ep.94 忘れないで、と言ったギャルは翌朝目を逸らす
翌朝、教室に入った瞬間、朝比奈湊は少しだけ身構えた。
理由は、はっきりしている。
昨夜の黒瀬琉衣奈の言葉が、まだ残っていたからだ。
――そこは忘れないで。
――ライバルなのは変わんないから。
――朝比奈があの子を見るのは、やっぱちょっと面白くない。
カフェラテの湯気越しに言った黒瀬の顔。
クッションに半分隠れながら、それでも逃げずに言葉にした声。
あれは、かなり大きかった。
だから、教室で黒瀬と目が合ったら、どういう顔をすればいいのか、湊自身も少しわからなかった。
教室はいつも通りだった。
朝のざわめき。
椅子を引く音。
誰かが小テストの結果をまだ引きずっていて、別の誰かが今日の放課後の予定を話している。
黒瀬は席にいた。
席替え後の、少し離れた席。
スマホを見ているふりをしている。
湊が入ってきた瞬間、黒瀬は顔を上げた。
目が合う。
その一瞬で、黒瀬の耳が少し赤くなった。
そして、珍しくすぐに目を逸らした。
湊は思わず足を止めそうになった。
黒瀬が、逃げた。
いや、逃げたというほど大げさではない。
ただ、昨日のことを思い出して、挨拶の前に目を逸らしただけ。
でも、黒瀬にしては珍しかった。
いつもなら、少し照れていても「……おはよ」と言う。
むくれた顔をしていても、とりあえず声は出す。
今日は、ほんの一拍遅れた。
「……おはよ」
ようやく黒瀬が言った。
「おはよう」
湊はできるだけ普通に返した。
普通に。
いつも通りに。
しかし黒瀬は、湊の顔を見るなり、少しだけ眉を寄せた。
「……何」
「いや、別に」
「今、昨日のこと思い出したでしょ」
ばれている。
湊は少しだけ諦めた。
「顔に出てた?」
「出てた」
「悪い」
「謝るの早い」
いつものやり取り。
けれど、黒瀬の声は少しだけ弱い。
莉子が少し離れた席から、すぐに反応した。
「るいな、今日また顔うるさい」
「朝から何」
「昨日なんかあった顔」
「何もないし」
「嘘つく時の返事、早いんだよね」
「莉子、黙って」
「はいはい」
莉子は笑って引いた。
だが、その目は明らかに面白がっている。
斜め前では、白瀬栞が静かにノートを開いていた。
湊が席に着くと、栞が振り返る。
「朝比奈くん、おはようございます」
「おはよう」
栞はいつもの落ち着いた表情だった。
けれど、湊の顔を見て少しだけ首を傾げる。
「昨日、何かありました?」
鋭い。
さすがに鋭い。
湊は一瞬、返事に詰まった。
黒瀬の言葉を、そのまま栞に言うわけにはいかない。
栞は黒瀬にとって敵ではない。
ライバルっぽいけれど、敵ではない。
けれど、昨夜の黒瀬の言葉は、黒瀬が湊の部屋で言ったものだ。
勝手に渡していいものではない。
「いや」
湊は曖昧に答えた。
「少し、席替え後の話をしただけ」
「そうですか」
栞は深追いしなかった。
ただ、黒瀬の方をちらりと見る。
黒瀬は見ていないふりをしている。
でも、たぶん聞こえている。
栞は少しだけ目を伏せた。
「黒瀬さん、今日は少し照れているように見えます」
「……白瀬さんも顔で読むようになってきたな」
「黒瀬さんと朝比奈くんの影響かもしれません」
「俺も?」
「はい」
栞は小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、湊は昨夜の黒瀬の言葉をまた思い出してしまった。
――朝比奈があの子を見るのは、やっぱちょっと面白くない。
反射的に、湊は少しだけ視線を外した。
栞はそれに気づいたのか、少しだけ不思議そうな顔をする。
「朝比奈くん?」
「ごめん。何でもない」
「……そうですか」
栞はそれ以上は聞かなかった。
ただ、少しだけ考えるように前を向いた。
一限目は、あまり頭に入らなかった。
湊はノートを取っていたが、時々黒瀬の席を見てしまう。
黒瀬も、こちらを見てはすぐに目を逸らす。
わかりやすい。
けれど、湊の方も人のことは言えない。
昨日の「忘れないで」が、思ったより残っている。
二限の休み時間。
湊のスマホが震えた。
黒瀬からだった。
『昨日の忘れて』
同じ教室にいるのに、メッセージ。
もうそれも珍しくなくなってきた。
湊は黒瀬の席を見る。
黒瀬はスマホを持ったまま、完全にそっぽを向いている。
湊は返信した。
