ep.95 放課後自習会の話が出る
小テストの結果が返ってから、黒瀬琉衣奈は少しだけ扱いにくくなった。
悪い意味ではない。
むしろ、かなり良い意味だ。
前より点が上がった。
白瀬栞に教わったところが出た。
朝比奈湊に確認した式も合っていた。
その全部がちゃんと答案の上に残っていて、黒瀬は嬉しいのを隠しきれていなかった。
けれど本人は、絶対にそれを認めない。
朝の教室で、莉子がさっそく答案の話を蒸し返した。
「るいな、昨日の点数、まだニヤけてるよね」
「ニヤけてない」
「いや、してる。小テストに勝ったギャルの顔してる」
「何その顔」
「ちょっと誇らしげで、でも褒められると逃げる顔」
「莉子、朝からうざい」
「はいはい」
黒瀬はむくれていたが、いつもほど鋭くはなかった。
湊が教室に入ると、黒瀬は少し離れた席から顔を上げる。
「……おはよ」
「おはよう」
その挨拶も、席替え後の距離にずいぶん馴染んできた。
最初は遠くなったことを気にしていた黒瀬も、今では必要なら歩いてくる。来られない時はメッセージを送る。来たくない時は来ない。
その全部が、黒瀬なりの距離の作り方になり始めていた。
斜め前の栞も振り返る。
「朝比奈くん、おはようございます」
「おはよう」
「黒瀬さん、今日は少し機嫌が良さそうですね」
「小テスト効果?」
「たぶん」
栞は静かに微笑んだ。
その視線の先で、黒瀬が莉子に何か言い返している。
「見られてるよー、るいな」
莉子が言う。
「誰に」
「白瀬さんと朝比奈くんに」
「見るな!」
黒瀬の声が少し大きくなり、近くの生徒がちらっと見る。
黒瀬は慌てて咳払いした。
「……朝から何なの」
「いや、元気だなって」
「元気じゃないし」
そう言いながらも、黒瀬の頬は少し赤い。
小テストの結果がよかったことを、誰かに褒められるのは嬉しい。
でも、嬉しいと認めるのは悔しい。
そんな顔だった。
二限目の終わりに、数学教師が教卓でプリントの束を軽く叩いた。
「昨日の小テスト、全体的には悪くなかった。で、次の単元に入る前に、来週もう一回確認テストをする」
教室中から小さな悲鳴が上がった。
「えー」
「またですか」
「先生、確認多くないですか」
「確認しないと忘れるだろ」
先生はまったく動じない。
「それと、放課後に希望者だけ自習していい。質問があるなら残れ。友達同士で教え合ってもいいぞ。ただし騒ぐな」
その一言で、教室のあちこちに微妙な空気が流れた。
自習。
放課後。
友達同士で教え合い。
黒瀬が、少しだけ湊の方を見る。
湊も気づいてしまった。
そして、栞も気づいている。
莉子だけは、隠す気もなくにやっとした。
休み時間になった瞬間、莉子が黒瀬の席へやってきた。
「るいな、やる?」
「何を」
「放課後自習」
「やらない」
即答だった。
けれど、その即答が少し早すぎた。
莉子は当然見逃さない。
「ほんとに?」
「ほんと」
「小テスト上がったから、次もいけるんじゃない?」
「それは……まあ」
「ほら、ちょっと乗り気」
「乗り気じゃないし」
「白瀬先生いるよ」
「先生じゃないし」
「朝比奈先生もいるよ」
「先生じゃないって」
黒瀬が同じことを二回言った。
莉子は楽しそうに笑う。
「じゃあ四人でやれば? あたしも残るし」
「莉子、絶対途中で飽きるじゃん」
「飽きるけど、そこはほら、みんなで止めて」
「自分で言うな」
黒瀬は呆れたように言った。
しかし、完全には嫌がっていない。
それを見て、莉子が湊の方へ声を飛ばす。
「朝比奈くーん、今日放課後自習する?」
黒瀬が即座に振り返る。
「莉子!」
「何よ、聞いただけじゃん」
湊は少しだけ考えた。
予定はない。
それに、黒瀬が迷っているのはわかる。
「俺は残れるけど」
