ep.98 ノートの余白に書いた本音は、消しゴムでは消しきれない
黒瀬琉衣奈のノートは、翌日も少しだけ変わっていた。
朝比奈湊が教室に入ると、黒瀬は自分の席でノートを開いていた。
スマホではない。
ノートだった。
それだけで、湊は少し驚いた。
黒瀬は机に肘をつき、昨日白瀬栞からもらったルーズリーフを横に置いて、自分のノートと見比べている。
字は相変わらず黒瀬らしい。
少し斜めで、勢いがある。
でも、昨日より余白が増えていた。
見出しもついている。
重要そうなところには、小さな星印までついていた。
「……おはよ」
湊に気づいた黒瀬が顔を上げた。
「おはよう」
湊が返すと、黒瀬はすぐにノートを少し閉じた。
「見るな」
「まだ何も言ってない」
「顔が見てた」
「顔って便利だな」
「便利にするな」
黒瀬はむくれたが、ノートを完全には隠さなかった。
それも少し変化だった。
以前なら、見られそうになった時点で閉じていたと思う。
今は、見られるのは恥ずかしい。でも、少しは見せてもいい。
そんな感じだった。
莉子が少し離れた席から声をかける。
「るいな、今日もノートやってるの? えらいじゃん」
「言うな」
「いや、普通にえらいって。朝からスマホじゃなくてノート開いてるるいな、レアすぎ」
「レアとか言うな」
「スクショしたい」
「したら怒る」
「しないしない」
莉子は笑っている。
けれど、その目は少し嬉しそうだった。
斜め前の席から、白瀬栞も振り返った。
「黒瀬さん、おはようございます」
「……おはよ」
「ノート、続けているんですね」
「続けてるってほどじゃないし」
「一日続いただけでも、十分です」
「基準甘くない?」
「最初は甘い方が続きます」
「そういうとこ」
黒瀬は少しだけ困った顔をした。
でも、嫌そうではない。
栞は微笑んだまま続ける。
「今日の授業で、余白を少し使ってみてください」
「余白?」
「はい。あとで聞きたいことを書く場所です」
「聞きたいこと」
「授業中にわからないところがあっても、その場ですぐ聞けないことが多いので。余白に短く残しておくと、後で確認しやすいです」
「……なるほど」
黒瀬はノートの端を見る。
昨日までただ空いていただけの場所が、急に意味を持ったようだった。
「じゃあ、そこに書けばいいんだ」
「はい」
「朝比奈に聞く、とか」
言ってから、黒瀬は固まった。
湊も固まった。
莉子はすぐに反応した。
「るいな、今の自白?」
「違う!」
「いや、自然に出たじゃん。朝比奈に聞くって」
「例! 例だから!」
黒瀬の声が少し大きくなる。
栞は静かに付け足した。
「私に聞く、でも大丈夫です」
黒瀬が今度は栞を見る。
「そこで入ってくる?」
「はい。聞いてもらえたら嬉しいので」
「また普通に言う」
「本当なので」
「もうそれ、ずるい」
黒瀬は顔を赤くしてノートへ視線を落とした。
湊は思わず笑いそうになったが、こらえた。
こらえたつもりだった。
黒瀬が睨む。
「笑った」
「まだ笑ってない」
「顔」
「顔か」
「顔」
朝から、教室の空気は少し軽かった。
一限目の授業中、黒瀬は本当に余白を使っていた。
先生が黒板に式を書き、説明を進める。
黒瀬はその途中で少し眉を寄せる。
そして、ノートの端に何かを書く。
湊の席からは細かい文字までは見えない。
ただ、黒瀬が少し真剣に考えながら書いているのはわかった。
授業が終わると、黒瀬はノートを閉じようとして、また開いた。
迷っている。
湊へ持ってくるか。
栞へ見せるか。
それとも、まだ自分で考えるか。
その迷いまで顔に出ていた。
そして、黒瀬は立ち上がった。
最初に向かったのは、栞の席だった。
「白瀬」
「はい」
「余白、使った」
「見てもいいですか?」
「……ちょっとだけ」
黒瀬はノートを差し出した。
栞はそれを丁寧に受け取る。
ノートの端には、黒瀬の字で短く書かれていた。
――ここ、何でこの式?
――代入タイミングわからん。
――朝比奈に聞く?
