1 プロローグ
今までとだいぶ毛色の違うタイプの話を書き始めてしまいました。
いろんな意味で大丈夫かとドキドキしています。
「連載中」ステータスの作品が他に2つ残っているので、そちらについて活動報告に書いておきます。
黴臭く、薄暗い場所だった。
身体を丸めて縮こまっていると、外からヒタヒタと音がする。自分を探す足音だ。
さっき転んだせいでズキズキと痛む足を、そっと擦った。これ以上は走れそうにない。
外の足音はまだやまない。
時折、ギーッ、バタンと扉が開閉するような音が挟まる。
ヒタヒタ。ギーッ、バタン。
ヒタヒタ。ギーッ、バタン。
音は繰り返す度に近くなる。
あぁ、逃げなきゃ。
ここにいたら、すぐに見つかってしまう。
早く……早く逃げないと。頭では分かっているのに、身体が強張って動かない。手足は震え、背中に冷たい汗が伝う。
ギギィ゙と、隣の部屋の扉が開く音がした。
少しでも身を隠そうと山折りした足を抱え込んで、身体を一層ギュッと縮めた。
そのとき、近くで何かがキラリと光った。
落とした指輪に日の光が反射した時のような小さな輝きに、目を凝らす。
その瞬間、視界が真っ白な光に包まれたーーー
* * *
瞼に振り注ぐ光に、思わず顔をしかめた。眩しい。瞳を閉じているのに、光が目に染みる。
頭は、ズキズキと鈍く痛い。
あぁ、飲みすぎたかな。だから、あんな嫌な夢をみたんだ。
誰かに追われて、隠れる夢。幼い頃から時々見る『怖い夢』だ。昔々のトラウマのせいだと分かっちゃいるけど、見慣れない。
恵麻は目を閉じたまま、深いため息をついた。
まだアルコールが抜けきっていないのか、気持ちが悪い。本当は水を飲みたいけど、起き上がる気力もない。
昨晩は、何がどうなったんだっけ。
あぁ、そうか。面倒な飲み会だ。
年度替わりの歓送迎会。
この春の人事異動で、慕っていた女性の先輩が異動になった。代わりに、入社したときから恵麻への当たりがキツくて苦手だった先輩とペアを組むことになった。おまけにムードメーカーの上司が代わり、パワハラ気質と噂の課長がやってくる。
あと数日で始まる新年度を思うと、ここのところ毎日、気が重かった。
嫌だ嫌だと思いながら参加したせいか、どうも酔いの回りが早かったらしい。
そんなに量を飲んだつもりはないのに、皆と別れてすぐに気持ちが悪くなった。
立っているのもしんどくなって、人目につかない路地に入り、しゃがみこんだ。その後、急速に酔いが回って、猛烈な吐き気を催した。
それを一生懸命やり過ごしていると、ふいに辺りで何かが光った気がして、視線をあげた。
ゲーム機の画面みたいに見えた。
どうしてこんなところにあるのか。誰かの落とし物かしら。気分が悪くて、それどころじゃないはずのに、何故か妙に気になった。
それで手を伸ばして、それから……
それから、どうしたんだっけ?