そう答えると、黒瀬は少しだけ目を逸らした。
莉子は満足そうに頷く。
「はい、一人確保」
「勝手に確保すんな」
「白瀬さんは?」
莉子が栞を見る。
栞は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに落ち着いた顔で答えた。
「私は残れます。質問があるなら、わかる範囲で一緒に見ます」
「はい、二人目」
「何で数えてんの」
「るいな包囲網」
「言い方!」
黒瀬の声がまた少し大きくなる。
莉子は笑って肩をすくめた。
「で、るいなは?」
「……」
「残らない?」
「……ちょっとだけなら」
「はい決定」
「ちょっとだけって言った!」
「るいな語では参加」
「翻訳すんな!」
黒瀬は顔を赤くした。
けれど、席を立って逃げるわけではない。
栞が静かに言った。
「黒瀬さん、次の確認テストも一緒に見ましょう」
「……白瀬がそう言うと、逃げにくい」
「すみません」
「謝るの早い」
いつものやり取り。
でも、そこに以前のような壁はなかった。
むしろ、少し自然だった。
昼休み。
放課後自習の話は、なし崩し的に決まりかけていた。
場所は教室。
時間はホームルーム後から一時間くらい。
メンバーは湊、黒瀬、栞、莉子。
莉子は自分から言い出したくせに、昼休みにはもう少し面倒くさそうにしていた。
「一時間って長くない?」
「言い出したの莉子だろ」
黒瀬が突っ込む。
「いや、言ったけどさ。自習って聞くと急に重い」
「じゃあ帰れば?」
「やだ。置いていかれる感じするし」
「何に」
「るいなの成長に」
「やめろ」
黒瀬は顔を赤くする。
莉子はからかうようでいて、たまに本気を混ぜてくる。
それが黒瀬には一番効くらしい。
栞はノートを開きながら、静かに言った。
「今日は、まず小テストで間違えたところを見直すのがいいと思います」
「白瀬、もう先生じゃん」
莉子が笑う。
「先生ではありません」
「でもノートが先生っぽい」
「それは、少し嬉しいかもしれません」
「嬉しいんだ」
栞は少しだけ照れたように笑った。
黒瀬がその顔を見る。
「……白瀬、そういう顔もするんだ」
「そういう顔?」
「ちょっと嬉しそうな顔」
栞は少しだけ目を丸くした。
それから、頬をほんの少し赤くする。
「黒瀬さんも、最近よく見ていますね」
「見えてるだけ」
「近くはないのに?」
「……うるさい」
黒瀬は視線を逸らした。
湊はそのやり取りを見て、少しだけ笑う。
黒瀬に睨まれた。
「何」
「いや、二人とも少し似てきたなって」
「似てないし」
「似ていません」
二人の声が重なった。
莉子が即座に吹き出す。
「また!」
「莉子、笑うな!」
「すみません、少し恥ずかしいです」
「白瀬も同時に否定しないで!」
「黒瀬さんも同時でした」
「そういう返し強い!」
昼休みの空気が少し軽くなる。
ただの放課後自習。
けれど、その話題だけで四人の関係が少し見える。
莉子がからかい、黒瀬がむくれ、栞が真面目に受け止め、湊がその間で少し笑う。
気づけば、それがこの四人の形になりつつあった。
放課後。
ホームルームが終わると、教室から一気に人が減った。
部活へ行く者。
友達と帰る者。
用事があると言って足早に出ていく者。
その中で、四人だけが机を少し寄せた。
完全に固めると目立つので、湊の席周辺に自然に集まる形だ。
栞はすでにノートとプリントを出している。
湊も小テストの答案を出す。
黒瀬は少し渋々という顔でプリントを出す。
莉子は筆箱を出したあと、すぐにスマホへ手を伸ばしかけた。
「莉子」
黒瀬が低い声で言う。
「まだ何もしてない」
「今しようとした」
「ばれた」
「始まって三秒で飽きるな」
「ごめんごめん」
莉子はスマホを伏せた。
