ep.89 柔らかくなったギャルは、夜の部屋で少しだけ甘える
黒瀬琉衣奈は、その夜いつもより少し静かだった。
インターホンが鳴って、朝比奈湊がドアを開ける。
そこまではいつも通り。
そして、玄関の前に立っていた黒瀬も、いつも通り少しだけむくれた顔をしていた。
「……遅」
「今日は普通だっただろ」
「気分の問題」
「それ便利だな」
「便利」
返しもいつも通り。
けれど、靴を脱ぐ動きが少しだけゆっくりだった。
部屋へ上がる足取りも、いつもより静かだ。ソファへ向かい、定位置に座って、クッションを抱える。そこまでは同じなのに、クッションを抱えたあと、黒瀬はすぐに文句を言い始めなかった。
湊はキッチンへ向かいながら聞く。
「今日は莉子さんの話?」
「……半分」
「半分か」
「使うなって言いたいけど、今日はあたしが使ったから言えない」
「律儀だな」
「うるさい」
声にいつもの鋭さが少ない。
湊はカフェラテを二つ作って、ローテーブルに置いた。
黒瀬はカップを両手で包む。
その仕草も、もう見慣れてきた。
最初は客みたいだったのに、今は完全にこの部屋の夜の一部になっている。
「で、半分は莉子さん?」
「うん」
「柔らかくなったって話?」
黒瀬はカップを見つめたまま、少しだけ頷いた。
「それ」
「気にしてる?」
「気にするでしょ」
「悪い意味じゃないって言ってたんだろ」
「言ってたけど」
黒瀬はクッションを抱え直す。
「自分じゃわかんないじゃん。変わったとか、柔らかくなったとか」
「まあ、そうだな」
「前より楽しそう、とか」
「俺も言ったな」
「言った」
黒瀬は少しだけ頬を赤くした。
「そういうの、言われると困る」
「嫌?」
「嫌じゃない」
即答だった。
それから、少し間を置いて続ける。
「嫌じゃないけど、怖い」
その声が思ったより小さくて、湊は少しだけ姿勢を正した。
「怖い?」
「うん」
黒瀬はカフェラテの湯気を見る。
「柔らかくなったって、いい意味ならいいけどさ」
「うん」
「前のあたしがなくなるみたいで、ちょっと変」
湊はすぐには返さなかった。
黒瀬がこういう不安を口にするのは、前より増えた。
それは確かに“柔らかくなった”のだと思う。
でも、それをそのまま言えば、黒瀬はきっと逃げる。
「なくなってないと思う」
湊はゆっくり言った。
「黒瀬は黒瀬のままだろ。莉子さんにも普通にうざって言うし、俺にもすぐ最低って言うし」
「そこ?」
「そこ」
「褒めてる?」
「かなり」
「変な褒め方」
黒瀬は少しだけ笑った。
その笑いが、今日はすぐ消えなかった。
「でも、前より笑うようになったのは本当だと思う」
「……また言う」
「言う」
「普通に言うなって」
「今は言ったほうがいい気がした」
黒瀬はカップを持ったまま、湊を見た。
少しだけ困った顔だった。
怒っているわけではない。
照れているだけでもない。
受け取り方を探している顔だ。
「いい意味?」
「うん。いい意味」
「ほんとに?」
「ほんと」
「……ならいいし」
黒瀬は小さく言って、カフェラテを飲んだ。
湊はテレビをつけた。
黒瀬が好きそうな、軽いバラエティ動画。
今日は深く考える話題が続きそうだったから、画面くらいは軽い方がいい。
黒瀬もそれを求めていたのか、特に文句を言わなかった。
ソファに座る位置は、いつも通り。
けれど、今日は少しだけ距離が近い。
最初からそうだったのか、いつの間にそうなったのか、湊にはよくわからなかった。
黒瀬はクッションを抱えたまま、画面を見ている。
笑うところでは笑う。
ただ、いつもより反応が少し遅い。
湊が横目で見ると、黒瀬はすぐに言った。
「見すぎ」
「ばれてた?」
「ばれるし」
「悪い」
「謝るの早い」
「今日は何が正解なんだ」
「知らない」
黒瀬は少し笑った。
その笑い方が、また少し柔らかい。
湊はテレビに視線を戻す。
動画の中では、芸人が変なタイミングで転んでいた。黒瀬が少し遅れて笑う。
「こういう何も考えないやつ、楽」
「最近、本とか席替えとか、考えること多かったからな」
「うん」
黒瀬はクッションに顎を乗せた。
「白瀬のことも、莉子のことも、席のことも、メッセージのことも、服のことも」
「並べると多いな」
「多い。多すぎ」
「疲れた?」
「ちょっと」
黒瀬は素直に認めた。
それから、小さく付け足す。
「でも、嫌じゃない」
「そっか」
「疲れるけど、嫌じゃないことが増えた」
その言葉は、何気なく出たようでいて、かなり大きかった。
湊は少しだけ胸の奥が温かくなる。
「それも、いい意味で柔らかくなったってことじゃないか」
「またそこ戻す」
「戻した」
「最低」
でも黒瀬の声は弱い。
動画が進む。
黒瀬はだんだん眠そうになってきた。
カフェラテを飲み終えたカップをテーブルに置き、クッションを抱えたまま、少しずつ体が横へ傾いている。
「眠い?」
「眠くない」
「それ眠い時のやつ」
「違うし」
「目、半分閉じてる」
「半分使うな」
「便利だから」
「禁止」
黒瀬はそう言ったが、次の瞬間、小さくあくびをした。
自分でもごまかせないと思ったのか、黙ってクッションに顔を埋める。
「帰る?」
湊が聞くと、黒瀬は首を横に振った。
「もうちょっと」