その最後の一行を見た瞬間、栞の目がほんの少しだけやわらかくなった。
黒瀬が慌てる。
「そこは見なくていい!」
「見えてしまいました」
「消す」
「消さなくていいと思います」
「何で」
「聞く相手まで書いてあると、あとで動きやすいので」
「そういう意味じゃないし」
黒瀬は顔を赤くする。
栞はノートを返しながら言った。
「でも、一つ目は私でも説明できます」
「……じゃあ、そこは白瀬」
「はい」
「二つ目は?」
「朝比奈くんの方が、たぶんざっくり説明が得意です」
「雑担当」
「ざっくり担当です」
「白瀬、言い直した」
「少しだけ配慮しました」
「そういうとこ」
黒瀬は困ったように笑った。
そして、今度は湊の席へ来た。
ノートを少しだけ胸元に寄せながら。
「朝比奈」
「何?」
「これ」
黒瀬がノートを開く。
さっき栞が見た余白が見えた。
そこには、さっきより一行増えていた。
――白瀬に聞いた。あとで朝比奈。
「……書き足したのか」
「見るな」
「見せたの黒瀬だろ」
「そこは見せてない」
「余白、便利だな」
「便利」
黒瀬は少しだけ口を尖らせた。
「この、代入タイミングってやつ」
「ああ」
湊はノートを見ながら説明した。
「これは、先に式を全部作ってから数字を入れた方がいい。途中で入れると、計算がごちゃごちゃする」
「ごちゃごちゃ」
「うん。途中で具材を入れすぎた鍋みたいになる」
「また料理」
「ざっくり担当だから」
黒瀬は少し考えたあと、納得したように頷いた。
「じゃあ、式の鍋を先に作る」
「鍋?」
「今の説明だとそうなる」
「俺のせいか」
「朝比奈のせい」
黒瀬はノートの余白に書き足した。
――式の鍋を先に作る。
湊はそれを見て、思わず笑った。
「黒瀬、それ後で見返してわかるのか?」
「わかるし。朝比奈の説明だから」
言ってから、黒瀬は自分で固まった。
湊も黙った。
栞が斜め前で、静かにこちらを見ている。
莉子が遠くから、にやにやしている。
「……今のなし」
黒瀬が小さく言った。
「無理」
「言うと思った」
「これは無理だろ」
「最低」
黒瀬はノートを閉じた。
でも、すぐに開き直す。
「……消さない」
「うん」
「あとで見返すから」
「うん」
その一言が、妙に大きかった。
湊の説明を、黒瀬が自分のノートに残す。
白瀬の整理の仕方を借りて。
自分の字で。
自分の余白に。
昼休み。
黒瀬は自分の席でノートを開いていた。
莉子が横から覗き込む。
「るいな、何その『式の鍋』って」
「読むな!」
「いや、見えた。何、数学なのに料理?」
「朝比奈の説明」
「朝比奈くん、料理で数学教えたの?」
「ざっくり担当だから」
黒瀬が少し得意げに言った。
自分で言ってから、少し赤くなる。
莉子はにやっとした。
「るいな、そのノート、だいぶいいじゃん」
「そう?」
「うん。白瀬さんの綺麗さと、朝比奈くんの雑さと、るいなの勢いが混ざってる」
「雑さ混ぜていいの?」
「いいんじゃない? るいなが後でわかれば」
黒瀬はノートを見下ろした。
少しだけ、嬉しそうだった。
その後、栞が近づいてくる。
「黒瀬さん」
「何」
「余白、上手に使えています」
「上手ってほどじゃない」
「いえ。あとで確認するための言葉になっています」
「式の鍋でも?」
「はい。黒瀬さんが意味を思い出せるなら、それは良いメモです」
黒瀬は少しだけ目を丸くした。
「白瀬、そういうのも許すんだ」
「ノートは、本人が使うものなので」
「……強い」
「今日はどの強さでしょう」
「ちゃんとしてるのに、押しつけない強さ」
栞は少しだけ照れたように目を伏せた。
「ありがとうございます」
「だから、普通に受け取るなって」
「嬉しかったので」
「もう」
黒瀬は困ったようにノートを閉じた。
けれど、その手つきは大事なものを閉じるみたいだった。
放課後、自習会はなかった。
けれど、黒瀬は湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「ノートの話?」
「余白の話」
「また確認?」
「確認」
「便利ワード」
「便利だから」
黒瀬はノートを鞄にしまいながら言った。
「今日のノート、持ってく」
「見せてくれるのか」
「……確認だから」
「わかった」
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『ノート持参?』
『持参』
『式の鍋?』
既読。
少し間が空く。
『それ言うな』
『でも残したんだろ』
『残した』
『いいと思う』
また少し間。
『そういうの、夜に言え』
『あとで』
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬は鞄を抱えて立っていた。
「……遅」
「今日は余白回だな」
「回とか言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
黒瀬は部屋へ上がり、ソファに座った。
今日はクッションより先にノートを出す。
湊がカフェラテを置くと、黒瀬はノートをテーブルに広げた。
「これ」
「うん」
「余白、便利だった」
「そうだな」
「わからないところ、忘れないで済む」
「うん」
「あと、誰に聞くか書ける」
「それも便利?」
「……便利」
黒瀬はカフェラテを飲んだ。
「白瀬に聞くやつと、朝比奈に聞くやつ、ちょっと違う」
「どう違う?」
「白瀬は、きれいに道を作ってくれる」
「うん」
「朝比奈は、変な例えで思い出せるようにしてくる」
「式の鍋」
「言うなって」
黒瀬は顔を赤くした。
でも、ノートのその部分は消していなかった。
「消さなかったんだな」
「消したら、後でわかんなくなるし」
「そっか」
「……あと、朝比奈の説明だから」
小さな声だった。
湊は、すぐに返さなかった。
黒瀬が逃げると思ったからだ。
しかし黒瀬は顔を赤くしながらも、今日は逃げなかった。
ただ、カフェラテのカップを両手で包んでいる。
「嬉しい」
湊が言うと、黒瀬が固まった。
「……そういうの、普通に言うなって」
「夜ならいいかと思って」
「夜でもむずい」
「カフェラテ中だし」
「万能にするな」
黒瀬はクッションを抱えた。
でも、ノートはテーブルに開いたままだった。
そこに書かれた余白の文字は、黒瀬の字だった。
勢いがあって、少し斜めで、でも前よりずっと見やすい。
――白瀬に聞いた。あとで朝比奈。
――式の鍋を先に作る。
――ここ、次も出そう。
湊はそれを見て、少しだけ胸の奥が温かくなる。
黒瀬が、自分で残したもの。
消しゴムでは消せないもの。
「黒瀬」
「何」
「いいノートだと思う」
黒瀬はクッションに顔を半分隠した。
「……二回目」
「大事だから」
「ずるい」
「今日はずるい?」
「今日も」
黒瀬は少しだけ笑った。
ノートの余白に書いた本音は、消しゴムでは消しきれない。
白瀬栞に聞くこと。
朝比奈湊に聞くこと。
自分で思い出すための変な言葉。
その全部が、黒瀬琉衣奈のノートの端に、少しずつ増えていく。




