2 名探偵アリステア・ムーン
『名探偵ムーンと守りの指輪』は、恵麻が中学生の時に出た謎解きRPG『名探偵ムーンシリーズ』の記念すべき第一作目だ。
舞台は英国風の架空の王国アルビオンで、プレイヤーは、探偵であるアリステア・ムーンを動かして、パズルや謎解きをしながらストーリーを進めていく。
もともと謎解きゲームが好きだった恵麻は、発売されるや否や入手して、やり込んだ。
第一作目は、ムーンが湖水地方に住むとある伯爵令嬢からの依頼を受ける場面で始まる。
その依頼者こそ、エマ・アーデンベイル。今まさに、恵麻が扮している人物だ。
佐伯恵麻としての最後の記憶は、光ったゲーム機の画面だった。
そのゲームが『名探偵ムーンと守りの指輪』で、恵麻はゲームの中に吸い込まれてしまったのか。そうでなければ、この世界に転生したとでもいうのだろうか。
そして、エマ・アーデンベイルとなったとでも?
そんな馬鹿な。到底、信じられない。全く現実的じゃない。
これからどうすればいいんだろう。
ここから抜け出して、元の世界に戻る術はあるのかしら……
「エマお嬢さま?」
先程から黙りこくっているエマに、グレイヘアの女性が尋ねた。
確か彼女はアーデンベイル邸のメイド長だった。キリッとしたポーカーフェイスは、ゲームのイメージそのままだ。
「ムーン卿にお会いになりますか?」
「ムーンに……?」
会うべきなのか。
こんなにも分からないことだらけの状況で、会っても大丈夫なのか。
ゲームのストーリーは、アリステア・ムーンがこの屋敷でエマ・アーデンベイルと面会することで進み出す。
もしかして、事件を全て解いて、ストーリーを完結させれば、自分は元の世界に帰れるのではないだろうか。それならムーンと会わなければならないだろう。
どうすればいいのか、分からない。
けれど、他に手がかりはない以上、ともかく前に進むしかない。腹を括ろう。
「ムーンさんに会います。えぇっと……」
恵麻はメイド長に支度を頼もうと思ったけど、彼女を何と呼べば良いのか分からなかった。
メイド長は、伯爵令嬢のエマにとっては重要な人物だが、物語全体では端役だ。
「ヘレン・エバンズでございます。エマお嬢さま」
エマが困っているのを察知して、ヘレン・エバンズが名乗った。
そうだ。彼女の名はエバンズ。エマはこう呼んでいた。
「まずは着替えがしたいわ、ミセス・エバンズ」
「かしこまりました。準備して参ります」
ミセス・エバンズが慇懃に頭を下げ、部屋から出ていった。
不思議な心地だった。
ミセス・エバンズーーー彼女のことを、そう呼んだ瞬間、何かがストンと落ちた。
自分が佐伯恵麻ではなく、物語の一部として、エマ・アーデンベイルとして、ここに存在しているのだと妙にしっくりと馴染んで感じた。
* * *
着替えを終えたエマは、応接室の扉の前で深呼吸をした。
この扉の向こうにムーンがいる。
伯爵令嬢として品のある、淡い黄色をベースにしたドレス。シルバーで細かな細工を施したピンクゴールドのネックレスとエメラルドのイヤリング。
美しく飾り立てられた自分は、まるで自分じゃないみたい。
私はエマ・アーデンベイル。失敗は許されない。上手くゲームを進めなくては。
ミセス・エバンズに頷くと、扉がゆっくりと開かれた。
アーデンベイル邸の応接間は落ち着いた雰囲気の部屋だった。色彩に派手さはないが、重厚なチェストや机は、値の張るものだろうと思われた。
ムーンは、やや前屈みの姿勢でソファに座っていた。何か考え事でもしていたのか、腕を組んで俯いていたムーンは、エマの入室に気づいて身体を起こした。
「お待たせ致しました」
「いえいえ、大して待っていません」
立ち上がったムーンと顔を見合わせた瞬間、思わず息を呑んだ。
驚いた、なんて表現では全然足りない。
仰天、驚愕、驚天動地。
名探偵ムーンシリーズにおいて、アリステア・ムーンという人物は主役中の主役である。
