ep.100 ノートを褒められたギャルは、週末の約束をもう一度隠したい
黒瀬琉衣奈は、朝から何度もノートを見ていた。
本人は隠しているつもりだった。
けれど、朝比奈湊には普通に見えていた。
机の上に置いた数学のノート。
赤ペンで書かれた、先生の短いコメント。
――余白の使い方が良い。続けること。
昨日、その一文を見た黒瀬は、しばらく固まっていた。
嬉しい。
でも嬉しいと言いたくない。
先生に褒められたのは悪くない。
でも周りに見られるのは恥ずかしい。
そんな感情が、全部顔に出ていた。
そして今日もまだ出ている。
「……おはよ」
「おはよう」
湊が教室に入ると、黒瀬はいつものように挨拶をした。
席替え後の距離にも慣れてきて、もう声の届き方で迷うことは少なくなっている。
それでも、黒瀬は挨拶のあと、すぐにノートへ視線を落とした。
莉子が少し離れた席から、にやにやしながら言う。
「るいな、また見てる」
「見てない」
「いや、見てる。先生のコメント、もう暗記したんじゃない?」
「してないし」
「言ってみて」
「言わない」
「余白の使い方が良い。続けること」
「莉子!」
黒瀬の声が跳ねた。
近くの生徒がちらっと見る。
黒瀬は慌てて声を落とし、ノートを閉じた。
「ほんと黙って」
「だって、るいなが嬉しそうだから」
「嬉しそうじゃない」
「じゃあ嫌だった?」
「……嫌じゃない」
「はい、出た」
「何が」
「便利ワード」
「うるさい」
黒瀬はむくれた。
けれど、ノートを鞄にしまわなかった。
机の上には置いたまま。
それはたぶん、まだ見ていたいからだ。
斜め前の白瀬栞が、静かに振り返る。
「黒瀬さん、おはようございます」
「……おはよ」
「ノート、続けられそうですか?」
「いきなりそれ?」
「すみません。気になってしまって」
「白瀬も見るな」
「見えました」
「またそれ」
黒瀬はため息をついた。
栞は少しだけ微笑む。
「でも、先生のコメントは本当に良かったですね」
「……まあ」
「黒瀬さんが自分で工夫したところですから」
「白瀬の付箋と、朝比奈の変な説明も混ざってるけど」
「それも含めて、黒瀬さんのノートだと思います」
「そういうの、朝から言うなって」
黒瀬は顔を赤くした。
湊は自分の席に座りながら、そのやり取りを聞いていた。
最近の黒瀬は、褒められた時の逃げ方が少し変わった気がする。
前は、受け取る前に全部はね返していた。
今は、むくれる。
怒る。
文句を言う。
でも、完全には捨てない。
受け取ったあとで、どう扱えばいいかわからず困っている。
その感じが、少しだけ柔らかい。
一限目の前、担任ではなく数学教師が教室へ顔を出した。
「昨日ノート見たけど、何人かいい感じに工夫してたぞ。次の確認テスト前にも、一回見せてもらうからな」
教室から小さな悲鳴が上がった。
「またですかー」
「提出多くないですか」
「提出ってほどじゃない。確認だ確認。自分が後で見てわかるノートにしておけよ」
その言葉に、黒瀬が小さく反応した。
自分が後で見てわかるノート。
昨日、湊と栞が言ったことと似ている。
先生が去ったあと、黒瀬はノートを見下ろした。
そして、余白に何か小さく書いた。
湊からは見えない。
けれど、黒瀬の顔が少し赤くなったので、ただの授業メモではない気がした。
休み時間。
黒瀬からメッセージが来た。
『またノート見るって』
同じ教室内でのメッセージにも、もうすっかり慣れてしまった。
