ep.96 放課後自習会、ギャルとメガネっ娘の教え方が違いすぎる
放課後自習会は、一度やって終わりのはずだった。
少なくとも、黒瀬琉衣奈はそういう顔をしていた。
昨日の帰り際にも、彼女はこう言った。
「またやってもいい」
この言い方が、黒瀬らしい。
やりたい、とは言わない。
やろう、とも言わない。
ただ、やってもいい。
けれど、その翌日の朝にはもう、莉子が勝手に予定を広げていた。
「今日もやる?」
朝の教室。
席替え後の席にも少し慣れ、黒瀬は自分の席でプリントを眺めていた。湊が教室へ入ると、いつものように顔を上げる。
「……おはよ」
「おはよう」
挨拶は自然だった。
でも、黒瀬の机の上には昨日の自習で使ったプリントが置かれていた。
それだけで、湊には少しわかってしまう。
黒瀬は、今日もやる気がないふりをして、少しだけ準備している。
莉子はその様子を見逃さなかった。
「るいな、プリント出してるじゃん」
「出してるだけ」
「出してるだけの人は、朝から折り目直さないんだよ」
「莉子、見るな」
「見えるんだもん」
「ほんとうざい」
黒瀬はむくれてプリントを裏返した。
その行動自体が、もう隠せていない。
斜め前の白瀬栞も、静かに振り返った。
「黒瀬さん、昨日の続きなら、今日も見られます」
「……白瀬まで」
「無理にとは言いません」
「そう言うから逃げにくいんだって」
「すみません」
「謝るの早い」
いつものやり取り。
けれど、昨日よりもっと自然だった。
莉子が椅子の背にもたれながら、指を一本立てる。
「じゃあ今日も放課後自習会、仮開催で」
「仮って何」
「るいなが逃げたら中止」
「逃げないし」
「はい、開催」
「誘導すんな!」
黒瀬は顔を赤くした。
湊は思わず笑う。
黒瀬に睨まれた。
「朝比奈も笑うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それ禁止」
「まだ禁止か」
「ずっと禁止」
やり取りの奥で、湊は少しだけ安心していた。
放課後に四人で机を寄せる。
勉強する。
文句を言う。
脱線する。
また戻る。
そんな時間が、昨日一度だけで終わらず、もう次の予定として教室に残っている。
それが、なんとなく嬉しかった。
授業中、黒瀬はかなり真面目だった。
もちろん、ずっと集中していたわけではない。
時々、難しい顔をして窓の方を見る。
シャーペンを回そうとして、危うく落としかける。
莉子に小声で何か言われて、短く「うざ」と返す。
けれど、前よりずっと授業を聞いている。
ノートも取っている。
わからないところに、小さく印までつけている。
湊はその印を見ていないのに、たぶんそうしているのだろうとわかるくらいには、黒瀬の変化に慣れてきていた。
昼休み。
黒瀬からメッセージが来た。
『今日もやる流れになってる』
同じ教室にいるのに。
もう、それにも驚かない。
湊は返信する。
『嫌なのか?』
既読。
『嫌とは言ってない』
『じゃあやる?』
『やってもいい』
『黒瀬語ではやるってことだな』
少し間が空く。
『翻訳すんな』
湊は少し笑った。
すると、斜め前の栞が振り返る。
「黒瀬さんですか?」
「うん」
「今日の自習会の話ですね」
「よくわかるな」
「黒瀬さんが、こちらを少し見ていたので」
湊が黒瀬の席を見ると、黒瀬はすぐに目を逸らした。
見ていた。
完全に見ていた。
湊はスマホにもう一度目を落とす。
『白瀬さんもやる気だぞ』
黒瀬からすぐ返ってくる。
『知ってる。あのメガネ、ノート準備してた』
『よく見てるな』
『見えるだけ』
『近くないのに?』
既読。
少し間。
『うるさい』
その短い返事が、妙に黒瀬らしくて湊はまた笑ってしまった。
放課後。
ホームルームが終わると、教室から人が減っていく。
部活組が鞄を持って出ていく。
帰宅組が何人かまとまって廊下へ向かう。
窓の外は少し淡い夕方の色になり始めていた。
昨日と同じように、四人が残る。
湊。
黒瀬。
栞。
莉子。
机は、完全にくっつけるほどではない。
でも、ノートを見せ合えるくらいには近い。
栞が丁寧にプリントを並べる。
「今日は、昨日の続きと、次の確認テストの範囲を見ましょう」
「白瀬先生、今日も仕切りが完璧」
莉子が言う。
「先生ではありません」
