4 告解室
礼拝堂には、長らく人が訪れていないのだろう。黴臭い匂いと、時が止まったような静謐な空気に満ちていた。
「ムーンさん、中に…」
入りましょうか、と振り返れば、彼はまだ扉のところにいて、しきりにギイギイと動かしている。
「あの…中に入らないんですか?」
「そうですね。うーん……いや、実に不思議だなと思いまして」
「何がですか?」
近寄ると、ムーンが「これですよ」と見せてくれた。
「鍵、ですか?」
外から金属片で持ち上げて開けた鍵だ。片側をピンで留めた掛け金の錠は、扉にぶら下がってフラフラと揺れている。
「どうして礼拝堂には鍵がかかっていたのかな?」
ムーンは鍵から離れると、今度は入り口にしゃがみ込んで、じっと床を見つめた。
「ホラ、見てください。床には埃が積もっているでしょう? しばらく誰も歩いていない証拠だ。先程、外から覗き込んだときには窓の枠にも埃が積もっていましたから、長らく開閉されていません」
礼拝堂の中に人はいない。にも関わらず、礼拝堂は内側から鍵がかかっていた。どうやって、かけたのか。
「外から鍵をかけたのではないですか?」
それが最もシンプルな答えだろう。恵麻の読んでいたミステリー小説や漫画でもよくある。
「外から……ほう、どうやって?」
「先程、ムーンさんが外から金属片を差し込んで押し開けたでしょう? それと同じように、金属片で鍵が落ちてこないように押さえながら外にでて、扉を閉めてから板を抜けばいいのではないですか?」
そうすれば錠が重みで落ちて、受け金に嵌まるだろう。
「なるほど。では、やってみましょう」
ムーンが早速、金属片で鍵を押さえながら外に出た。扉が閉まり、壁の間に差し込まれた金属の薄い板がゆっくりと抜かれていく。
「あれっ?!」
錠は上手く受け金にはまなかった。
作りが甘いのか傷んでいるのか、錠部分の棒を留めているネジがグラグラしている。そのせいで、板を抜いても受け金の手前を素通りして、ブランと落ちてしまうのだ。
当然、手で錠を持って、扉側に向けて軽く押しながら回せば、きちんと受け金にはまる。
ムーンが何度かやって見せたが、結果は全て同じ。板を使って外から鍵をかけるのは難しそうだ。じゃあ、どうすればいいんだろう。
「あ! それなら、糸で向こう側に引っ張りながら閉めてはどうでしょう?」
「糸で、どのようにするのですか?」
錠に糸を引っ掛けて、扉を閉める。扉と壁の隙間に通した糸を、手前に引きながら錠が下がるように引っ張る。錠が下りたら、最後に隙間から糸を引けばおしまいだ。
「これなら、扉側に引く力がかかり、錠が上手くかかるのではないですか? まぁ、糸がないので確かめられませんが…」
エマの説明に、ムーンは何度か錠を上下させながら、頷いていた。
「そうですね。確かに貴女の言う方法でなら、外から鍵を閉められるかもしれません」
これではあまりに単純で、これではミステリーの密室トリックにならないだろうな。ムーンならすぐに気づきそうなものなのにと不思議に思っていたら、不意にムーンが尋ねた。
「ところで貴女は、いつも、こんなことを考えているんですか?」
探るような目を向けられて、エマは思わず息を呑んだ。
数多の推理ゲームや漫画、小説に触れてきた記憶から、単純な仕掛けだと口にしたけれど、エマのような令嬢がスラスラ述べ立てるようなことではなかった。
誤魔化さなければならないと、頭の中で警鐘がなっている。
「あの、たまたま思い付いただけで……」
「そうですか。たまたま」
まごまごと言い訳をしようとするが、上手い答えが出てこない。私の存在を疑われたら、このあとの展開が変わってしまうかもしれないというのに。
しかし、ムーンはそれ以上追求してこなかった。パッと背を返し、「礼拝堂の中を見てみましょうか」と、歩き出した。
「ひょっとしたら人が潜んでいる可能性もゼロではありませんし」
助かった、と言っていいのか分からなかった。
ムーンが今のエマを見て、何も感じなかったとは思えない。
