談しているように。
その意図を、エマは知っている。
「私宛なのですね?」
エル・クラドールからの手紙は、「エマ・アーデンベイル」に宛てている。アーデンベイル邸に保管されている残る2つの鍵をある場所に持ってくるように、という内容のはずだ。
やや気まずそうな沈黙のあと、ムーンが「そうです」と頷いた。
「拝見させてください」
果たして手紙には、エマが知っている通りのことが書いてあった。
『アーデンベイル邸の麗しきご令嬢へ
白霜に包まれた美しき公妃のティアラを封じた鍵を頂戴いたしました。
貴女がお持ちの残る2つにつきまして、5日後にセレスティアン・コートにて開かれる絢爛なる宴に、ご令嬢自らがお持ちください。
美しく着飾ったご令嬢にお会いできるのを、愉しみにお待ち申しております。
LC 』
「セレスティアン・コート……王都にあるホテルですね。絢爛なる宴というと、舞踏会かしら。そこにエル・クラドールが現れるのね」
格式高く、由緒あるホテルだ。
この手紙を機に、ストーリーの舞台はアーデンベイル邸から王都へと移る。いよいよ、エル・クラドールと本格的に相見えることになる。
「行かない、という選択肢もありますよ」
気合を入れたところなのに、ムーンの唐突な提案に、エマは戸惑った。
「でも、エル・クラドールが……」
「鍵の1つは盗まれましたが、残る3つがなければ宝石箱は開かないのでしょう? これは挑発です。こちらが、それに付き合う道理はありません」
言われてみれば、確かにそうだ。
エマは行くのが当然だと考えていたが、盗まれた1つの鍵さえ諦めれば、ティアラが盗まれることはない。合理的な判断だ。
だが、行かないとストーリーが進まない。それでは困る。
「……鍵の1つはすでに盗まれています。ティアラは守れますが、鍵がなければ、私たちも永久に取り出せなくなるかもしれません。それを『守った』といえるのでしょうか?」
エマの反論をムーンは黙って聞いていた。
「それに、ムーンさんはエル・クラドールを捕まえなくてはならないでしょう? 私が行けば、怪盗は現れます」
宿敵であるエル・クラドールを捕らえられるチャンスなのだ。ムーンにとっては魅力的だろう。
「私は反対です」
エマとムーンの会話に、毅然と口を挟んだのはミセス・エバンズだ。
「ティアラよりも、お嬢様に何かあっては大変です。ムーン卿の仰るとおり、お嬢様が出向く必要はないかと存じます。お嬢様の身に万が一、ジョンのような事があっては……」
「もし私が出向かないことで、エル・クラドールの逆鱗に触れたら? 舞踏会ではなく、またこの屋敷に盗みに入り、他の使用人や貴女がジョン・ベイリーのような目に遭うかもしれません」
どうしてあんな事件が起こったのか分からない。それでも、シナリオ通りに進行しているのは確かだ。ここでストーリーを曲げるわけにはいかない。
恵麻が元の世界に帰るには、それしか方法がないというのに。
「エマ嬢の決意は固いようですね」
ムーンが静かに言った。
「ミセス・エバンズ。エル・クラドールは女性に無体を働くような輩ではありません。エマ嬢もティアラも、私が守ると約束しましょう」
ミセス・エバンズを見上げたムーンの黒い髪がハラリと揺れる。ムーンの綺麗な顔が精悍に引き締まった。
「……出過ぎた口を挟みました」
ミセス・エバンズは一礼して、下がった。
ミセス・エバンズからの報告が全て終わると、ムーンは二つの犯行現場を確認することになった。ジョン・ベイリーが襲われた場所と鍵がしまってあった金庫だ。
ジョン・ベイリーの襲われた場所にエマが行くことは、ミセス・エバンズ反対されたから、その間にエマは襲われたジョンの見舞いに行くことになった。
ジョンの住まいは、使用人たちが使っている離れの建物で、厩舎に一番近い、端の部屋だった。