『無理』
すぐ既読。
返事は少し遅れた。
『最低』
いつもの言葉。
でも、今日はまだ続いた。
『ほんとに忘れて』
湊は少しだけ指を止める。
黒瀬がそこまで言うのは、かなり照れている証拠だ。
でも、忘れていい言葉ではないと思った。
『忘れないでって言ったの黒瀬だろ』
送った瞬間、少し踏み込みすぎたかと思った。
既読がついた。
長い沈黙。
黒瀬はスマホを見たまま固まっている。
数秒後、彼女は勢いよく顔を上げ、湊を睨んだ。
そして、直接来た。
席と席の間を抜けて、湊の机の横に立つ。
「朝比奈」
「何?」
「メッセージで正論言うな」
「正論だった?」
「正論だからむかつく」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「それ禁止」
黒瀬は少しだけ顔を赤くしていた。
斜め前の栞がこちらを見る。
黒瀬はそれに気づき、少しだけ姿勢を正した。
「白瀬、今の聞いてないよね」
「メッセージの内容は聞こえていません」
「言い方」
「でも、何か大事な話のようには見えました」
「見なくていい」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬は困ったように言った。
けれど、以前ほど棘はない。
栞もそれをわかっているのか、静かに微笑むだけだった。
「黒瀬」
湊が小さく呼ぶ。
「何」
「忘れない」
黒瀬が固まった。
栞も少しだけ目を伏せた。
黒瀬は一瞬、何か言い返そうとしたが、言葉が出なかったらしい。
代わりに、顔が一気に赤くなる。
「……そういうの」
「うん」
「教室で言うなって」
「ごめん」
「謝るの早い」
「でも、今は言った方がいいと思った」
「ずるい」
黒瀬は小さく言って、視線を逸らした。
そのまま逃げるかと思ったが、逃げなかった。
湊の机の横に立ったまま、指先で自分の袖口を軽くつまんでいる。
少しして、黒瀬がぼそっと言った。
「……ならいいし」
「うん」
「でも、昨日の言い方は忘れて」
「内容は?」
「それは……」
黒瀬は少し黙った。
「保留」
湊は思わず笑いそうになる。
「また保留?」
「笑うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「少しは」
「少しって言った」
黒瀬はむくれた顔をした。
けれど、その表情は朝より少しだけ軽かった。
昼休み。
黒瀬は今日は湊の席へ来なかった。
代わりに、少し離れた席で莉子と話している。
ただ、時々こちらを見る。
湊が栞と話していると、少しだけ目が細くなる。
それでも、すぐに文句を言いに来るわけではない。
昨日、自分で言ったことを、黒瀬なりに処理しているのだろう。
栞はその様子を見て、静かに言った。
「黒瀬さん、今日は少し頑張っていますね」
「頑張ってる?」
「はい。言いたいことがありそうなのに、すぐには言わないでいます」
「……本当に何でも見てるな」
「近いので」
「便利な言葉になってきたな」
「はい」
栞は少しだけ笑った。
その笑顔を見て、湊は今度は視線を逸らさなかった。
黒瀬に言われたことを忘れたわけではない。
でも、だからといって栞を不自然に避けるのも違う気がした。
栞は栞だ。
黒瀬が言ったように、敵ではない。
そして、黒瀬が気にしているように、確かに強い。
「白瀬さん」
「はい」
「黒瀬と昨日、少し話したんだよな」
「はい」
「その後、黒瀬は栞の話をよくするようになった」
栞は少しだけ目を丸くした。
「そうなんですか?」
「うん」
「どんな話を?」
「……それは黒瀬に怒られそうだから」
「そうですね」
栞はすぐに引いた。
でも、少しだけ嬉しそうに目を伏せる。
「黒瀬さんが、私の話を」
「うん」
「少し、不思議です」
「嫌?」
「いいえ」
栞はすぐに首を横に振った。
「嬉しいです」
その言い方は、本当に素直だった。
湊は頷く。
その瞬間、スマホが震えた。
黒瀬から。
『白瀬と何話してる?』
湊は思わず黒瀬の方を見る。
黒瀬はスマホを見ていないふりをしている。
いや、スマホは見ているが、こちらを見ていないふりをしている。
湊は返信する。
『黒瀬が白瀬さんの話をよくするって話』
既読。
長い沈黙。
『言うな』
『怒ると思った』
『思ったなら言うな』