湊は返信する。
『続けることって書かれたからな』
すぐ既読。
『それ言うな』
『でも続けるんだろ』
少し間が空く。
『たぶん』
『いいと思う』
『そういうの、普通に言うな』
『今はメッセージだから普通に言ってない』
既読。
少し長い沈黙。
『屁理屈』
湊は少し笑った。
すると、斜め前の栞が振り返った。
「黒瀬さんですか?」
「うん」
「ノートの話ですか?」
「よくわかるな」
「黒瀬さんがノートを見ながらスマホを触っていたので」
「近くないのに?」
「最近、少し見えるようになりました」
栞は自分で言ってから、少しだけ困ったように笑った。
その表情に、湊は昨夜の黒瀬の言葉を少し思い出す。
――朝比奈があの子を見るのは、やっぱちょっと面白くない。
だからといって、栞を不自然に避けるのも違う。
湊は普通に返した。
「黒瀬、また提出があるって気にしてる」
「そうだと思いました」
「付箋、また必要かもな」
「はい。余分に持ってきています」
「準備いいな」
「黒瀬さんが困りそうだったので」
栞はさらっと言った。
湊は少しだけ驚いた。
「黒瀬のために?」
「はい」
栞は少しだけ目を伏せる。
「昨日、かなり不安そうだったので」
「白瀬さん、本当に優しいな」
湊が言うと、栞は静かに首を横に振った。
「優しいというより、私も見たいんです」
「見たい?」
「黒瀬さんのノートが、どう変わっていくのか」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
黒瀬の変化を、栞も楽しみにしている。
そう思うと、湊は少し嬉しくなった。
同時に、ほんの少しだけ不思議な気持ちにもなった。
黒瀬と栞の間に、湊を挟まないものがまた増えている。
ノート。
付箋。
余白。
服のページ。
その全部が、小さく二人をつないでいる。
昼休み。
莉子が突然、思い出したように言った。
「そういえばさ、週末の服見に行くやつ、どうする?」
黒瀬が盛大にむせた。
食べていた焼きそばパンを危うく落としかける。
「莉子!」
「何? そろそろ決めないと流れるじゃん」
「流れてもいいし」
「え、るいな行かないの?」
「行かないとは言ってない」
「はい、行くやつ」
「翻訳すんな」
黒瀬は顔を赤くした。
そういえば、そんな話があった。
黒瀬、莉子、栞、湊の四人で服を見に行く。
まだ仮決定。
いや、黒瀬の中では“ほぼ決まり”だったはずだ。
席替えや小テストや自習会で、少し話題が後ろに下がっていた。
けれど、消えたわけではない。
栞が静かに言った。
「私は、午後なら空いています」
「白瀬、予定確認早い」
「前にも確認したので」
「ちゃんと覚えてたんだ」
「はい。楽しみにしていたので」
黒瀬がまた固まった。
「……楽しみに?」
「はい」
「服見るのを?」
「黒瀬さんと一緒に見るのを、です」
「そういうの!」
黒瀬は顔を真っ赤にした。
莉子は机を叩いて笑いをこらえている。
「白瀬さん、強い」
「何がでしょう」
「いや、今のは強いって」
莉子が言うと、黒瀬も小さく頷いた。
「強すぎ」
栞は少しだけ困ったように笑った。
「本当のことを言っただけなのですが」
「それが強いんだって」
黒瀬は焼きそばパンの袋を畳む。
湊の方を見た。
「朝比奈は?」
「俺?」
「週末」
「ああ。空いてる」
「……来る?」
その声は、少しだけ慎重だった。
以前も聞かれた。
来る?
