ep.101 服を見に行くだけなのに、前日からもう落ち着かない
週末の約束は、いつの間にか本決まりになっていた。
黒瀬琉衣奈は最後まで「ほぼ決まり」と言い張っていたが、莉子が昼休みにグループメッセージを作った時点で、もう逃げ場はなかった。
メンバーは四人。
藤堂莉子。
白瀬栞。
黒瀬琉衣奈。
朝比奈湊。
グループ名は、莉子が勝手に決めた。
『服を見る会(仮)』
黒瀬は、それを見た瞬間に即メッセージを送った。
『会って言うな』
莉子の返事は早かった。
『じゃあ、るいな試着見守り隊?』
『もっとだめ』
『じゃあ、白瀬さん初ファッション誌実践編』
『それも違う』
湊は教室でスマホを見ながら、少し笑ってしまった。
それを黒瀬に見られた。
少し離れた席から、黒瀬がこちらを睨む。
そしてすぐにメッセージが来た。
『笑うな』
『顔に出てた?』
『出てた』
『悪い』
『悪いと思ってない』
『半分くらいは』
『禁止』
いつもの流れ。
けれど、それがグループではなく個別で来るあたりが黒瀬らしい。
斜め前の白瀬栞は、グループメッセージを見て少しだけ困ったように笑っていた。
「藤堂さん、名前を決めるのが早いですね」
「莉子はそういうの得意だから」
「黒瀬さんは困っているようですが」
「かなり」
湊が答えると、栞は少しだけ黒瀬の席を見る。
黒瀬はスマホを見ながら、まだ莉子に文句を送っているらしい。
けれど、顔は本気で嫌がっているわけではない。
照れている。
困っている。
でも、どこか楽しみにしている。
それが、もうかなり見えていた。
「黒瀬さん、明日は来てくれそうですね」
栞が静かに言う。
「来るだろうな」
「はい」
「白瀬さんは楽しみ?」
湊が聞くと、栞は少しだけ目を伏せて、素直に頷いた。
「楽しみです。服を見に行くこと自体もですが、黒瀬さんがどういうふうに服を見るのか、少し知りたいので」
「黒瀬に言ったら強いって言われるぞ」
「もう言われそうです」
栞は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、湊はまた昨夜の黒瀬の言葉を思い出した。
――朝比奈にどう見えるかも、ちょっと気になる。
服を見に行く。
ただそれだけの予定が、ずいぶん大きなものになっている。
放課後、莉子が黒瀬の席へ行った。
「るいな、明日何着てくるの?」
黒瀬は一瞬で固まった。
「……普通」
「普通って何」
「普通は普通」
「服見に行く日の普通って、結構むずくない?」
「そういうこと言うな」
「いや、大事じゃん。服買いに行く服問題」
「やめて」
黒瀬は本気で嫌そうな顔をした。
莉子はおもしろがっているが、たぶん悪気はない。
ただ、この問題は確かに難しい。
服を見に行く日の服。
気合いを入れすぎると恥ずかしい。
適当すぎると、それはそれで変。
しかも相手は湊と栞と莉子。
黒瀬にとっては、かなり厄介な条件だ。
栞が少し考えて言った。
「私は、いつも通りで行くつもりです」
「白瀬のいつも通りって、きっちりしてるじゃん」
黒瀬が言う。
「そうでしょうか」
「そう。きっちりしてる」
「では、少し柔らかい服も考えてみます」
「……え?」
「黒瀬さんが似合うと言ってくれた雰囲気に近いものを」
黒瀬の顔が一気に赤くなった。
「それ、覚えてたの!?」
「はい」
「忘れてよ!」
「嬉しかったので」
「そういうの普通に言うなって!」
莉子が笑う。
「いいじゃん。白瀬さん、るいなコーデ寄せで来るかもよ」
「寄せるな!」
「黒瀬さんの意見を参考にするだけです」
「白瀬、それも強い!」
黒瀬は両手で顔を隠しそうになって、途中でやめた。
教室だからだろう。
湊はその様子を見ながら、少しだけ笑ってしまった。
黒瀬がすぐに睨む。
「朝比奈、笑った」
「少し」
「認めるな」
「明日、普通でいいと思うぞ」
湊が言うと、黒瀬は一瞬止まった。
「……普通?」
「うん。黒瀬が着たい服で」
黒瀬は視線を逸らした。
「それがむずいんだって」
「そうなのか」
「そう。明日は、見る側でもあるけど見られる側でもあるし」
言ってから、黒瀬はまた固まった。
自分でかなり本音を言ったと気づいたのだろう。
莉子がにやにやする。
「見られる側、ね」
「莉子」
「はいはい、深追いしない」
栞は静かに黒瀬を見ていた。
「黒瀬さんが選んだ服なら、きっと似合うと思います」
「だから、そういうの」
「本当なので」
「もう」
黒瀬は困ったようにため息をついた。
けれど、少しだけ嬉しそうでもあった。
その日の夜。
黒瀬からのメッセージは、八時半より少し早く来た。
『今日、行く』
湊は返信した。
『明日の作戦会議?』
『そう』
『カフェラテ?』
『当然』
少しして、もう一通。
『明日、何着ればいいと思う?』
湊はスマホを見て、少しだけ固まった。
これは難しい。
変に具体的に答えると、黒瀬は照れる。
適当に答えると、たぶん怒る。
真面目に答えすぎても、それはそれで重い。
湊は少し考えて返信した。
『黒瀬が落ち着く服』
既読。
長い沈黙。
『ずるい』
やっぱり、そう返ってきた。
九時。
インターホンが鳴った。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように立っていた。