だけど全体的に可愛らしい絵柄のゲームだったから、彼の顔はマクワウリに点と棒を組み合わせたみたいなキャラクターデザインだった。
それでも十分に紳士的な探偵の魅力は伝わってきたのだ。
それなのに、目の前のアリステア・ムーンは、画面の中で何度も見てきた男と全く違う。
細面の端正な顔立ち。長いまつげと整った眉毛。耳にかかった黒髪は、夜露に濡れたように艷やかだ。
エマはミセス・エバンズをチラリと見た。
彼女も確かにゲーム上ではデフォルメされていた。だけど、いかにも礼節に厳しいメイド長といった趣はそのままで、間違いなくミセス・エバンズだった。
エマだってそうだ。
支度をするときに初めて鏡で自分の顔を見た。腰まで伸びたミルクティーブラウンの髪に、愛らしい目鼻立ち。思っていたよりも可愛らしい顔だったが、一作目のヒロインとしては妥当なのだろう。
エマもミセス・エバンズも、キャラクターデザインから大きく外れた印象はなかった。
それなのに、ムーンときたら全然違う。
インバネスコートにハンチング帽で、英国紳士風の装いはゲームと同じだが、今目の前にいる人物は、遥かに美麗な顔立ちだ。
あまりのギャップに、「嘘でしょう?」と飛び出しそうな言葉をグッと飲み込んだ。
「はじめまして。エマ・アーデンベイル嬢」
ムーンがエマに向かって手を差し出す。
少し悩んでから、エマはそっと彼の手に触れた。ムーンがそれをしっかりと握り返す。温かくて大きい手。
「アーデンベイル嬢にお会いするのは難しいかもしれないと事前に伺っておりましたが、お会いできて光栄です」
ムーンがニコリと微笑んだ。
一見、相手の警戒心を解くような社交的で親切な笑み。だけど、その実、一定以上の距離に誰も踏み込ませない鎧でもある。
やはり彼はムーンだ。
「こちらこそ。ようこそ、お越しくださいました。王都から随分とかかったのではないですか?」
「大したことはありません。予定より少し早めに着いたので、ぶらぶら散策などしておりました。この辺りは初めて来たのですが、なかなか興味深いですね」
エマの勧めで、ムーンはソファに腰掛けた。
ローソファでは、彼の長い脚は少し持て余すみたいだ。両手の指を絡ませ、前のめりになると、早速本題を持ち出した。
「それで、お手紙でいただいた私へのご依頼というのは、どういったことでしょう?」
「そう……ですね、」
ここで何を依頼するのか、勿論、恵麻は知っている。
けれど、目覚める前までの記憶がないエマは、自分が何をどこまで知っていて良いのか分からなかった。
下手に発言するよりは、任せたほうが無難だ。
ミセス・エバンズに助けを求めると、彼女はすぐに臙脂色の天鵞絨が張られた盆を差し出した。天鵞絨の真ん中には白い封筒が置いてある。
物語のスタート地点でもあり、とても重要な封筒。それが目の前に差し出された時、エマは思わず手に取ってみたくなった。
ウズウズとした気持ちを抑えて、ムーンに「どうぞ」と指し示す。
ムーンは封筒を受け取って、裏を返した。黒い蝋封は、真ん中で切れている。取り出した手紙をムーンが声に出して読んだ。
「アーデンベイル伯爵邸の皆様
霧の底に沈む亡き公妃のティアラをお迎えにあがります。
白霜が最も気高く輝く夜に、その美と相見んことを愉しみにしております。」
記憶にある通りの文面。そして、右下には筆記体のLとCを斜めに繋げて書いたようなサインがあるはずだ。2文字のアルファベットが表すのは……
「エル・クラドール」
ムーンは顔をあげると、今度はエマたちに向けて同じことを繰り返した。
「怪盗エル・クラドールです」
エル・クラドールは、ムーンの宿敵だ。
公式ファンブックか何かで読んだ記憶では、クラドールは「美の管理者」に由来する。その名の通り、美術品への執着が凄まじく、彼が狙うのは美しいものばかり。
『美』こそが彼にとって唯一にして、絶対的な価値観だった。
「少々お伺いしてよよろしいですか? この『霧の底に沈む亡き公妃のティアラ』とは、一体何のことでしょう? 亡き公妃というと、ブルムホルト公国が浮かびますが」