「でも先生っぽい」
「それは、昨日も言われました」
「じゃあ慣れた?」
「少しだけ」
栞が真面目に答えるので、莉子が笑う。
黒瀬はペンケースを出しながら、少しだけため息をついた。
「白瀬の説明、ちゃんとしすぎて、たまに授業より授業」
「それ、褒めているのでしょうか」
「半分」
「半分でも嬉しいです」
「それも慣れてきた」
黒瀬がぼそっと言った。
栞は一瞬、少し驚いた顔をした。
それから、小さく微笑む。
「私も、黒瀬さんの半分に慣れてきました」
「慣れなくていい」
「便利なので」
「みんな便利って言いすぎ」
莉子がすかさず口を挟む。
「るいなが最初に便利ワード量産するからじゃん」
「あたしのせい?」
「半分くらい」
「使うな」
机の周りが少し笑いに包まれた。
自習会が始まる。
最初は数学だった。
黒瀬が昨日から引っかかっていた問題を出す。
「ここ、またわかんない」
栞がすぐにノートを開いた。
「この問題は、まず条件を整理します。ここに書いてある値を表にして、それから式に入れます」
栞の説明は、きれいだった。
順番がはっきりしている。
文字も整っている。
問題文のどこを見るべきか、どこで式を立てるべきか、無駄なく示してくれる。
ただ、黒瀬は途中で眉を寄せた。
「待って」
「はい」
「綺麗すぎて、今どこにいるかわかんなくなった」
栞が少し焦る。
「すみません。ええと、ここです」
「いや、白瀬が悪いわけじゃない。たぶんあたしの頭が追いついてない」
黒瀬が珍しく自分からそう言った。
湊は少しだけ驚く。
以前なら「意味わかんない」で済ませていたかもしれない。
今は、どこで置いていかれたかを自分で言おうとしている。
栞もそれに気づいたようで、表情が少し柔らかくなる。
「では、一度戻りましょう」
「戻るの早い」
「戻った方が早いので」
「白瀬、そういうところ先生」
「先生ではありません」
いつもの返し。
でも、黒瀬は逃げない。
しばらく説明を聞いたあと、今度は湊の方を見る。
「朝比奈」
「うん」
「ざっくり言うと?」
「ざっくり?」
「白瀬の説明はきれい。でも、あたしには一回ざっくりがいる」
「なるほど」
湊はプリントを覗き込んだ。
「これは、問題文に出てきた数字を、そのまま使うんじゃなくて、まずどれが必要か分ける問題」
「分ける」
「うん。料理で言うと、材料全部を鍋に突っ込むんじゃなくて、使う分だけ切っておく感じ」
「急に料理」
「ざっくりだから」
黒瀬は少し考えた。
「あー……じゃあ、これとこれはまだ入れない?」
「そう。それは最後」
「で、こっち先?」
「うん」
「……わかったかも」
黒瀬の表情が少し明るくなる。
栞が横から静かに補足する。
「その理解で合っています。では、それを式にするとここです」
「なるほど」
黒瀬がペンを動かす。
莉子が横で頬杖をつきながら、感心したように言った。
「白瀬先生が地図で、朝比奈先生が道案内って感じ」
「何それ」
黒瀬が顔を上げる。
「いや、白瀬さんは全体図をきれいに出してくれるじゃん。朝比奈くんは『この角曲がって、次のコンビニのとこ』みたいに言う」
「あー」
黒瀬が納得してしまった顔をする。
「ちょっとわかる」
栞も少しだけ笑った。
「私は地図ですか」
「めっちゃ綺麗な地図」
莉子が言う。
「朝比奈くんはコンビニ案内」
「俺だけ雑じゃないか」
「でもわかりやすいよ」
莉子は悪びれない。
黒瀬が小さく言う。
「雑だけど入る」
「それ昨日も言ってたな」
湊が返すと、黒瀬は少しだけ顔を赤くした。
「覚えてるな」
「うん」
「最低」
言いながらも、彼女は少し笑っていた。
次は莉子が詰まった。
「ねえ、これ何でこうなるの?」
栞が説明しようとすると、莉子はすぐに手を上げる。
「あ、白瀬先生、ちょっと待って。たぶん今、きれいな説明されると寝る」
「寝ないでください」
「じゃあ朝比奈先生から雑に」
「俺、雑担当で固定なのか」
「黒瀬さん公認」
「公認してないし」
黒瀬が突っ込む。
湊は苦笑しながら説明した。
「これは、さっきと逆。最初に答えの形を決めてから、数字を入れていく」
「型から入るやつ?」
「そう」
「なるほど、メイクで言うベース作り?」
莉子が言う。
黒瀬がすぐ反応した。