『悪い』
『謝るの早い』
いつもの流れ。
栞が湊の表情を見て、少しだけ笑った。
「黒瀬さんですか?」
「うん」
「何と?」
「言うなって」
「私の話をしていたことですか?」
「うん」
栞は少しだけ頬を赤くした。
「それは、少し照れます」
「黒瀬に言ったら固まるな」
「言わないでください」
「わかった」
遠くの席で、黒瀬がまたこちらを見た。
湊と目が合う。
今度は、逸らさなかった。
数秒だけ見て、それから黒瀬は小さく口を動かした。
たぶん、こう言った。
――忘れるな。
声は出ていない。
でも、湊にはそう見えた。
放課後。
黒瀬は帰り支度をしながら、湊の席へ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、行く」
「昨日の続き?」
「うん」
「忘れない件?」
「言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止」
黒瀬は少しだけむくれたあと、視線を逸らした。
「でも、今日ちゃんと言ったから」
「何を?」
「忘れないって」
「うん」
「あれで、ちょっと落ち着いた」
かなり素直だった。
湊は少し驚く。
黒瀬はすぐに顔を赤くした。
「……今のなし」
「無理」
「知ってた」
「今日はカフェラテ?」
「当然」
黒瀬はそう言って、少しだけ笑った。
その笑いは、朝よりずっと自然だった。
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『忘れない件?』
『言うな』
『カフェラテ?』
『当然』
少しして、もう一通。
『でも、言ってくれてよかった』
湊は画面を見て、少しだけ胸が温かくなった。
『ならよかった』
既読。
『そういう返し、安心するからむかつく』
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつものように立っていた。
「……遅」
「今日は目を逸らすの早かったな」
「開幕で言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
ソファに座り、クッションを抱える。
湊がカフェラテを置くと、黒瀬はカップを両手で包んだ。
「朝、目そらしたのは」
「うん」
「昨日のこと思い出したから」
「うん」
「朝から無理だった」
「そっか」
「でも、言ってくれてよかった」
黒瀬はカップを見つめたまま言った。
「忘れないって」
「うん」
「言われないと、ちょっと不安だった」
その言葉は、かなり近かった。
湊は静かに頷く。
「忘れない」
「二回言うな」
「必要かと思って」
「ずるい」
「今日はずるい?」
「ずっと」
黒瀬はカフェラテを飲む。
「白瀬のこと、嫌いじゃない」
「うん」
「むしろ、話すのはちょっと楽しい」
「うん」
「でも、それと朝比奈のことは別」
「うん」
「そこ、忘れないで」
「忘れない」
今度は、黒瀬も逃げなかった。
少しだけ目を伏せて、小さく頷いた。
「なら、いい」
それだけで、その夜の空気は少し落ち着いた。
動画を流す。
軽いバラエティ。
黒瀬はクッションを抱えたまま、いつもより少し湊に近い位置に座っていた。
昨日ほど甘えるわけではない。
肩が触れるほどでもない。
でも、離れてはいない。
たぶん、それが今日の黒瀬の距離だった。
「朝比奈」
「ん?」
「今日、白瀬と話してた時」
「うん」
「ちゃんと普通だった」
「俺が?」
「うん」
「どういう意味?」
「変に避けてなかった」
「避けるのも違うと思ったから」
「……うん」
黒瀬は少しだけ安心した顔をした。
「それでいい」
「いいんだ」
「うん。変に避けられると、それはそれでむかつく」
「難しいな」
「難しいんだし」
黒瀬は少し笑った。
「でも、見すぎはだめ」
「はい」
「返事早」
「大事そうだから」
「……そういうの、ほんとずるい」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
忘れないで、と言ったギャルは翌朝目を逸らした。
でも、夜にはもう一度、その言葉を確かめに来た。
忘れない。
たったそれだけの返事を、黒瀬琉衣奈は面倒くさそうに、照れくさそうに、けれど確かに受け取った。