思い出そうとしても、その先が浮かばない。
記憶が完全に途切れている。
一応、ベッドに寝ているのだから、帰ってはこれたのだろう。酒癖の悪い大学時代の友だちが、記憶をなくしても家には帰れると豪語していたことを思い出す。
彼は人間の帰省本能を礼讃していたが、ついに自分も、その本能の恩恵に預かる日が来たようだ。
そんなことをつらつらと考えていたところで、今寝ているベッドが、いつもより柔らかいことに気がついた。
触れた布地の感触だって、全然違う。使い古した量販店の型落ちカバーの感触じゃない。さらさらスベスベと滑らかで、まるで高級ホテルみたいな肌触りだ。高級ホテルに泊まったことなんて、ないけれど。
恵麻は恐る恐る目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れたアイボリーの天井ボードじゃない。いや、むしろ天井ですらない。そこに広がっていたのは、透けるような布。
「え? なんで?」
恵麻は慌てて飛び起きた。キョロキョロと左右を見渡せば、その両方ともに天井と同じ布地がカーテンのように垂れ下がっている。
天蓋付きのベッド。
何故こんなところにいるのか。
焦った恵麻は思わず、自分が寝ていた布団を見下ろした。掛け布団は恵麻を囲むように、ふわりと盛り上がっている。
布団をめくると、ピンと美しく貼った敷カバー。他の誰かが寝ていた形跡はない。
とすると、この天蓋付きベッドの空間に、自分一人で泊まっているというのか。
良かったというべきか、謎が深まったというべきか。
「うーん…」
恵麻は恐る恐る天蓋のカーテンをめくった。
目の前に開けた光景。その景色に、度肝を抜かれた。
壁一面の大きな窓。その窓の向こうには、広い青空と切り立った山。
高級ホテルどころの騒ぎじゃない。
現代日本の、東京の景色ではない。
警戒心すら吹っ飛んで、ベッドから飛び降りた。
淡い黄土色したツルツルの床を踏んだ瞬間、あまりの冷たさにブルリと震えた。辺りを探すが、スリッパはない。
仕方ないと意を決して、裸足のまま窓まで歩く。
大きな吐き出し窓は、バルコニーに繋がっていて、その向こうに先程ベッドから見えた山がある。
鍵を外して窓を開けた。恐る恐る一歩を踏み出す。冷たい空気が肌を包んだ。
バルコニーの手摺まで行って全景を捉えた瞬間、あまりの美しさに、恵麻は思わず息を呑んだ。
眼下に広がるのは、ネイビーブルーの湖。湖畔には青々と草が茂り、湖の向こうには灰色の切り立った山がそびえ立つ。
圧倒されるような雄大な自然の景色に、恵麻は妙な既視感を覚えた。
前にどこかで見たような、妙に懐かしい気持ちがわいてくる。
旅行会社のパンフレットかしら。何年か前に、大学の卒業旅行で行きたいと生協で片っ端からもらってきたことがあったから、その中で目にしたものか。あるいは、映画のワンシーンかも。
その時、トントンと扉がノックされる音がした。
「はい」
思わず返事をしてから、しまったと後悔する。
ここが、どこだか分からない。誰が入って来るのかも分からない。
迂闊に返事なんてするべきじゃなかった。
どこかに隠れるか、せめてベッドで寝たフリをして様子を探るのが正解だった。
今からでも身を隠せる場所はないかとバルコニーをキョロキョロ見渡す。手摺から乗り出して、下も見てみた。
すると、恵麻のいる屋敷に向かって一人の男が歩いてくるのが見えた。ダークグレーのコート。目深に被った帽子のせいで、人相は分からない。
何者かしらと気になったが、今はのんびり眺めている場合じゃない。やはりベッドに戻ったほうが無難だろうと思い直して、バルコニーから中に入った。
迷っている時間が仇になったのか、恵麻が部屋に入った瞬間、扉が開いた。
「失礼いたします」
背の高い女性が一人、丁寧な声がけとともに入ってきた。
足首丈の紺色ワンピースに、白いエプロン。格好からするとメイドだろうか。グレイヘアを後頭部できっちりと纏めている。
女性は厳しい顔つきのまま、真っすぐに恵麻を見た。
「お目覚めでございましたか、エマさま。」
はっきりと恵麻の名を呼んだ。
その瞬間、恵麻は全てを理解した。
ドクンドクンと心臓が大きな音を立てる。緊張で喉が渇いた。
「あの……先程、男性がこちらに入ってくるのが窓から見えたのですが、どなたですか?」
グレイヘアの女性は、一瞬、答えに詰まるような素振りを見せたが、すぐに慇懃な態度に戻った。
「ムーン探偵事務所のアリステア・ムーン卿ですよ。……お会いになりますか?」
「アリステア・ムーン」
その名前を、噛み締めるように呟く。
恵麻は、アリステア・ムーンを知っていた。
もし彼が本当にムーンなら、ここがどこなのかも自ずと決まる。
たけど、そんな馬鹿なことってあるだろうか。とても非科学的で信じられない。
もう何年も昔ーーー中学生の頃にハマった謎解きRPG『名探偵ムーンと守りの指輪』の世界に入り込んでしまっただなんて!
『桜子さん〜』に長く時間をかけすぎたため、全く違う世界観で書きたくなりました。
いつもと全然違うタイプの話なので、楽しんでいただけるのかドキドキしています。変わらぬ応援をいただけると嬉しいです。
今日中にあと2話アップの予定です。