エマはやや躊躇ってから、ムーンの後を追いかけ、礼拝堂の中に入った。
改めて眺めてみても、礼拝堂の内装は質素だ。
3人ほど座れる木製の長椅子が左右に3つずつ、縦に7列並んでいる。真ん中の通路の先、一番奥には、こちらに向けて手を広げた小さな女神像が置いてあった。
宗教的な装飾といえるようなものは、その女神像くらいで、他には何の飾りもない。
「どうやら、誰もいないようですね」
てきぱきと椅子や窓を調べ回っていたムーンは、女神像の左脇に来ると、足を止めた。
「おや、告解室がありますね」
入り口からは柱の陰になって見えなかったが、確かに女神の奥に扉がある。ムーンが扉を開けた。
ムーンの言う通り、おそらく告解室だろう。
告解室とは、信徒が自らの行いを懺悔するための部屋だ。海外旅行に行ったときに、外国の大きな教会のものを見たことがある。確か、司祭のいる部屋が隣り合わせにあって、小窓で繋がっているはず。
神や己の罪と向き合うための場所だから、告解室は、暗くて狭い。ここも、外の光がほとんど差し込まない小さな部屋だ。
ムーンは興味深そうに、小さな部屋に入った。
エマも続いて、小部屋を覗き込もうと頭を伸ばした。
その瞬間、背にぶわりと冷や汗が噴き出した。
手指が震え、足が竦む。心臓をぎゅっと掴まれたように息苦しくなり、ハッハと喘ぐような呼吸が漏れた。
いけない、忘れていた……ーーー
視界がチカチカと光が瞬き、意識が遠くへ落ちていく。何も聞こえず、何も見えない。
「…アー……ル嬢! ……エマ嬢ッ?!」
ハッと気づくと、誰かに両の二の腕を掴まれていた。
「大丈夫ですか?」
ムーンだ。告解室の中にいたはずなのに、いつの間に側に来たのだろう。
「あの……私?」
「失礼。今にも倒れそうだったので、つい手を」
エマの様子を見て、ムーンがゆっくりと片方の手を離した。どうやら自分は気を失いかけていたらしい。
「顔が真っ青ですよ」
「だい、じょうぶ…です」
「とても『大丈夫』には見えません」
エマの腕を支えているムーンの手に、力がこもる。
ムーンの細い身体越しに、告解室がみえた。暗くて、狭い。ポッカリと開いた入り口が、奈落へ誘う穴のように構えている。
エマは気分が悪くなって視線を逸らした。
「あの……実は私、狭くて暗いところが苦手で」
ムーンは、背後を振り返り「なるほど」と頷いた。
精一杯、令嬢らしく取り繕う笑顔をしてみたが、多分、とても情けない顔をしているだろう。
「お恥ずかしい話ですが」
「別に恥ずかしくはないでしょう?」
エマの言葉を、ムーンは即座に否定した。
「誰にだって、苦手なものの一つや二つ、あるものです。恥ずかしがる必要なんて、ありませんよ」
彼らしい、紳士的で優しい微笑み。掴んでいる手が、エマをしっかりと支えてくれているようで、不思議な安心感を覚えた。
ムーンはエマから手を離すと、屈んで、床に落ちた白い花を拾った。花売りの少女から買った花だ。それをエマに差し出した。
「礼拝堂の外までお送りしましょう。風に当たって、少し休んでいたほうがいい」
改めてエスコートを申し出てくれたムーンに、エマは礼を告げて、断った。
「ありがとうございます。でも、一人で行けますから」
「しかし……」
「ムーンさんは、何か調べていらしたのでしょう? どうぞ、続けてください」
強がりではなく、本当に大丈夫なのだ。
先程までの激しい動悸や気分の悪さはちゃんと治まっている。むしろ早く一人になって、混乱する頭を整理したい。
「分かりました」
ムーンがエスコートに差し出した手を、ゆっくりと下ろした。
「気をつけてください。なるべく早く済ませて、戻りますから」
「はい、ありがとうございます」
エマがくるりと踵を返すと、「チョット待って」と、ムーンに呼び止められた。
何やらコートの内側をガサゴソと探っている。
「あぁ、ありました」
取り出したのは、銀色の丸い缶。開けると、中には紙で包まれたキャンディが5粒程入っている。
「それ、は……」
ハッカのキャンディ!