「それちょっと違くない?」
「違う?」
「ベースっていうより、先に系統決めるやつじゃない? 今日は大人っぽく、とか、甘め、とか」
「あー、なるほど」
莉子が納得する。
栞はその会話を聞きながら、少しだけ目を瞬かせていた。
「その例え、わかりやすいかもしれません」
「白瀬まで?」
黒瀬が驚く。
「はい。先に方向を決めて、それに合わせて要素を入れる、ということですね」
「……まあ、そんな感じ」
「黒瀬さんの説明も、わかりやすいです」
黒瀬が固まった。
少し遅れて、耳が赤くなる。
「そういうの、普通に言うなって」
「本当なので」
「出た」
莉子が笑う。
「るいなも先生側いけるんじゃない?」
「無理」
「ファッション例え先生」
「何それ」
「白瀬さんが地図、朝比奈くんがコンビニ案内、るいながファッション例え」
「莉子は?」
湊が聞くと、莉子は胸を張った。
「眠気担当」
「役に立たない」
黒瀬が即答した。
「ひど」
「事実」
四人で笑った。
放課後の教室は、昨日よりもさらに静かだった。
窓の外では運動部の声が遠く聞こえる。廊下を通る生徒の足音も、もう少ない。
机の上にはプリントが広がり、シャーペンの音がぽつぽつと鳴る。
黒瀬は文句を言いながらも、かなり集中していた。
「ここ、もう一回」
と自分から言う。
栞が説明する。
湊がざっくり言い直す。
莉子が変な例えを出す。
黒瀬が修正する。
気づけば、ただ教わるだけではなくなっていた。
四人で一つの問題を別々の角度から見ている。
それが、妙に楽しかった。
途中で莉子が飴を配った。
「糖分タイム」
「また持ってきたのか」
湊が言うと、莉子は笑う。
「昨日るいなにもらったから、今日はあたしが」
「お、珍しく保護者っぽい」
黒瀬が言う。
「るいなに言われると複雑」
「いつも言ってるじゃん」
「それはあたしが言う分にはいいの」
「何それ」
莉子が配った飴を、栞は両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「白瀬さん、飴でも丁寧」
「いただいたので」
「そりゃそうだけど」
黒瀬は飴の包みを開けながら、ふと栞のノートを見た。
「白瀬」
「はい」
「今度さ、そのノートの取り方、教えて」
栞の手が止まった。
湊も莉子も、少しだけ驚く。
黒瀬が自分から、栞に頼んだ。
勉強の説明ではなく、ノートの取り方を。
それは、かなり大きい。
黒瀬は自分で言ってから少し照れたのか、すぐに目を逸らす。
「別に、全部真似するわけじゃないけど」
「はい」
「でも、見やすいし」
「ありがとうございます」
「……だから、そういうの普通に言うなって」
「すみません。でも、嬉しいです」
栞の声は、本当に嬉しそうだった。
黒瀬は困ったように飴を口へ入れた。
「来週でいいから」
「はい。では、簡単にまとめておきます」
「まとめるの早」
「準備しておきたいので」
「そういうとこ先生」
「先生ではありません」
いつもの返しに、黒瀬が少しだけ笑った。
自習会は、一時間半近く続いた。
最初は一時間くらいの予定だったのに、気づけば少し延びている。
莉子が最後に机へ突っ伏した。
「もう無理。頭から煙出る」
「出てない」
黒瀬が冷静に言う。
「出てる気分」
「気分なら出てるかも」
「るいな、冷たいようで優しい」
「どこが」
「否定しきらないとこ」
「もう疲れただけ」
黒瀬もかなり疲れていた。
でも、表情は悪くない。
湊がプリントをまとめながら言う。
「今日は結構進んだな」
「うん」
黒瀬が素直に頷く。
「疲れたけど、わりとよかった」
「昨日も言ってた」
「何回でも言う。わりとよかった」
栞が微笑む。
「次も、できそうですね」
「白瀬、すぐ次って言う」
「無理にとは言いません」
「それが逃げにくいって言ってる」
「すみません」
「謝るの早い」
けれど、黒瀬は少し考えてから言った。
「でも、次も……まあ、やってもいい」
莉子が顔を上げる。
「はい来た、やってもいい」
「翻訳するな」
「るいな語で参加確定」
「違うし」
「違わないよね、朝比奈くん?」
急に振られて、湊は少し笑った。
「かなり前向きだと思う」
「朝比奈まで」
「白瀬さんは?」
莉子が続けると、栞は真面目に頷いた。
「前向きだと思います」
