ep.99 提出前のノートに残った名前を、ギャルは必死に隠したい
その日の朝、黒瀬琉衣奈はノートを閉じたまま固まっていた。
朝比奈湊が教室に入った時、いつもならスマホかプリントか、あるいは最近ならノートを開いているはずの黒瀬が、机の上に両手を置いたまま動かないでいた。
少し離れた席。
席替え後のその距離にも、もうだいぶ慣れた。
黒瀬は湊が来たことに気づくと顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよう」
挨拶は普通だった。
けれど、黒瀬の顔が普通ではなかった。
何かを隠している顔。
いや、隠したいのに隠しきれていない顔。
湊が席に鞄を置くと、黒瀬はすぐに視線を逸らした。
そして、机の上のノートをほんの少しだけ自分の方へ引き寄せる。
それで、だいたいわかった。
ノートだ。
昨日、黒瀬はノートの余白にいろいろな言葉を書いていた。
――白瀬に聞いた。あとで朝比奈。
――式の鍋を先に作る。
――ここ、次も出そう。
黒瀬らしい字で、黒瀬らしい言葉で。
湊はそれを「いいノートだと思う」と言った。
黒瀬は照れながらも、それを消さなかった。
そのノートが、今日は何か問題を起こしているらしい。
莉子が少し離れた席から声を飛ばした。
「るいな、朝から何その顔」
「何でもない」
「何でもない人は、ノートを守るみたいに抱えない」
「守ってないし」
「じゃあ見せて」
「嫌」
「ほら、守ってる」
「莉子、朝からうざい」
黒瀬はノートをさらに自分の方へ引き寄せた。
莉子は楽しそうに目を細める。
「何書いたの?」
「何も」
「何も書いてないノートを隠すの?」
「書いてるけど」
「じゃあ何書いたの?」
「授業内容」
「ほんとに?」
「ほんと」
「朝比奈くんの名前とか書いてない?」
黒瀬が、わかりやすく固まった。
湊も固まった。
莉子が勝利を確信した顔になる。
「書いたんだ」
「書いてない!」
「その否定はもう書いた人の否定なんだよなあ」
「莉子!」
黒瀬の声が少し大きくなり、教室の何人かがちらっとこちらを見た。
黒瀬は慌てて声を落とす。
「……ほんと黙って」
「はいはい」
莉子は笑いながら引いた。
引いたが、目は完全に面白がっている。
斜め前の白瀬栞が、静かに振り返った。
「黒瀬さん、おはようございます」
「……おはよ」
「ノート、何かありましたか?」
「白瀬まで」
「すみません。少し困っているように見えたので」
「みんな顔で読みすぎ」
黒瀬はむくれた。
栞は少しだけ申し訳なさそうに、それでも真面目に言う。
「もしノートの取り方で困っているなら、見ます」
「それは……違う」
「違うんですね」
「うん」
黒瀬はそこで一度、ノートを見下ろした。
そして、湊の方を見た。
視線が明らかに助けを求めている。
しかし湊には何が起きているのかわからない。
「黒瀬」
「何」
「ノート、どうした?」
黒瀬は少しだけ唇を噛んだ。
「……今日、数学のノート提出あるって」
「ああ」
湊はようやく思い出した。
昨日の授業終わり、先生が言っていた。
次の確認テスト前に、ノートの取り方も見る。
今日の授業後に一度集める。
軽いチェックのつもりだろう。
だが、黒瀬にとっては軽くない。
あのノートには、湊の名前がある。
式の鍋もある。
栞に聞いたことも、湊に聞く予定も、そのまま残っている。
「……なるほど」
湊が言うと、黒瀬は低い声で返した。
「なるほどじゃない」
「消せば?」
「消したら、後でわかんなくなる」
「じゃあ付箋で隠すとか」
「付箋?」
黒瀬の目が少し動いた。
栞がすぐに鞄から小さな付箋を取り出した。
「あります」
「早い」
「よく使うので」
「白瀬、そういうとこ先生」
「先生ではありません」
栞は淡い色の付箋を数枚、黒瀬に差し出した。
「提出する時に見られたくない個人的なメモだけ、一時的に隠せばいいと思います。あとで剥がせますし」
「……それ、あり?」
「ありだと思います。授業内容を消さずに残せます」
黒瀬は付箋を受け取った。
それから、少しだけほっとしたように息を吐く。
「ありがと」
「いえ」
栞はそこで微笑んだ。
「でも、式の鍋は残してもいいと思います」
「何で知ってるの!?」
「昨日、少し見えました」
「見えすぎ!」
「すみません」
「謝るの早い!」
黒瀬は真っ赤になった。
莉子が遠くから笑いをこらえている。
「式の鍋って何?」
「莉子は知らなくていい!」
「え、めっちゃ気になる」
「気にしないで!」
朝から、教室が少し騒がしい。
けれど、その騒がしさは悪いものではなかった。