「ハッカのキャンディです」
エマの脳内とムーンの台詞がハモった。
ハッカのキャンディはムーンの好物だ。
鼻に抜けるようなスッキリとした味わいが物事を考えるときに心地よい刺激になると、彼は好んで食べるのだ。
でもムーン本人は、この好物を子どもっぽいと思っている。だから、あまり親しくない人に、このキャンディを見られたら、必ず決まった言い訳する。
「これは、助手の好物でね。彼はまだ、子どもだから」
ゲーム通りの言い訳に思わずクスリと笑いが漏れる。おかげで肩の強張りが解けた。
ムーンは銀の缶の中から一つとって、「よければ、どうぞ」と、エマの手のひらに乗せてくれた。
「ありがとうございます。いただきます」
礼拝堂を出る時に改めて振り返ると、ムーンが腰を屈めて、何かを床から拾っていた。紙の束みたいだ。
そのまま告解室の中に入っていったようで、ムーンの姿は見えなくなった。
礼拝堂の外に出ると、雄大な景色に心が緩んだ。湖からの風がエマの頬を撫でていく。
草の上に腰でも下ろそうかと屈みかけたところで、思い直してハンカチを敷いた。何となく、地面に直に座るのは伯爵令嬢らしくない気がした。
ハンカチの上に座って、ハッカのキャンディを口に放り込む。人心地つくと、いろいろなことが頭を巡った。
告解室での出来事は、大事に至らなくて良かった。それにしても、気を失いかけてしまうだなんて。
佐伯恵麻は、狭くて暗いところが苦手だ。いわゆる閉所及び暗所恐怖症というやつだ。
狭いだけ、暗いだけなら、まだ、なんとかなる人よりちょっと苦手、程度だろう。
だけど、『狭くて、暗い』が両方揃うとダメだった。壁が迫ってきて、息苦しくなる。閉じ込められている感覚に、不安で心が落ち着かなくなる。
原因は分かっていた。
小学校低学年の頃に、工事現場に掘ってあった穴に落ちたことがあるのだ。
雑な業者で、通行止めの虎柵も置いていなかった。夕暮れ時、遊んでいた友だちと別れて帰る道すがら、上を塞いであった鉄板の隙間から落下した。そのまま誰にも気付かれずに一晩閉じ込められた。
翌早朝に救助された恵麻は衰弱しきっていて、すぐに入院となった。二、三日で元気になったそうだが、恵麻にはその時の記憶がない。
友だちサヨナラをして、気がついたら病院のベッドにいたという具合だ。
医者によると、頭を打っていたことに加えて、閉じ込められた恐怖による健忘らしい。その事件を機に、暗くて、狭いところが怖くなった。
両親によると、それまでの恵麻は、かくれんぼが大好きだったそうだ。しかし事件後は、一切やらなくなった。
エマ・アーデンベイルになったことで、容姿や視力など、身体的に変化があったから、恐怖症のことをすっかり忘れていたけれど、どうやら心や頭は元の恵麻のままみたいだ。
いや、むしろ恵麻の時より、今のほうが酷い。以前は、狭くて暗いところは怖くて落ち着かなくて苦手だったが、気を失いかけるようなことはなかった。
きっと、慣れない世界に突然連れてこられたせいで、心が疲れていてるのだろう。その精神的疲労が、恐怖症に拍車をかけている。この世界にも精神科医はいるなら、きっとそう診断するに違いない。
エマは目を瞑り、深呼吸をした。
水分を含んだひんやりとした風を感じる。舌の上で転がしたハッカのキャンディがスゥっと鼻に抜けた。
脳が冷える。今、この瞬間が、現実なのか夢なのか、分からなくなってきた。
エマになってから、たった数時間しか経っていないはずのに、とても長く感じる。だけど一方で、目を開ければ全て一瞬で消え去る夢だったんじゃないかという気もした。
酔いが覚めて、気がついた時には都会の薄暗い路地脇にいる。そして、家に帰って熱いシャワーを浴びて、量販店の布団カバーに包まれて眠れば、翌朝には、いつもと同じ1日が始まる。そんな気もするのだ。
ギイイと軋む音に、ハッと正気に戻った。
「お待たせしました」
ムーンが礼拝堂から出てきた。
「エマ嬢、気分はいかがですか?」
「もうすっかり大丈夫です。ハッカの飴のおかげで」
ムーンのクールで端正な顔が、嬉しそうに笑った。
「それは良かった。では、そろそろ屋敷に戻りましょう」