「……遅」
「今日は早めに来ると思ってた」
「何で」
「明日のことで落ち着かなさそうだったから」
「顔?」
「メッセージ」
「うるさい」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がった。
ソファに座るなり、クッションを抱える。
湊がカフェラテを置くと、黒瀬は両手で包んだ。
「明日、ほんとに行くんだよね」
「行くな」
「言い方」
「行くよ」
「うん」
黒瀬はカフェラテを見つめた。
「服見に行く服が決まらない」
「やっぱりそこか」
「そこ大事でしょ」
「大事だな」
「気合い入れすぎると莉子に言われるし」
「言うだろうな」
「適当すぎると白瀬が気を使いそうだし」
「ありそう」
「朝比奈は……」
黒瀬はそこで止まった。
「俺は?」
「見るでしょ」
「見るな」
「見るなとは言ってない」
「じゃあ見る」
「簡単に言うな」
「難しいな」
「難しいの!」
黒瀬はクッションに顔を半分埋めた。
「見てほしいけど、見られるのは困る」
「昨日も言ってた」
「何回でも言う」
「黒瀬らしい」
「便利に使うな」
黒瀬は少しだけ笑った。
それから、スマホを取り出して、画面を湊に見せる。
「これと、これ」
画面には、黒瀬が持っているらしい服の写真が二枚あった。
一つは、少し大人っぽい短めのジャケットに、細身のスカートを合わせたもの。
もう一つは、ゆるめのニットにパンツを合わせた、少し柔らかい雰囲気の服。
どちらも黒瀬に似合いそうだった。
「どっちがいい?」
黒瀬が聞いた。
声が少し緊張している。
湊は画面を見て、少し考えた。
「どっちも似合うと思う」
「それ一番困るやつ」
「じゃあ」
湊は二枚目を指した。
「こっち」
「……何で?」
「明日、長く歩くだろ。こっちの方が楽そうだし、黒瀬が落ち着きそう」
黒瀬は画面を見つめる。
「落ち着きそう?」
「うん。あと、少し柔らかい感じがする」
「柔らかい」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
黒瀬はカフェラテを一口飲んだ。
「莉子に柔らかくなったって言われたし」
「うん」
「服まで柔らかいと、なんか負けた感じする」
「何に?」
「知らない」
黒瀬は少し笑った。
「でも、こっちにするかも」
「いいと思う」
「普通に言うな」
「普通に思った」
「ずるい」
黒瀬はスマホを伏せた。
少しだけほっとした顔だった。
「白瀬、明日ほんとにあの感じで来るのかな」
「黒瀬が似合うって言ったやつ?」
「うん」
「来るかもな」
「見たいけど、見たら負けた気がする」
「勝ち負けなのか」
「ある」
「ノートの字にも勝ち負けあったな」
「ある」
黒瀬は真面目に頷いた。
「でも、白瀬が可愛かったら、ちゃんと言う」
「言える?」
「……たぶん」
「言えたらすごいな」
「そういうの言うな。緊張する」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
いつものやり取りで、黒瀬の肩が少しだけ下がった。
緊張が解けたのだろう。
テレビはつけなかった。
その代わり、二人はしばらく明日の話をした。
何時に駅前へ集合するか。
どの店から見るか。
莉子が途中で脱線しそうなこと。
栞が真面目に全部見そうなこと。
黒瀬が試着するかどうか。
「試着は?」
湊が聞くと、黒瀬は即答した。
「しない」
「ほんと?」
「……たぶん」
「たぶんか」
「するかもしれないけど、朝比奈は変な顔しないで」
「変な顔って」
「似合ってるって言いたそうな顔」
「言っていいんだろ?」
「タイミングによるって言った」
「可愛いは?」
黒瀬が固まった。
長い沈黙。
「……保留」
「まだ保留か」
「便利だから」
「了解」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
「でも」
「うん」
「もし、ほんとにそう思ったなら」
黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
「……小さめに言って」
湊は、すぐに返事をしなかった。
黒瀬が今、かなり勇気を出したのがわかったからだ。
「わかった」
湊が答えると、黒瀬は目を伏せた。
「……ずるい」
「まだ何も」
「返事がずるい」
「そうか」
「うん」
黒瀬はカフェラテを飲み干した。
そして、少しだけ息を吐く。
「明日、ちょっと楽しみ」
小さな声だった。
湊は笑わなかった。
からかわなかった。
ただ、頷いた。
「俺も」
黒瀬は一瞬、湊を見た。
それから、顔を赤くしてクッションに隠れた。
「……普通に言うなって」
「でも本当だし」
「本当なら余計」
声はくぐもっていた。
けれど、嫌そうではなかった。
服を見に行くだけなのに、前日からもう落ち着かない。
けれどその落ち着かなさは、嫌なものではなかった。
明日、黒瀬はたぶん少し柔らかい服で来る。
栞は、黒瀬が似合うと言った服に近いものを着てくるかもしれない。
莉子はきっと、全部を見て笑う。
そして湊は、変な顔をしないように努力する。
努力ではなく、やる。
そう約束したことを、黒瀬はたぶん忘れていない。