黒瀬がノートを隠す。
栞が付箋を出す。
莉子がからかう。
湊が少し困る。
いつの間にか、それが普通の光景になりつつあった。
一限目の数学。
黒瀬は授業中、かなり真剣にノートを取っていた。
提出があるから、というのもあるだろう。
でもそれだけではない。
余白にメモを書くこと。
あとで誰に聞くか決めておくこと。
自分が見返してわかる言葉で残すこと。
それが少しずつ黒瀬の中に入ってきている。
湊は、黒瀬の席をちらっと見た。
黒瀬はノートの端に何か書いている。
そして、すぐに付箋を貼った。
何を書いたのかは見えない。
けれど、黒瀬が貼った付箋の色は、栞が渡した淡い黄色だった。
授業が終わると、先生が言った。
「じゃあ、ノート集めるぞ。前から回してくれ」
教室に緊張が走る。
いや、緊張しているのは主に黒瀬だけかもしれない。
黒瀬はノートを開いたり閉じたりしている。
付箋は貼った。
でも、これで本当に隠せているのか不安なのだろう。
莉子が小声で言う。
「るいな、顔」
「うるさい」
「付箋ちゃんと貼れてる?」
「貼れてる」
「朝比奈くんの名前、全部隠した?」
「だから!」
黒瀬がまた固まる。
湊は机の上で頭を抱えたくなった。
栞が静かに言う。
「黒瀬さん、落ち着いてください」
「落ち着けるわけないでしょ」
「大丈夫です。付箋はきちんと貼れていました」
「見たの?」
「見えました」
「見えすぎ!」
「すみません」
黒瀬は完全に余裕を失っていた。
それでも、ノートは提出しなければならない。
湊の列より少し前からノートが回収されていく。
黒瀬の席にも、回収係がやってくる。
黒瀬は一度だけノートを胸元に寄せた。
そのまま提出しないのではないかと思うほどだった。
けれど、最終的にはそっと出した。
ノートは、他の生徒のノートと重ねられていく。
黒瀬はそれを見送ったあと、机に突っ伏した。
「……終わった」
莉子が笑う。
「まだ人生終わってないよ」
「ノート人生が終わった」
「何それ」
湊も少し笑ってしまった。
黒瀬が顔だけ上げて睨む。
「笑うな」
「ごめん」
「絶対悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止!」
いつもの声が戻ってきた。
そのことに少し安心する。
昼休み。
黒瀬はまだノート提出のことを引きずっていた。
スマホを見ながら、何度も机の上にないノートの場所へ視線を落としている。
「ノート、戻ってくるだろ」
湊が言うと、黒瀬は眉を寄せた。
「そういう問題じゃない」
「先生に見られるのが嫌?」
「……うん」
「付箋貼ったんだろ」
「貼ったけど」
「じゃあ大丈夫だろ」
「でも、付箋剥がされたら終わる」
「先生、そこまでしないだろ」
「わかんないじゃん」
黒瀬は本気で不安そうだった。
その不安の理由が、授業内容ではなく湊の名前を隠していることだと思うと、湊まで少し落ち着かなくなる。
栞が斜め前から小さく言った。
「黒瀬さん」
「何」
「もし先生に何か言われても、質問相手を書いていた、と説明すれば大丈夫だと思います」
「朝比奈に聞くって?」
「はい」
「それ、余計恥ずかしくない?」
「……少し」
「白瀬も少しって言うんだ」
「はい。少し恥ずかしいと思います」
「でしょ」
黒瀬は机に頬杖をついた。
莉子が楽しそうに言う。
「でもさ、先生からしたら良いノートじゃない? わかんないところ書いて、誰に聞くかまで書いてるんでしょ」
「莉子が正論言うと変」
「ひど」
「でも……まあ、そうなのかな」
黒瀬は少しだけ考える。
栞も頷いた。
「はい。学習のためのメモとしては、とても良いと思います」
「でも、式の鍋は?」
「黒瀬さんが理解できるなら、良いと思います」
「白瀬、本当に許すんだ」
「はい」
湊も頷く。
「俺もいいと思う」
「朝比奈は元凶だから」
「元凶って」
「式の鍋を生んだ」
「そんな大事件みたいに」
黒瀬は少しだけ笑った。
やっと少し緊張がほぐれたようだった。
放課後。
ノートは無事に返ってきた。
先生は大きなコメントこそしなかったが、黒瀬のノートのページに赤ペンで小さく丸を書いていた。
さらに一言。
――余白の使い方が良い。続けること。
黒瀬はそれを見た瞬間、完全に固まった。
湊も、栞も、莉子も、黒瀬の机に集まる。
「るいな、褒められてんじゃん」
莉子が言う。
「……うん」
「先生にも認められた式の鍋?」
「そこじゃない」
黒瀬は小声で言ったが、表情はかなり揺れていた。
栞が静かに微笑む。
「よかったですね、黒瀬さん」