襲われたのは、厩舎と彼の部屋の間だという。普段はジョンくらいしか通らない場所だ。
たまたま他の使用人がジョンに用事があり、探していたから、倒れているジョンを見つけることができた。
ムーンとミセス・エバンズと別れ、エマはノックをしてからジョンの部屋に入った。
ジョン・ベイリーの部屋は、板張りの床に、小さなベッドと箪笥だけの質素な部屋だった。草と馬とお日様の匂いがする。温かくて優しくて、どこか懐かしい匂い。
ジョンはベッドに眠っていた。
「ジョン…………さん」
エマにとっては馴染みのアーデンベイル邸の使用人でも、恵麻にとっては見知らぬ男性だ。何となく、呼び捨てにするのは憚られる。
50代半ばくらいの厩舎の管理人は、日に焼けた小麦色の肌の痩せた男だった。健康的な見た目に対して、頭に巻かれた包帯がかえって痛々しい。包帯のすぐ下に生えた、白髪交じりの太い眉には、何となく見覚えがあった。
ゲームで見た顔だからなのか。それとも覚えていないだけで、エマの中に眠る記憶のせいなのか。
多分、後者だ。
頭の包帯に、胸の奥がギュッと締め付けられる。ミセス・エバンズが言うには、幼いエマを可愛がってくれた人だという。
小さいエマは、馬に興味を持ったのだろうか。世話をしたがったり、乗りたいと言ったりして、ジョンを困らせたこともあったのかもしれない。
「不思議ね。知らないはずなのに、とても懐かしい気がする」
しばらくジョンの傍に座って、彼の寝顔を眺めていると、ムーンとミセス・エバンズが戻ってきた。
今度は、盗まれた鍵の入っていた金庫の場所に行くという。
歩きながら、ジョンが襲われた場所の検分ついて、話を聞いた。
「いかがでしたか? ジョンが襲われ状況や犯人について、何か分かりましたか?」
「いえ。まだ、何とも。ただ、少し離れた場所に、男性の足跡がありました。ジョンさんの靴とは違う跡です」
ジョンが襲われた場所は地面が固く、足跡が残るような所ではなかったが、ムーンが範囲を広げて観察していると、外との壁の手前に地面が柔らかいところがあって、そこに足跡が残っていたのだそうだ。
「犯人は外から侵入したのでしょう。壁の上から飛び降りたときに着いたんです」
「エル・クラドールは、そんな雑な侵入の仕方をするでしょうか?」
素直な違和感を口にしたつもりだが、ムーンはイエスともノーとも答えなかった。
主寝室につくと、ミセス・エバンズが鍵を取り出した。ムーンが目ざとく尋ねる。
「この部屋には、いつも鍵を?」
「はい。今は誰も使っておりませんので」
本来なら、邸宅の主が使う部屋だそうだ。
エマの使っている部屋と似ているが、こちらのほうがやや大きい。調度品は、ベッドや机などの家具が一揃い。全て立派なものだが、どこか格式張って重々しい。
「お嬢様がお使いになってもよろしいのですが、今のお部屋の方が日当たりが良いので」
確かに今朝は、外からの朝日で目が覚めた。広いバルコニーから見渡す湖も美しく、エマの部屋の方が好きだ。
そういえばエマは、この屋敷に自分以外の家族が住んでいるのかどうかを知らない。ミセス・エバンズの口ぶりだと、おそらくいないのだろう。
ここは別邸という話だから、父親であろうアーデンベイル伯爵は本邸にいるのだろうか。父がどういった人物なのか、そもそも存命であるのかすらも、エマは例によって思い出せないのだ。
「ドレスルームにご案内いたします」
部屋の奥に衣装室に繋がる扉があった。
現代風にいうならウォークインクローゼットだろう。エマの知るウォークインクローゼットの中ではかなり大きい方だと思うが、それでも大人が3人入ると流石に手狭だ。
壁際に並んだキャビネットのうち一つを開けると、中に黒い金庫が据え付けてあった。
金庫には丸いつまみがついて、その周りには数字が書いてある。
「よくあるダイヤル錠ですね」
