ep.91 メガネっ娘とギャル、放課後に二人きりになる
小テストの翌日、教室には妙な余韻が残っていた。
結果はまだ返ってきていない。
それなのに、黒瀬琉衣奈はどこか少しだけ落ち着いていた。
朝比奈湊が教室へ入ると、黒瀬はいつものように顔を上げた。
「……おはよ」
「おはよう」
席替え後の距離にも、少しずつ慣れてきた。
以前ほど近くはない。けれど、声は届く。目も合う。休み時間に歩けば、話せる。
そのことを黒瀬自身が何度も確かめたからか、挨拶の声も昨日より少し自然だった。
莉子が少し離れた席から声を飛ばす。
「るいな、昨日の小テスト、自信ある顔してる」
「してない」
「いや、前より落ち着いてるじゃん」
「返ってきてないのに落ち着くわけないし」
「でも、解けたんでしょ?」
「……前よりは」
「おー、白瀬先生と朝比奈先生の成果」
「先生じゃないって言ってんでしょ」
黒瀬はむくれたが、声はやわらかかった。
斜め前では、白瀬栞が静かにノートを開いていた。
湊が席へ着くと、栞が振り返る。
「朝比奈くん、おはようございます」
「おはよう」
「黒瀬さん、少し自信がありそうですね」
「白瀬さんにもそう見える?」
「はい。昨日より表情が軽いです」
栞はそう言って、少しだけ嬉しそうに黒瀬を見る。
その目に、前みたいな遠慮だけではない何かがあった。
相手を見守るだけではなく、一緒に少し進んだものを見る目。
昨日の小テスト前、栞は黒瀬にポイントを教えた。黒瀬はそれをちゃんと聞いた。そして湊にも確認しに来た。
その一連の流れが、三人の距離を少しだけ変えたのかもしれない。
昼休みには、小テストの結果が返ってきた。
黒瀬は答案を受け取った瞬間、固まった。
莉子が横から覗こうとして、黒瀬が慌てて隠す。
「見んな」
「え、何点?」
「見んなって」
「悪かったの?」
「……悪くはない」
「じゃあいいじゃん」
「よくない。心の準備」
「返ってきたあとに?」
「うるさい」
黒瀬は答案をちらっと見直した。
そして、少しだけ目を丸くする。
湊にも、その反応だけでわかった。
たぶん、思ったより取れている。
「黒瀬」
「何」
「どうだった?」
湊が聞くと、黒瀬は答案を胸元に寄せた。
「……前よりよかった」
「おお」
「反応大きくするな」
「いや、よかったじゃん」
「普通に言うな」
「これは普通に言うだろ」
黒瀬は視線を逸らした。
耳が少し赤い。
そのあと、黒瀬は栞の席へ向かった。
答案を見せるかどうか迷ったようだったが、結局、机の上にそっと置く。
「白瀬」
「はい」
「昨日のとこ、合ってた」
栞は答案を見て、目元をやわらかくした。
「よかったです」
「……ありがと」
「黒瀬さんがちゃんと解いたんです」
「またそういうこと言う」
「本当なので」
「それも聞いた」
黒瀬は少し照れたように答案を引っ込めた。
湊のところへ戻ってくると、今度は答案をちらっと見せる。
点数は、黒瀬が思っていたよりずっと良かったのだろう。
満点ではない。けれど、十分に胸を張れる点数だった。
「すごいじゃん」
「すごいってほどじゃない」
「でも前より上がったんだろ?」
「……うん」
「よかったな」
黒瀬は少しだけ黙ったあと、小さく頷いた。
「うん」
その「うん」は、かなり素直だった。
放課後。
湊は担任に呼ばれて、少し職員室へ行くことになった。
提出物の確認だけだ。たいした用事ではない。
けれど、教室を出る前、黒瀬が少しだけこちらを見る。
「朝比奈、帰るの?」
「いや、職員室に呼ばれただけ。すぐ戻る」
「ふーん」
「先に帰っててもいいぞ」
「別に、まだ帰らないし」
そう言って、黒瀬は自分の鞄に視線を落とした。
栞もまだ教室に残っていた。ノートをまとめている。
莉子は今日は用事があるらしく、鞄を肩にかけていた。
「るいな、あたし先行くね」
「ん」
「朝比奈くんいない間に白瀬さんと喧嘩しないでよ」
「するか」
「しないと思うけど、るいな顔うるさいから」
「ほんとうざい」
莉子は笑って手を振り、教室を出ていった。
湊も職員室へ向かう。
扉を閉める直前、教室の中をちらっと見た。
黒瀬と栞が残っている。
ほかにも数人はいたが、帰り支度をしていて、すぐいなくなりそうだった。
何となく気になったが、湊はそのまま廊下へ出た。
職員室での用事は、本当にすぐ終わった。
提出物の確認をして、先生に「次からは名前をもう少し大きく書け」とよくわからない注意を受けただけだった。