エマが再び、ミセス・エバンズに目配せした。自分が下手に答えるよりは、彼女に説明してもらったほうが良い。
ミセス・エバンズはすぐにエマの意図を理解した。
「左様でございます。公国に代々受け継がれていた公妃の冠にございます。正式な名は『白霜のティアラ』と申します」
「その白霜のティアラが、今はこちらにあると?」
ブルムホルト公国は、アーデンベイル領に隣接した小さな独立国家だった。二百年程前にアルビオン王国の一部が独立してできた小国で、歴史ある国だったが、エマが生まれる数年前に滅んでいる。
「ティアラそのものはございませんが、ティアラが納められている宝石箱の鍵が、アーデンベイル家に伝わっております」
「鍵だけ? では、ティアラはどこに?」
「存じ上げません。おそらく、公国のどこかではないかと」
ブルムホルト公国はすでに滅んで、アーデンベイル領に吸収されている。公国の名残と言えば、城趾があるくらいだ。
「ここから旧公国領まではどれくらいですか?」
「ここは街外れの別邸ですから、男性の足なら湖沿いに歩いて、城趾まで半日程度あれば十分に着けるかと存じます」
ミセス・エバンズの説明で、ここが別邸であることをエマは初めて知った。よく考えれば、ストーリー上で不必要なエマ本人のことは、あまり明かされていない。
エマ・アーデンベイルというのは、どういう人物だったのだろう。
エマは自分のことを思い出してみようとしたが、確たるものが何も出てこない。
こういう状況では普通、エマという人物の過去にどういう出来事があったのか、生まれてから今まで、どんなふうに過ごしてきたのか、記憶があるものだと思っていた。けれど、どれだけ思い出そうとしても、自分が本当にエマ・アーデンベイルなのか疑いたくなるほどに、何も浮かばなかった。
ぼんやりそんなことを考えていたら、突然、ミセス・エバンズが「私では承ることができません」と、ピシャリと言うのが聞こえた。
何事かと慌てて意識を二人に戻すと、ムーンがエマの方を見ていた。
「『私では』ということは、アーデンベイル嬢ならお答えできるということですか?」
端正な顔がこちらを見つめている。
「えっ……と?」
何の話か分からず困惑するエマに、ムーンが言った。
「鍵の話ですよ。ティアラを納めた箱を開けるための鍵がこちらにあるのですよね? それを見せていただきたいのです」
あぁ、その話か。それなら、答えは覚えている。
「お嬢さまは病み上がりですから」と、前に出てきたミセス・エバンズをエマが制した。
エマ・アーデンベイルは画面上でムーンに、こう返事をしていた。
「申し上げございません、ムーンさん。鍵は当家に代々受け継がれてきた、とても大切なものですから、簡単にお見せすることは出来ません」
この時点で、アーデンベイル家はムーンを100%信頼しているわけではない。エル・クラドールと宿敵とされている探偵だから呼んだものの、全てを打ち明けてはくれないのだ。
本当は恵麻はムーンのことをよく知っているのだから、そんな回りくどいことをする必要はないのだけれど、このあとのストーリーへの影響を恐れて同じように答えた。
代わりに、エマの気持ちを少しだけ付け足す。
「こちらからお呼び立てしたのに、勝手申しまして、申し訳ございません」
エマが台詞を足したせいだろうか。
ミセス・エバンズが少し驚いた様子で、こちらを見ていた。ポーカーフェイスの彼女にしては珍しい。
しかし、すぐにいつも通りのメイド長に戻って、静かに後方に下がった。
頼みを断ったエマに、ムーンは気分を害した様子はなかった。
「構いませんよ。どちらにしろ、エル・クラドールが出てくるとあれば、放っておくわけにはいきませんから。むしろ、それくらいの難題があったほうが、謎を解く愉しみが増えるというものです」
ムーンの口の端がゲームを前にした子どものように、楽しげに上がった。