ムーンが取っ手を掴んで回そうとしたが、動かない。
「開けていただけますか?」
ミセス・エバンズがダイヤル錠をくるくると左右に回した。正しい順番で、正しい回数を回さないと、開かない仕組みだ。
ミセス・エバンズは開け方を覚えているようで、あっという間に鍵が開いた。
「どうぞ」
金庫の中には、さらにいくつかの小箱が入っている。衣装室だから、アクセサリーや宝飾品が多いのだろう。
「盗まれたティアラの鍵は、どちらにあったんですか?」
「この箱です」
ミセス・エバンズは、上段の薄い箱を指差した。
ムーンは手袋を嵌めると、箱を取り出した。この箱は鍵はかかっていないようで、簡単に開いた。
勿論、中身は空っぽだ。
「この金庫の鍵を開けられる人は?」
「今、この邸内にいる者では、私だけです」
「この邸内にいる方に限定しなければ、ミセス・エバンズ以外にも?」
「勿論おります。但し、全員、信用できる使用人ばかりですが」
ムーンは「そうですか」と軽く頷いた。
「あの…屋敷の使用人が裏切っているということでしょうか?」
ゲームの中では、この手の物は全て謎解きの問題だった。解ければ開けることができたが、このダイヤル錠では、そうはいかない。番号を知らなければ解錠できないだろう。
だが、ムーンは「いえ、そうとは限りません」と否定した。
「エル・クラドールはこの手の金庫を破るのは得意です。見たところ、特殊な金庫ではありませんし、協力者などいなくとも開けられるでしょう」
それを聞いて、ホッとした。
今の自分はエマだ。やはりアーデンベイルの使用人を疑いたくはない。
「ティアラの鍵は他にも2つありましたよね? 残る鍵はどちらに?」
「それは……」
ミセス・エバンズがエマを見た。答えるべきか、判断を委ねられている。
「残る2つは、私が自分で保管しております」
「エマ嬢が? どちらに? お部屋ですか?」
「それは……」
少し迷ったが、断った。
「お答え出来ません」
ゲーム通りだから、これで問題ないはずだ。
だが想定に反して、ムーンが問い返してきた。
「念のため、保管されている場所だけでも見せていただくことは出来ませんか? もしかして、すでに持ち去られている可能性もあるかもしれません」
「いえ、それはありません」
「何故、そう言い切れるのですか?」
エマは答えに窮した。
何故、ムーンがこんなにもしつこく聞いてくるのかも分からない。ムーンの鋭い視線が、エマの顔を正面から捉えている。
その追求から逃れる術を思いつかない。
アーデンベイル家はムーンを雇ったくせに、この時点では、まだ信用していない。
しかし恵麻は、ムーンが信頼できる人間だと知っている。彼は名探偵であり、主人公だ。すでにエマも鍵も守ると約束してくれた。
本来のストーリーとは異なるが、全てを打ち明けてしまってもよいのではないか。
そう思い直したが、先んじてムーンが「まぁ、いいでしょう」と、話を打ち切った。
「実際、まだ盗まれてはいないでしょうし」
「……何故、断言できるのですか?」
「エル・クラドールはセレスティアン・コートの夜会に鍵を持ってくるようにと言った。ということは、現段階では盗んではおらず、こちらの手元にあるということです。すでに盗んでいるものを持参させようとするはずはないし、手紙を残した以上、彼はその場で盗るつもりでしょう。そうでないと、彼の美学に反しますからね」
「なるほど。確かにムーンさんの仰るとおりですね」
だが、エマは腑に落ちなかった。
エル・クラドールのことではない。ムーンの言動が、だ。
そこまで確信しているのなら、何故、盗まれていないか確認させろなどと食い下がって聞いてきたのか。
しかし、それを追求する隙なく、ムーンはミセス・エバンズに「参考になりました。ありがとうございます」と告げ、本日の捜査は打ち切られた。