栞が小さく笑う。
「では、まず小テストの見直しからにしましょう」
「先生だ」
「先生ではありません」
莉子の軽口に、栞はいつも通り答える。
黒瀬は自分の答案を机に出した。
点数を見られるのが恥ずかしいのか、少しだけ隠すように置く。
湊は見ないようにした。
栞も見ない。
莉子だけが覗こうとして、黒瀬に睨まれる。
「見んな」
「はいはい」
栞が黒瀬の答案の横を指す。
「ここ、途中式は合っています。ただ、最後の符号が逆です」
「符号って何でこんなに裏切るの」
「符号は裏切っていません。たぶん、途中で見落としただけです」
「真面目に返された」
黒瀬は少しだけ困った顔をした。
湊が横から言う。
「ここ、最後にもう一回代入して確認するとミス減るかも」
「また代入」
「小テストの敵みたいに言うな」
「敵だし」
黒瀬は言いながらも、ちゃんとメモを取った。
その姿を見て、莉子が目を細める。
「るいな、勉強してるじゃん」
「今してるからでしょ」
「いや、昔ならこの時点で『だる』って言ってた」
「昔って何」
「一ヶ月前くらい」
「近い」
黒瀬はむくれた。
けれど、ペンは止めない。
それがまた、莉子を嬉しそうにさせた。
自習は、思ったよりちゃんと進んだ。
栞が丁寧に整理する。
湊が少し噛み砕いて説明する。
黒瀬が文句を言いながら聞く。
莉子が途中で脱線しかけて、黒瀬に戻される。
不思議とバランスがよかった。
黒瀬が途中で言った。
「白瀬の説明、きれいすぎてたまに置いてかれる」
栞が少し焦る。
「すみません。どこがわかりにくかったですか?」
「いや、わかりにくいっていうか、きれいすぎる」
「きれいすぎる?」
「ノートも説明も、ちゃんとしすぎ」
黒瀬は湊の方を見る。
「朝比奈のは雑だけど入ってくる」
「褒めてる?」
「半分」
「出た」
莉子が笑う。
栞も少しだけ口元を緩めた。
「では、朝比奈くんの説明で確認して、私のノートで整理するのがいいかもしれません」
「二人で教えるの、ほんと強すぎ」
黒瀬がぼそっと言う。
湊は少し笑う。
「黒瀬も聞くの上手くなったと思うけど」
黒瀬の手が止まる。
「……そういうの、放課後の教室で言うなって」
「夜ならいいのか?」
「夜でもむずい」
「じゃあいつなら」
「……カフェラテ飲んでる時なら、ちょっとマシ」
「昨日も言ってたな」
「覚えてるな!」
黒瀬の声が少し跳ねる。
莉子が一瞬で反応した。
「カフェラテ?」
黒瀬が固まった。
湊も固まった。
栞が静かに目を伏せた。
莉子の目が輝く。
「今、カフェラテって言った?」
「言ってない」
「言ったよね?」
「言ってないし」
「るいな、夜にカフェラテ飲んでるの?」
「莉子」
黒瀬の声が低くなる。
莉子は両手を上げた。
「はいはい、深追いしない。今は自習会だから」
「絶対あとで言う顔してる」
「ちょっとだけ」
「やめろ」
黒瀬は真っ赤になった。
湊は完全に自分の発言を後悔していた。
栞は何も聞かなかった。
聞かなかったが、少しだけ頬が赤い。
たぶん、いろいろ察している。
黒瀬が小声で湊に言った。
「今日、夜に文句言う」
「俺が悪かった」
「そう」
「認めるしかない」
「認めたなら聞いて」
「はい」
自習会はその後も続いた。
途中で莉子が「糖分ほしい」と言い出し、黒瀬が鞄から小さな飴を出して渡した。
「るいな、優しい」
「うるさい」
「柔らかくなった」
「それ禁止」
「禁止多いなあ」
栞は飴を受け取って、丁寧に礼を言った。
「ありがとうございます、黒瀬さん」
「別に。余ってただけ」
「助かります」
「だから、そういうの普通に言う」
黒瀬は困ったように言いながらも、少しだけ嬉しそうだった。
一時間ほどで自習会は終わった。