「無理するなよ」
「無理じゃない」
「本当?」
「……ちょっとだけ、ここ楽」
湊は、返事を忘れた。
黒瀬はクッションに顔を半分埋めたまま、目だけこちらへ向ける。
「今のなし」
「無理」
「言うと思った」
「これは無理だろ」
「最低」
そう言いながらも、黒瀬は立ち上がらなかった。
むしろ、少しだけソファの背に体を預けた。
湊との距離が、また少し近くなる。
肩が触れるほどではない。
でも、離れてもいない。
動画の音だけが部屋に流れる。
しばらくして、黒瀬の体が少し傾いた。
眠気でバランスを崩したのだろう。
ふわり、と肩が湊の腕に触れた。
ほんの軽く。
けれど、二人とも固まった。
テレビの中だけが騒がしい。
黒瀬はすぐに体を起こそうとしたが、完全には離れなかった。
「……今の」
「うん」
「なし」
「無理」
「早い」
「今日は特に無理」
「ほんと最低」
黒瀬は顔を赤くして、クッションを抱え直した。
けれど、今度は前みたいに大きく距離を取らなかった。
肩が触れないくらい。
でも、少し動けば触れるくらい。
その距離に落ち着いた。
湊は心臓の音が聞こえないか心配になった。
黒瀬は画面を見ているふりをしている。
けれど、たぶん見ていない。
耳が赤い。
「……朝比奈」
「ん?」
「今の、変じゃなかった?」
「変って?」
「その、寄りかかったやつ」
「眠かっただけだろ」
「そうだけど」
「変じゃない」
「ほんと?」
「うん」
黒瀬は少しだけ黙った。
それから、小さく言う。
「ちょっとだけ楽だった」
湊は、今度こそ何も言えなくなった。
黒瀬はすぐにクッションで顔を隠す。
「……今のもなし」
「無理」
「知ってた」
「うん」
「でも言っただけ」
黒瀬の声は、クッション越しに少しくぐもっていた。
「ここだと、ちょっとだけ力抜ける」
湊はテレビの音を少し下げた。
黒瀬が顔を上げる。
「何で音下げるの」
「聞こえやすくなるかと思って」
「何を」
「黒瀬の声」
黒瀬は固まった。
それから、真っ赤になった。
「そういうの、ほんと普通に言うなって!」
「悪い」
「悪いと思ってない!」
「少しは」
「少しって言った!」
黒瀬はクッションを湊の腕に軽く押しつけた。
叩くほどではない。
押すだけ。
その力も、今日は少し柔らかい。
「でも」
黒瀬は小さく続けた。
「音、下げたままでいい」
「うん」
それだけで、部屋の空気が少し静かになる。
雨の日の傘とも違う。
本を読んだ夜とも違う。
ただ動画を流して、カフェラテを飲んで、眠気に負けそうになりながら少しだけ寄りかかる。
何でもない夜。
なのに、湊にはやけに残る気がした。
「……あたし、そんな変わった?」
黒瀬がまた聞いた。
今度は、さっきより少し小さな声だった。
「変わったと思う」
「悪い意味?」
「いい意味」
「即答」
「そこは迷わない」
「……ずるい」
「今日はずるい?」
「ずっと」
黒瀬はクッションに顎を乗せたまま、少し笑った。
「前より笑うようになったって」
「うん」
「たぶん、ここで笑うこと増えたからだと思う」
湊は黙った。
黒瀬は自分で言って、また少し赤くなる。
「……あと、学校でも」
「うん」
「莉子がうざいし、白瀬が強いし、朝比奈が変だから」
「俺、変枠なのか」
「変枠」
「ひどいな」
「でも」
黒瀬は視線を落とした。
「そのせいで、ちょっと楽しい」
湊は、今度はちゃんと返した。
「ならよかった」
黒瀬はすぐに目を逸らした。
「そういう返し、安心するからむかつく」
「むかつくのか」
「うん」
「でも嫌じゃない?」
「嫌じゃない」
いつもの言葉。
けれど今日のそれは、かなり近いところから届いた。
帰る時間が近づいても、黒瀬は少しだけ名残惜しそうだった。
けれど、時計を見て小さく息を吐く。
「そろそろ帰る」
「送る?」
「玄関まででいい」
「それはいつも通りだろ」
「うん」
黒瀬は立ち上がり、少しだけ伸びをした。
眠気が残っているのか、動きがいつもよりゆるい。
玄関で靴を履く時、黒瀬はふと振り返った。
「朝比奈」
「何?」
「今日、ちょっと甘えた?」
自分で聞いて、自分で顔を赤くしている。
湊は少し考えてから答えた。
「少し」
「やっぱり?」
「うん」
「変?」
「変じゃない」
「ほんと?」
「うん」
黒瀬は少しだけ安心した顔をした。
そして、いつものように言う。
「……今の、莉子に言ったら怒る」
「言わないよ」
「白瀬にも」
「言わない」
「絶対」
「絶対」
黒瀬は小さく頷いた。
ドアを開ける前に、もう一度だけ言う。
「でも、ちょっと楽だった」
「うん」
「だから、今のは……なしじゃなくて」
黒瀬は言葉を探した。
湊は待った。
「……保留」
「保留?」
「うん。なしじゃないけど、まだ認めない」
「黒瀬らしいな」
「便利に使うな」
黒瀬は少しだけ笑った。
「じゃ」
「気をつけて」
「親か」
ドアが閉まる。
湊は部屋に戻り、ソファを見る。
さっきまで黒瀬が座っていた場所のクッションが、少しだけ沈んでいる。
柔らかくなったギャルは、夜の部屋で少しだけ甘えた。
本人はまだ、それを認めきれない。
けれど、なしにはしなかった。
保留。
その曖昧な言葉が、今の二人には妙にちょうどよかった。