「……うん」
「続けること、と書いてあります」
「読まなくていい」
「すみません」
「でも」
黒瀬はノートの赤ペンの丸を見つめた。
「ちょっと、嬉しい」
その言葉は、本当に小さかった。
でも、ちゃんと聞こえた。
湊は笑わなかった。
ただ、頷く。
「よかったな」
黒瀬は少しだけ湊を見た。
「……うん」
その返事は素直だった。
しかし、すぐに彼女は付箋の存在を思い出したらしい。
慌ててページをめくる。
付箋は、ちゃんと貼ったままだった。
先生に剥がされた形跡はない。
黒瀬は心底ほっとした顔をした。
「生きてた……」
莉子が吹き出す。
「ノート人生、生還」
「莉子、笑うな」
「ごめん、無理」
栞も少しだけ笑っていた。
黒瀬がそれを見て、少しむくれる。
「白瀬まで笑う」
「すみません。でも、安心している黒瀬さんが少し可愛かったので」
「それ言う!?」
黒瀬の顔が一気に赤くなる。
湊は少しだけ視線を逸らした。
今の栞の一言は、かなり強かった。
黒瀬は完全に処理できていない。
「朝比奈、今の聞いた?」
「聞いた」
「聞くな」
「無理だろ」
「最低」
黒瀬はノートを閉じ、鞄にしまった。
その手つきは、提出前より少しだけ誇らしそうだった。
帰り支度をしながら、黒瀬は湊の席へ来る。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「ノート提出の反省会?」
「反省と文句」
「文句は?」
「付箋の件で朝から心臓に悪かった件」
「俺のせい?」
「半分」
「半分か」
「使うな」
「はい」
「あと、先生に褒められた件」
「それは文句じゃないだろ」
「確認」
「便利ワード」
「便利」
黒瀬は少しだけ笑った。
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
夜八時半。
スマホが震える。
『今日、行く』
湊は返信する。
『ノート人生、生還おめでとう』
既読。
『それ言うな』
『先生に褒められてよかったな』
少し間が空く。
『うん』
さらにもう一通。
『ちょっと嬉しかった』
湊は画面を見て、自然と笑った。
『あとで聞く』
『言わないかも』
『たぶん言うだろ』
『うるさい』
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬はノートの入った鞄を抱えて立っていた。
「……遅」
「ノート、持ってきた?」
「持ってきた」
「見せてくれる?」
「確認だから」
黒瀬はそう言って部屋へ上がった。
ソファに座り、今日はすぐにノートを出した。
湊がカフェラテを置くと、黒瀬は赤ペンの丸がついたページを開く。
「これ」
「うん」
「余白の使い方が良い、って」
「ちゃんと褒められてる」
「続けること、って」
「続ける?」
「……たぶん」
「いいと思う」
「普通に言うな」
「でも本当にいいと思う」
「二回言うな」
黒瀬は顔を赤くしながらも、ノートを閉じなかった。
赤ペンの丸を、指先でそっとなぞる。
「先生に褒められるの、変」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「知ってる」
「知ってるって言うな」
黒瀬はカフェラテを飲む。
「付箋、剥がされてなくてよかった」
「そこが一番安心した?」
「うん」
「何隠してたんだっけ」
「言わない」
「朝比奈に聞く、だろ」
「言うな!」
黒瀬はクッションで顔を半分隠した。
でも、ノートはテーブルの上に開いたままだ。
その余白には、付箋で隠された小さな本音がまだ残っている。
消していない。
隠しただけ。
それが、なんとなく黒瀬らしかった。
「黒瀬」
「何」
「続けたら、もっと見やすくなると思う」
「うん」
「でも、黒瀬の字のままでいいと思う」
黒瀬は少しだけ黙った。
それから、小さく言う。
「白瀬にも言われた」
「うん」
「朝比奈にも言われると、ちょっと安心する」
湊は返事をする前に、黒瀬の顔を見た。
彼女は逃げなかった。
少し照れている。
でも、今日はちゃんと受け止めようとしている。
「ならよかった」
黒瀬は目を伏せた。
「そういう返し、安心するからむかつく」
「昨日も言ってた」
「何回でも言う」
黒瀬は少しだけ笑った。
提出前のノートに残った名前を、ギャルは必死に隠したい。
けれど、付箋で隠したその名前も、先生に褒められた余白も、全部まとめて黒瀬琉衣奈のノートだった。
少しずつ増える余白。
そこに書かれる質問と、本音。
それはきっと、次のページにも続いていく。