黒瀬は思ったより疲れた顔をしていたが、どこか満足そうでもあった。
莉子は伸びをしながら言う。
「あー、勉強した。今日えらい」
「自分で言うな」
「でも四人だと意外と続くね」
「莉子が脱線しなければ」
「そこはるいなが戻して」
「何であたしが」
「保護者だから」
「保護者は莉子でしょ」
「お、保護者交代?」
「しない」
莉子と黒瀬のやり取りに、栞が小さく笑う。
湊も笑った。
放課後の教室は、すっかり静かになっていた。
窓の外は夕方の色に染まっている。机の上にはプリントとノート、空になった飴の包み紙が一つ。
ただの自習会。
でも、悪くない時間だった。
帰り支度をしながら、黒瀬が湊の机の横に来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、わりとよかった」
「自習会?」
「うん」
「またやる?」
黒瀬は少しだけ考えた。
「……やってもいい」
「かなり前向きだな」
「言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
黒瀬はむくれたが、すぐに小さく言った。
「でも、カフェラテの件は文句言う」
「夜?」
「夜」
「来る?」
「行く」
「当然?」
「当然」
黒瀬はそう言って、少しだけ笑った。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『カフェラテの文句?』
『そう』
『カフェラテいる?』
『当然』
少しして、もう一通。
『自習会、悪くなかった』
湊は返信した。
『またやるか』
既読。
『やってもいい』
その文面が黒瀬らしくて、湊は少し笑った。
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように少しむくれた顔で立っていた。
「……遅」
「今日は放課後自習お疲れ」
「開幕でそれ?」
「言いたかった」
「普通に言うなって」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
ソファに座り、クッションを抱える。
湊がカフェラテを置くと、黒瀬はカップを両手で包んだ。
「で」
「うん」
「カフェラテの話を放課後の教室でするな」
「悪かった」
「莉子に聞かれた」
「本当に悪かった」
「白瀬にも聞かれた」
「それは……うん」
「たぶん察してた」
「だろうな」
黒瀬はカップを見つめた。
「でも、別に嫌ではなかった」
「嫌じゃない?」
「うん。嫌じゃないけど、恥ずかしい」
「それはわかる」
「わかるなら言うな」
「はい」
黒瀬はカフェラテを一口飲む。
「自習会、疲れた」
「うん」
「白瀬、ちゃんと見てくるし」
「うん」
「莉子、すぐ脱線するし」
「うん」
「朝比奈、変なタイミングで褒めるし」
「それはごめん」
「でも」
黒瀬は少しだけ目を伏せた。
「またやってもいい」
「うん」
「白瀬のノート、わかりやすいし。朝比奈の説明、雑だけど入るし。莉子いると空気軽いし」
「黒瀬は?」
「え?」
「黒瀬は、ちゃんと聞くの上手くなってる」
黒瀬は固まった。
それから、カップを持ったまま顔を赤くする。
「……だから、カフェラテ中に言えばいいって意味じゃない」
「今カフェラテ中だから」
「屁理屈」
「でも本当だし」
「ずるい」
黒瀬はクッションに顔を半分隠した。
「でも、ちょっと嬉しい」
小さな声だった。
湊はすぐには返さず、ただ頷いた。
放課後自習会の話が出た。
そしてそれは、ただの勉強時間では終わらなかった。
黒瀬が教わり、栞が整理し、莉子が空気を軽くして、湊が少し雑に噛み砕く。
その四人の形が、教室の中に新しく生まれ始めていた。