廊下を戻る途中、湊は少しだけ足を緩めた。
教室の前まで来た時、中から黒瀬の声が聞こえた。
「……小テスト、ありがと」
湊は、思わず足を止めた。
教室の扉は少し開いている。
中を覗くつもりはなかった。
けれど声が聞こえた。
栞の声が、静かに返る。
「いえ。黒瀬さんがちゃんと聞いてくれたので」
「それ、昼も言ってた」
「はい。でも、本当なので」
「白瀬ってさ」
「はい」
「そういうの、普通に言うから困る」
黒瀬の声は、いつもの照れ隠しの棘を少し含んでいる。
けれど、鋭くはない。
栞が小さく笑った気配がした。
「黒瀬さんも、最近は普通に言ってくれることが増えました」
「は?」
「ありがとう、とか」
「……それは、言わなきゃ変だから」
「変ではないと思います。でも、言ってもらえると嬉しいです」
「またそういうの」
黒瀬が困ったように息を吐く音がした。
湊は入るタイミングを少し失った。
盗み聞きはよくない。
そう思いながらも、二人の会話は初めて聞く空気だった。
湊がいない場所での、黒瀬と栞。
黒瀬がぽつりと言う。
「白瀬って、朝比奈の前だとちょっと楽しそうだよね」
湊は固まった。
中の空気も、少し止まった気がした。
栞の返事は少し遅れた。
「……そう見えますか?」
「見える」
「黒瀬さんほどではないと思います」
「は!?」
黒瀬の声が跳ねた。
「そこであたし出す?」
「すみません。でも、本当なので」
「それ、ずるいって」
栞が少しだけ笑う。
「黒瀬さんは、朝比奈くんと話す時、わかりやすいです」
「白瀬もでしょ」
黒瀬はすぐに返した。
今度は栞の方が言葉に詰まった。
「……私も、ですか?」
「うん」
「そうですか」
「朝比奈と話す時、ちょっと柔らかい」
その言葉は、まるで莉子が黒瀬へ言った言葉の逆みたいだった。
栞はしばらく黙った。
黒瀬も何も言わない。
教室の奥で、椅子を引く音が一つした。たぶん最後に残っていたクラスメイトが帰ったのだろう。廊下へ出ていく足音が遠ざかる。
本当に、二人だけに近い空気になった。
栞が静かに言った。
「そうですね」
認めた。
黒瀬は少し驚いたようだった。
「認めるんだ」
「はい。朝比奈くんと話すのは、楽しいので」
「普通に言う」
「黒瀬さんも、そうではありませんか?」
「……」
黒瀬はすぐには答えなかった。
でも、逃げもしなかった。
「……まあ」
小さな声。
「楽しくないわけじゃない」
「黒瀬さんらしい言い方ですね」
「何それ」
「いいと思います」
「またそういう」
黒瀬の声が少しだけ柔らかくなった。
栞は続ける。
「私は、黒瀬さんのそういうところが少し羨ましいです」
「羨ましい?」
「はい。言い方は不器用でも、ちゃんと動くところです」
「……動く?」
「朝比奈くんの席へ行くところ。メッセージを送るところ。お礼を言うところ。雑誌を貸してくれたところ」
「それ、全部見てたの」
「見えました」
「ずる」
「すみません」
「謝るの早い」
黒瀬は少しだけ笑ったようだった。
「でも、白瀬の方が強いじゃん」
「そうでしょうか」
「強いよ。本貸して、しおり挟んで、感想聞いて、雑誌まで読んで」
「それは、私なりに動いたつもりです」
「ほら。やっぱ強い」
黒瀬の声に、もう刺々しさはほとんどない。
むしろ、少し悔しそうで、少し認めている。
栞は小さく言った。
「黒瀬さん」
「何」
「私は、黒瀬さんが敵ではなくてよかったと思っています」
黒瀬が黙った。
湊も、廊下で息を止めた。
その言葉は、かなりまっすぐだった。
「……敵って」
「変な言い方でした」
「いや」
黒瀬は少し間を置いた。
「あたしも、白瀬のこと敵ではないと思ってる」
「はい」
「ライバルっぽいけど」
「はい」
「でも、敵じゃない」
その声は、昨日の夜に湊へ言った時より、少しだけはっきりしていた。
栞が優しく答える。
「私も、そう思います」
「……そっか」
黒瀬は小さく息を吐いた。
「でも、朝比奈のこと見すぎるのはむかつく」
「気をつけます」
「いや、気をつけられても変」
「難しいですね」
「難しいんだって」
二人の声が、ほんの少し笑った。
湊はそこで、ようやく入るタイミングを探した。
このまま聞いているのはさすがによくない。
わざと少し足音を立てて、教室の扉を開ける。
「戻った」
黒瀬と栞が同時にこちらを見た。
黒瀬の顔が一瞬で赤くなる。
「……いつからいた?」
「今」
「ほんと?」
「廊下を戻ってきたところ」
半分くらい嘘だった。