黒瀬が嫌じゃないなら行く。
その時と同じ答えを返そうとして、湊は少しだけ変えた。
「行くよ」
黒瀬が目を丸くする。
「軽」
「来る? って聞いたんだろ」
「聞いたけど」
「行く」
「……荷物持ちで?」
「必要なら」
「男子目線は?」
「必要なら」
「似合ってるは?」
「必要なら」
黒瀬は困ったように眉を寄せた。
「その返し、まだずるい」
「まだ有効だったか」
「有効って何」
莉子がにやにやしながら言う。
「じゃあ土曜午後、駅前のショッピングモールで決まり?」
「勝手に決めるな」
「でもみんな空いてるよ?」
「……午後なら」
「はい、るいな語で決定」
「だから翻訳すんな!」
黒瀬は怒った。
でも、その顔はどこか少し楽しそうだった。
放課後、自習会は休みだった。
ただ、ノートの提出がまたあるとわかったことで、黒瀬は少しだけ残ってノートを見直していた。
湊が鞄を持って立ち上がると、黒瀬が席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「ノートの話?」
「それと、週末の話」
「服の?」
「言うな」
「今、自分で言っただろ」
「朝比奈が言うと変」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬はノートを鞄にしまった。
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『ノートと週末の話?』
『そう』
『カフェラテ?』
『当然』
少しして、もう一通来た。
『ほんとに来る?』
湊はすぐに返した。
『行く』
既読。
しばらく返事が止まる。
『即答するな』
『した方がいいと思った』
『ずるい』
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬は鞄を抱えて立っていた。
「……遅」
「今日は週末会議?」
「会議って言うな」
「じゃあ作戦会議?」
「もっと変」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がった。
ソファに座る。
クッションを抱える。
湊がカフェラテを出す。
いつもの流れの中で、黒瀬はしばらく黙っていた。
「週末」
「うん」
「ほんとに来るんだ」
「行くって言っただろ」
「うん」
「嫌になった?」
「嫌じゃない」
即答だった。
けれど、その後に黒瀬は小さく続けた。
「でも、緊張する」
「服見るのが?」
「うん。あと、白瀬がいるのも、莉子がいるのも、朝比奈がいるのも」
「全部じゃないか」
「全部」
黒瀬はカフェラテを両手で包む。
「白瀬に服選ぶのは、ちょっと楽しみ」
「うん」
「莉子はうざいけど、いてくれると楽」
「うん」
「朝比奈は……」
黒瀬は一度言葉を止めた。
「見てほしいけど、見られたら困る」
「かなり難しい」
「難しいんだって」
湊は少し笑った。
黒瀬に睨まれる。
「笑うな」
「ごめん」
「変な顔しないで」
「努力する」
「努力じゃなくて、やって」
「やる」
「あと」
黒瀬は少しだけ目を伏せた。
「似合ってるって言うなら、ちゃんと言って」
湊は黙った。
黒瀬の顔は赤い。
でも、逃げていない。
「言っていいのか?」
「……変に黙られる方が嫌」
「わかった」
「でも、人前で大げさに言うな」
「大げさには言わない」
「可愛いとかも、急に言うな」
「それは言わない方がいい?」
黒瀬はそこで固まった。
かなり長く沈黙したあと、クッションに顔を半分隠す。
「……それは、タイミングによる」
「難しいな」
「難しいの!」
黒瀬はクッション越しに言った。
けれど、声は少しだけ柔らかかった。
「ノートもさ」
「うん」
「最初、白瀬みたいにしようとして無理だった」
「うん」
「でも、自分のままでいいって言われたら、ちょっと楽になった」
「うん」
「服も、たぶん同じかも」
湊はカップを持つ手を止めた。
黒瀬はクッションに顎を乗せて、少しだけ遠くを見る。
「白瀬に似合う服もあるし、莉子に似合う服もあるし、あたしに似合う服もある」
「うん」
「でも、朝比奈にどう見えるかも、ちょっと気になる」
かなり素直だった。
湊は、返事を選んだ。
軽すぎると逃げる。
重すぎても逃げる。
でも、何も言わないのは違う。
「ちゃんと見る」
湊が言うと、黒瀬は顔を赤くしたまま固まった。
「……そういうの、普通に言うなって」
「でも本当だから」
「本当なら余計むずい」
「難しいな」
「何回言わせるの」
黒瀬はカフェラテを一口飲んだ。
それから、少しだけ笑った。
「でも、来て」
「うん。行く」
「荷物持ちで」
「うん」
「男子目線は必要な時だけ」
「うん」
「似合ってるは、ちゃんと」
「うん」
「可愛いは……」
黒瀬はそこで止まった。
湊は待つ。
黒瀬はしばらくクッションを握りしめていたが、やがて小さく言った。
「……保留」
「また保留」
「便利だから」
「それも便利ワードか」
「うん」
黒瀬は少し笑った。
ノートを褒められたギャルは、週末の約束をもう一度隠したかった。
けれど、隠しきれなかった。
余白に書いた本音と同じように、服を見に行く約束も、付箋で隠すには少し大きくなっていた。