「白瀬まで!」
黒瀬は顔を赤くした。
でも、逃げなかった。
放課後の自習会が終わる頃、教室はすっかり夕方になっていた。
窓の外の空は薄い橙色で、校庭からは部活の掛け声が遠く響いている。
四人で机を戻す。
それぞれの席へ荷物を片付ける。
黒瀬が鞄を持って、湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「自習会の反省?」
「文句と確認」
「また確認」
「便利だから」
「何の文句?」
「白瀬の説明がきれいすぎる件と、朝比奈が雑担当になった件と、莉子が眠気担当なのに役立った件」
「多いな」
「多い」
「カフェラテ?」
「当然」
黒瀬は少しだけ笑った。
その笑い方は、確かに柔らかくなっていた。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『自習会、今日も進んだな』
『疲れた』
『でもよかった?』
『わりと』
『次もやる?』
既読。
少し間が空く。
『やってもいい』
湊は笑った。
『黒瀬語で参加確定』
『翻訳禁止』
『カフェラテ?』
『当然』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように少しむくれた顔で立っていた。
「……遅」
「今日も自習会お疲れ」
「開幕で労うな」
「労いたかった」
「普通に言うなって」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
ソファに座り、クッションを抱える。
湊がカフェラテを置くと、黒瀬は両手で包んだ。
「疲れた」
「だろうな」
「白瀬の説明、きれいすぎる」
「うん」
「朝比奈の説明、雑だけど入る」
「雑担当だからな」
「自分で言うな」
「莉子さんの例えも意外とよかった」
「眠気担当なのに」
「眠気担当なのに」
黒瀬は少し笑った。
「でも、今日一番変だったの、あたし」
「どこが?」
「白瀬にノートの取り方聞いた」
「ああ」
「自分で言ってびっくりした」
「いいことじゃないか」
「そう?」
「うん。知りたいって思ったんだろ」
「……うん」
黒瀬はカップを見つめた。
「白瀬のノート、見やすいから」
「本人、嬉しそうだった」
「見えた?」
「かなり」
「そういうの見るな」
「見えるから」
「近くないのに?」
「うん」
黒瀬は少しだけ口を尖らせた。
「白瀬って、ちゃんと喜ぶから困る」
「困る?」
「うん。頼んだこっちが、ちゃんと頼んでよかったって思うじゃん」
「いいことだろ」
「いいことだけど、慣れない」
黒瀬はカフェラテを一口飲んだ。
「でも、嫌じゃない」
「知ってる」
「知ってるって言うな」
「今日も便利ワード」
「便利だから」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
「自習会、またやってもいい」
「うん」
「でも、毎日は無理」
「わかってる」
「頭から煙出る」
「莉子さんみたいだな」
「やめて」
黒瀬は少し笑った。
それから、湊を見た。
「朝比奈」
「ん?」
「今日、ちゃんと聞けてた?」
「黒瀬が?」
「うん」
「聞けてた。かなり」
黒瀬は顔を赤くした。
「だから、そういうの」
「カフェラテ中なら少しマシなんだろ」
「それを覚えてるのがずるい」
「大事そうだったから」
「ずるい」
黒瀬はクッションで顔を半分隠した。
でも、少ししてから小さく言う。
「……ちょっと嬉しい」
「うん」
「返事しないの?」
「したら逃げるかと思って」
「逃げないし」
「じゃあ、よかった」
「遅い」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬は少しだけ笑った。
放課後自習会は、ギャルとメガネっ娘の教え方が違いすぎた。
白瀬栞は、地図みたいにきれいに道筋を示す。
朝比奈湊は、コンビニ案内みたいに雑だけど近道を教える。
藤堂莉子は、眠気担当のくせにたまに妙な例えで空気を軽くする。
そして黒瀬琉衣奈は、文句を言いながら、ちゃんと聞くのが上手くなっていた。
次もやってもいい。
その黒瀬語の前向きな言葉は、夜の部屋のカフェラテの湯気と一緒に、しばらく残っていた。