黒瀬が目を細める。
「今、半分くらい嘘ついた顔した」
「黒瀬、最近本当に顔で読むな」
「顔に出るからでしょ」
栞も少しだけ頬を赤くしている。
「朝比奈くん、もしかして少し聞こえていましたか?」
湊は観念した。
「少しだけ」
「少しってどこから」
黒瀬が詰めてくる。
「小テストありがとうのあたり」
「最初からじゃん!」
「声が聞こえたんだよ」
「入ってくればよかったでしょ!」
「入りづらかった」
「だからって聞くな!」
「ごめん」
「謝るの早い!」
黒瀬は完全に動揺していた。
けれど、怒っているというより、恥ずかしさで騒いでいるだけだ。
栞は少しだけ俯いてから、静かに言った。
「黒瀬さんと、少し話せました」
「うん。聞こえてた」
「だから言うなって!」
黒瀬が湊を睨む。
湊は苦笑した。
「でも、よかったと思う」
「何が」
「二人で話せたこと」
黒瀬は言葉に詰まった。
栞も、少しだけ目を伏せる。
「……まあ」
黒瀬は視線を逸らした。
「悪くはなかった」
栞が小さく笑う。
「私もです」
「そこで合わせるの、ずるい」
「すみません」
「謝るの早い」
いつものやり取り。
でも、今までより少し自然だった。
放課後の教室に、斜めの夕方の光が入っている。
机の位置は変わった。
距離も変わった。
それでも、黒瀬と栞は、湊がいない時間に少しだけ話した。
それは小さな変化だった。
けれど、かなり大きな一歩だった。
帰り支度をしながら、黒瀬が湊のところへ来た。
「朝比奈」
「何?」
「今日、夜行く」
「小テストの話?」
「それも」
「白瀬さんとの話?」
黒瀬が固まる。
「……それは言わなくていい」
「でも話すだろ」
「話すけど、先に言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止って言ってるでしょ」
黒瀬はむくれた。
けれど、すぐに小さく続ける。
「……今日、白瀬と話せた」
「うん」
「変だった」
「嫌だった?」
「嫌じゃない」
即答だった。
「でも、変」
「そっか」
「あと、疲れた」
「栞と話すと、ちゃんとしなきゃってなる?」
「うん」
「昨日も言ってたな」
「何回でも言う」
黒瀬は少しだけ笑った。
「カフェラテ」
「当然?」
「当然」
夜八時半。
スマホが震えた。
『今日、行く』
湊は返信する。
『白瀬さんとの話も?』
『言うな』
『カフェラテ?』
『当然』
少しして、もう一通。
『聞こえてたの、どこまで?』
湊は迷った。
正直に全部言うべきか。
いや、全部と言っても全部ではない。
でも、黒瀬にはどうせ顔でばれる。
『敵じゃない、のところは聞こえた』
既読。
長い沈黙。
『最低』
『ごめん』
『でも、まあ、そこならいい』
湊は少しだけ笑った。
九時。
インターホンが鳴る。
ドアを開けると、黒瀬はいつもより少しだけ照れた顔で立っていた。
「……遅」
「今日は二人きりで話せた日だったな」
「開幕で言うな」
「悪い」
「悪いと思ってない」
「半分くらいは」
「禁止!」
黒瀬は靴を脱ぎ、部屋へ上がる。
ソファに座り、クッションを抱える。
湊がカフェラテを出すと、黒瀬はカップを両手で包んだ。
「白瀬と二人で話すの、変だった」
「うん」
「でも、嫌じゃなかった」
「うん」
「あの子、やっぱ強い」
「今日も出たな」
「出るし」
黒瀬はカフェラテを一口飲む。
「でも、敵じゃない」
「うん」
「ライバルっぽいけど」
「うん」
「そこは忘れないで」
その言葉に、湊は少しだけ息を止めた。
黒瀬は自分で言ってから、顔を赤くする。
「……今のなし」
「無理」
「知ってた」
「これは無理だな」
「最低」
けれど、黒瀬は逃げなかった。
クッションを抱えたまま、少しだけ湊を見る。
「白瀬も、朝比奈と話す時楽しそうだった」
「そうなのか」
「うん」
「黒瀬も?」
「……言わない」
「さっき、楽しくないわけじゃないって言ってた」
「聞いてたんじゃん!」
「ごめん」
「ほんと最低」
黒瀬は顔を赤くしてクッションに顔を埋めた。
それでも、しばらくしてから小さく言った。
「……まあ、楽しいけど」
その声は、クッション越しでもちゃんと届いた。
メガネっ娘とギャルが、放課後に二人きりになる。
そこで交わされた会話は、ぎこちなくて、少し照れくさくて、でも確かに二人だけのものだった。
湊が間にいなくても、二人は少しだけ話せる。
そのことが、また三人の距離を変え始めていた。




